愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(59)その2 松平記

2024年01月29日 07時33分47秒 | 松平記
小谷甚左衛門
 設楽郡若しくは碧海郡の武将らしい。三河一向一揆が蜂起すると甚左衛門は鳥居又右衛門重正らとともに一揆方に与し、佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。ただし『参州一向宗乱記』は甚左衛門が松平氏方に属していたとして、永禄7年(1564年)松平氏方の斥候が上宮寺方に討たれて首を曝された際、甚左衛門はこれに憤って先駆けして一揆勢を討ち、上宮寺と鳥居党の戦端を切ったとしている。また、天正3年の大賀弥四郎事件(武田氏内通計画)に加わった。しかし同志の山田八蔵重英が翻意して城主松平信康に密告して計画が露見したため、甚左衛門は渡辺半蔵守綱の追走を振り切って遠江二俣城へ逃走し、やがて甲斐国へと逃れたという。(ウィキペディア)
太田善太夫
 永禄6年(1563)に生まれた太田吉政はヒットした。(もちろん別人)上宮寺のサイトには、「三河太田発祥の地記念碑」なるものがあり、上宮寺開創である聖徳太子の手助けをした太田力丸に関するものとして、建てられています。その横に「太田の先人であり戦国時代に活躍した太田善太夫吉政(おおたぜんだゆうよしまさ)の墓碑も安置されています。」とありました。これは、それっぽいので、一度確認しなければと思います。
安藤金助 特にヒットせず。
山田八蔵
 山田八蔵重英(しげふさ)。小谷甚左衛門で述べたように、大賀弥四郎内通事件でその陰謀を徳川家康に通報した人物。「この功により碧海郡柿崎に500石の加増を受け、後に同郡大浜や額田郡上地も加増された。上の経緯から「訴人八蔵」の異名があったという。天正16年(1588年)岡崎で同輩の渥美弥三郎と口論し、殺害された。所領はすべて没収となった。天正17年(1589年)養子の重次が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した。」(ウィキペディア)
安藤太郎左衛門
 三河に安藤氏という国衆があり、その一族であると思います。誰か特定できませんでした。
太田弥大夫 特にヒットせず。先に調べた太田善太夫と関係があるのかも知れません。
太田彦六郎 特にヒットせず。先の太田善太夫、太田弥太夫と同族かも知れません。
安藤治右衛門
 安藤定次のこと。「徳川家康に仕え、永禄6年(1563年)の三河一向一揆に加わったが赦免される。家康の子松平信康にも仕え、信康の死後は石川数正や内藤家長に属した。天正18年(1590年)の小田原征伐では内藤軍に属し武功を挙げた。」(ウィキペディア)この人は、徳川家康の関東移封の際、相模国鎌倉郡阿久和村に知行を得、それ以降子孫は、「阿久和安藤家」として幕末まで続いたそうです。
矢田作十郎
 松平広忠、徳川家康2代に仕え、勇猛で知られた武将だったようです。この戦いの渦中、小豆坂で討死をしてしまいます。
戸田三郎右衛門
 この後記述されるように、はじめは一揆側に付きましたが、徳川家康側にもどり一揆勢と戦いました。

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