愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

国吉城学習会(第3回) 福井県美浜町

2019年08月26日 09時00分21秒 | 福井県

学習会講師 坂東佳子さん

2019年度の国吉城歴史学習会も今回で3回目です。今回は、都合で第4回と入れ替わりでした。講師は、坂東佳子さんといいます。敦賀市博物館に勤めていらっしゃいます。

敦賀市博物館

タイトルは、「金ヶ崎の退き口」についてです。「金ヶ崎の退き口」とは以下のような話です。
元亀元年(1570)織田信長は、若狭国武藤氏の成敗を口実に越前朝倉攻めを開始しました。敦賀の朝倉景恒はじめ引檀の城や木の芽峠の城を落とし、いよいよ朝倉の本拠地めがけて攻め入ろうとしていた矢先に、「近江の浅井が裏切った」という報せが入り、挟み撃ちにされてはかなわんと、金ヶ崎から撤退したというお話です。

講演では、この話を記載する「信長公記」(太田牛一)を中心に「信長記」(小瀬甫庵)や「国吉籠城記」などの文献をもとに金ヶ崎の戦いの実際に迫るというものでした。

お話では、有名な信長の「是非に及ばず」というセリフは、信長公記に3回記録されている(甫庵信長記には2回だそうです)とか、外岡慎一郎氏とか須田悦生氏とかの歴史学者から学んだことの話などが話され、面白い講演でした。
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美濃金山城(3) 岐阜県可児市

2019年08月21日 09時35分12秒 | 岐阜県
本丸にやっと着きました。本丸には、石碑がありました。

金山城石碑

さらに驚いたことに、館の礎石が残っているとのことです。

本丸に残る礎石

礎石のある建物で思い出すのは、高知県の岡豊城です。あのとき、元館長さんが「岡豊城には、礎石があるということそれを礎石のある柱で支えている建物、つまり高層の建物、瓦ぶきの建物があったということが、推定される。」と力説しておられたのを思い出します。

金山城は森忠政の時代にかなり整備されたとされています。森忠政の時代は、本能寺の変から関ケ原の合戦までなので、まさに豊臣時代です。この時代に石垣、天守閣、礎石、瓦ぶきなどがあっても全然問題はないと思います。逆に、こうした礎石の発見からこの金山城が豊臣時代に整備されたのではないかと考えられるのだと思います。

排水溝の跡も見つかっています。

排水溝の跡

また金山城は、自然の岩盤を取り込んだ石垣を造っています。本丸北側の石垣にも自然の岩盤が見られました。そして、水対策としての集水桝という施設もあったそうです。

自然の岩盤と集水桝

土の城もいいけど、石垣のある山城もいいなあと、満足感に浸りながら、最後に米蔵跡の石垣を見て帰路につきました。

米蔵跡の石垣

美濃金山城 おしまい
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美濃金山城(2) 岐阜県可児市

2019年08月20日 08時23分43秒 | 岐阜県

金山城案内図(現地案内板、「古城山払い下げ記念碑」の説明版の図に曲輪や虎口を書き加えました。図の「現在地」は「古城山払い下げ記念碑」の場所を示しています)

出丸駐車場も遺構になっています。

出丸駐車場の石垣 野面積みで組まれています。


出丸南東の石垣

この出丸の石垣は、2004年に積み直されているそうです。(洋泉社「山城を歩く」)角の石垣も立派に組み直されていました。

出丸からの眺望も抜群でした。出丸だけでも十分見ごたえのある城で、来た甲斐があったと思いました。

出丸からの眺望

出丸から三の丸に入るとすぐに二の丸下の石垣が見えました。そして、その石垣に「破城」の説明がありました。破城するときは、石垣の天端(一番上)と角を破壊するそうです。そのことで、天端からの建物を造れなくするようにし、また他の人にもこの城は破城されているということを示すそうです。

破城の痕跡を示す石垣

そこから左を見ますと、自然の岩石で造ったという虎口が見えました。

自然の岩石を使った虎口


二の丸

二の丸には、二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの諸施設があったそうです。物見櫓の跡は、わかりました。

物見櫓跡

少し盛り上がっていて、礎石っぽい石が並んでいます。物見櫓も礎石を使って建てたのでしょうか。すごいです。次に枡形虎口(ますがたこぐち)が見えてきました。


本丸下の枡形虎口 向かって左から撮影

さらに、本丸の南西隅石がみえました。算木積みだそうです。破城したときに角の石は壊したので、残っていないと思うのですが、後で積み直したのでしょうか?


本丸南西隅石

美濃金山城 つづく
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美濃金山城(1) 岐阜県可児市

2019年08月19日 10時20分49秒 | 岐阜県
8月18日、岐阜県可児市にある美濃金山城を尋ねました。金山城は、斎藤正義という武将によって天文6年(1537)に築城されました。当時は、「烏峰城(うほうじょう)」と呼んでいました。しかし、斉藤正義は、天文17年(1548)家臣である久々利頼興から酒宴に招かれ、そこで暗殺されたそうです。

金山城の歴史を伝える案内板(本丸)

その後しばらく城主不在の時がありましたが、永禄8年(1565)織田信長の勢力が美濃に及び、森可成(よしなり)がこの城に入り、名前も金山城(兼山城)としました。金山城は、森氏によって、信長の美濃支配の拠点になりました。
その森可成は、姉川の戦いで戦死し、金山城は子の森長可(ながよし)が継ぎました。森長可はその活躍を織田信長に認められ、信濃国に領地を与えられ転封しました。金山城は、弟の森蘭丸が継ぎました。しかし、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が死に、森蘭丸も討死してしまいました。森長可も天正14年(1584)小牧・長久手の戦いで戦死してしまいます。

武蔵塚 (小牧・長久手の戦いで、同じ豊臣方の池田恒興とともに戦死しました。恒興は、「勝入塚」(池田勝入斎)として、森長可は、「武蔵塚」(森武蔵守)として石碑が建てられました。)

そこで、金山城は長可の弟の忠政が継ぐことになりました。忠政は、はじめは豊臣側についていましたが、豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いでは東軍として戦いました。
慶長5年(1600)森忠政は、信濃に転封となり、金山城は、犬山城城主石川光吉(三吉、貞清)の管理する城となりました。しかし、慶長6年(1601)破却されたそうです。


犬山城 (犬山城は、城主石川光吉の時、金山城を移築したとされていたそうですが、1961年の犬山城の解体修理の際、その痕跡が全く見つからなかったため、現在は否定されているそうです。(ウィキペディア))

さて、金山城は下から登ってもよかったのですが、この天候(暑すぎます)なので、出丸駐車場まで車で行くことにしました。

美濃金山城 つづく
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白山白川郷ホワイトロード 石川県・岐阜県

2019年08月17日 06時50分30秒 | 日記
夏休み、家族で岐阜・石川方面、白山白川郷ホワイトロードを走りました。
通行料は1600円と結構な値段でしたが、行って見ると素晴らしい景色で、納得しました。

白山白川郷ホワイトロードの位置 図の赤い部分の道路


絶景1


絶景2 ホワイトロードを写したものですが、急峻な山の斜面をかなり削ってこの道を造ったことが分かります。


絶景3 瓢箪(ふくべ)の大滝


絶景4 姥が滝 この滝を正面に見ながらの足湯がありました。

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