島津義弘陣所跡
石田三成の陣所跡を南の方に歩いていきますと、大きな道があり、それを渡りますと、小さな集落になります。「小池」という集落です。ここに島津義弘の陣所がありました。
島津義弘陣所跡
島津の退き口
島津義弘は、薩摩の戦国大名島津義久の弟で鬼島津と異名をとった勇猛な武将です。兄の島津義久とともに勢力を拡大し、南九州を平定しました。島津が薩摩で明治維新まで大名として存在した基礎を作った人物といえます。その有名な話が関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」です。
以下陣所跡の案内板の記述を掲載します。
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の雄姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。
「島津の退き口」を伝える案内板
関ヶ原戦跡踏破隊
ところがよく見ると下の方にもうひとつ案内板があります。そこにはこんなことが書いてありました。
「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑
鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原戦跡踏破隊は、昭和35年から毎年夏休みを利用して関ヶ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。(途中電車等も利用)
この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて設置しています。
また、関ヶ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で、関ヶ原町と日置市(旧伊集院町)は、昭和38年に兄弟都市盟約を結んでいます。
すごいことですね。郷土の先人たちの偉業に学び、青少年たちが関ヶ原から大阪までを踏破しているというのです。義弘の思い、鹿児島(薩摩)の意地が400年以上もたって受け継がれているとは、本当に驚きました。
関ヶ原戦跡踏破隊の名碑
江戸時代には薩摩藩から木曽川の河川工事に947名もの武士たちが動員され、何人もの人が自殺をしたり、病気で亡くなったりということがありました。(宝暦治水)薩摩と尾張・美濃は深い関係があると思いました。
石田三成の陣所跡を南の方に歩いていきますと、大きな道があり、それを渡りますと、小さな集落になります。「小池」という集落です。ここに島津義弘の陣所がありました。
島津義弘陣所跡
島津の退き口
島津義弘は、薩摩の戦国大名島津義久の弟で鬼島津と異名をとった勇猛な武将です。兄の島津義久とともに勢力を拡大し、南九州を平定しました。島津が薩摩で明治維新まで大名として存在した基礎を作った人物といえます。その有名な話が関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」です。
以下陣所跡の案内板の記述を掲載します。
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の雄姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。
「島津の退き口」を伝える案内板
関ヶ原戦跡踏破隊
ところがよく見ると下の方にもうひとつ案内板があります。そこにはこんなことが書いてありました。
「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑
鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原戦跡踏破隊は、昭和35年から毎年夏休みを利用して関ヶ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。(途中電車等も利用)
この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて設置しています。
また、関ヶ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で、関ヶ原町と日置市(旧伊集院町)は、昭和38年に兄弟都市盟約を結んでいます。
すごいことですね。郷土の先人たちの偉業に学び、青少年たちが関ヶ原から大阪までを踏破しているというのです。義弘の思い、鹿児島(薩摩)の意地が400年以上もたって受け継がれているとは、本当に驚きました。
関ヶ原戦跡踏破隊の名碑
江戸時代には薩摩藩から木曽川の河川工事に947名もの武士たちが動員され、何人もの人が自殺をしたり、病気で亡くなったりということがありました。(宝暦治水)薩摩と尾張・美濃は深い関係があると思いました。