愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

亀山城、古宮城の見学会 愛教労城の会

2019年10月30日 19時06分33秒 | 愛教労 城の会
こんなに楽しい散策はありませんでした

広まる城への関心
 愛教労城の会では、10月26日(土)2回目の城めぐりを行いました。お城は新城市作手地方の亀山城と古宮城です。
亀山城は、長篠の戦いで武田勝頼と戦った奥平氏の先祖が代々守ってきたお城です。一方古宮城は、武田信玄の三河攻略の拠点として造られたお城と言われています。
 前日にブログを見て参加したいという方から連絡があり、参加者は9名になりました。お城への関心の広がりを感じました。

亀山城
 亀山城では、西側の竪堀(たてぼり)を見たり、本丸から街道の方を見下ろしたりして土の城の醍醐味を満喫しました。

亀山城の竪堀を見学

古宮城
 古宮城では、大手口の近くから順番に登っていき、城の守りの堅固さにみんな驚きました。参加者から「空堀と横堀と堀切とはどう違うのか」という質問が出たりして、みんなでああだこうだと議論に花が咲きました。また、古宮城は一応武田氏が造ったとされていますが、徳川氏かもしれないということも聞かされ、歴史への関心が一段と高まりました。

古宮城中央の堀切を見学

 最後に道の駅「つくで手作り村」で次回の相談をして別れました。次回は1月に知多地方の「河和城」を訪れることになりました。

【参加者の感想】
 昨日は、楽しい企画、ありがとうございました。今までは、ただただ城跡を散策し、その場にあった資料を読みながら、『ほー』と感心しているくらいでしたが、こうして、素敵なガイドと資料は、山城の魅力をさらに高めました。実際にその場に立って、説明を聞くとその意味深さに納得してしまいます。こんなに楽しい散策はありませんでした。愛教労城の会はもっともっと多くの人に知っていただきたいものですね。 
      
 資料まで付けていただいたのでより理解が深まりました。山城には岩村城と明智城へ行ったことがありますが、見るだけではイメージが湧きませんでした。立地条件なども知ることは理解や疑問が深まってより楽しめます。チョコや飴までいただき至れり尽くせりでした。ありがとうございました。こちらからは、ふだんいかないところにも行けてその点でも良かったです。三河は広いですね。              

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蒲形(かまがた)城 蒲郡市

2019年10月19日 19時22分25秒 | 蒲郡市
10月16日、蒲郡市の蒲形城に行きました。蒲形城は、別名下ノ郷城とも言います。以前上之郷城に行ったことがありますが、その上之郷城の分家みたいな感じです。天文年間(1532~55)に鵜殿長在(ながあり)が居住したそうです。

鵜殿家の系図 

蒲形城には、下郷鵜殿家が居住しました。長龍の時家康の関東移封があり、下郷鵜殿家も関東に行きました。その後、深溝松平の松平忠利が入った後、竹谷松平清昌が、この城の東に陣屋を構え、明治まで続いたようです。

三河宝飯 蒲形(諸国古城の図より)

黒い太線で囲まれた形が蒲形城です。図の右側のやや色の濃い部分が陣屋の部分です。


蒲郡高校

蒲形城・陣屋は、今は蒲郡高校になっています。この高校の南の方に土塁が残っているとのことでしたので、さっそく探しました。

土塁跡の目印の鳥居

目印は、この赤い鳥居の神社です。竹島神社というそうで、お稲荷さんでした。


蒲形城土塁跡のスケッチ


土塁跡の北端


スケッチの右側の土塁跡


スケッチ左側の小さい土塁と右側の大きな土塁

この土塁跡は、はたして蒲形城のものなのか、陣屋のものなのか、よく分かりません。しかし、ここに土塁があるということは、この近くに城が確かにあったということが分かりました。

さらに陣屋の大手門の復元があるということで、蒲郡市博物館に行きました。

陣屋大手門の復元 外から


陣屋大手門の復元 中から

いわゆる高麗門というそうです。
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成海神社例大祭 名古屋市緑区

2019年10月14日 06時38分45秒 | 名古屋市緑区
大型で強い台風19号が特に信州や関東地方を襲いました、河川の氾濫により多くの家などが浸水の被害にあわれました。また、亡くなった方も見えます。哀悼の意を表明します。また、一日も早い復興を祈ります。

10月13日は、秋晴れになりました。
名古屋市緑区は歴史の古い町です。
成海神社では山車が出て賑やかにお祭りが行われるということを聞き、行ってみることにしました。

成海神社10月13日例大祭の予定

10時ごろでしょうか、現地神社付近についたのは。ちょうど山車が山車庫から出たばかりでした。「城乃下町」の山車です。

交差点で90度に方向を転換する山車

どこに行くのだろうとこの町の山車についていくことにしました。すると、神社の近くの少し広いスペースに4町の山車が集まっていました。丹下町、北浦町、花井町、城之下町の4つです。鳴海にはもっと町があるので、待っていればあとの町の山車が来たのかもしれませんが、残念ながら時間がなく、この場を去ることにしました。次に来たときは、全部一通り見たいものです。

神社の近くに集結した山車 奥の山車にはからくり人形が付いていました。


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東端(ひがしばた)城 安城市

2019年10月10日 12時20分36秒 | 安城市
安城市の東端(ひがしばた)城に行きました。東端城は安城市の西南にあります。浄土真宗本願寺派を西三河の地で広めた上宮寺の如光が生まれたとされる「油が淵」の近くです。
油が淵の近くに地名として西端と東端があります。おそらく油が淵の西、東という意味で付けられた地名だと思います。西端は、現在碧南市になっていて町名としては存在していませんが、西端小学校、西端中学校、西端交差点等として残っています。東端町は、安城市になっていて、町名として残っています。

東端城の位置 これまで訪れた安城市の城も合わせて記しました。東端城は、西南の方です。

東端城の歴史(永井直勝)は、現地の案内に詳しく説明が書かれています。

東端城(永井直勝)の案内

やや長くなりますが、分かりやすいので、そのまま紹介します。
「東端城と城主永井伝八郎直勝
東端城は、天正8年(1580)大浜郷にて羽城の司令を勤める長田久右衛門重元の長子尚勝(ひさかつ)が築いた。
城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある代表的な城郭であった。蓬左文庫蔵の「東端城絵図」に見る東端城の姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。
東端城が歴史の表舞台に出るのは尚勝の弟直勝(なおかつ)によってである。直勝は13歳の時に家康の長男松平信康に仕えたが、天正7年(1579)に信康が自刃すると大浜へかへり蟄居していた。しかしその後、18歳の時には家康に仕えるようになり、禄30貫を賜った。この時姓を長田から永井に改め、永井伝八郎直勝とした。
天正12年(1584)直勝22歳の時、初陣として小牧長久手の戦いに出陣した。ここで彼は敵将池田勝入斎恒興の首を取る大殊勲をたてた。これにより東端村1,000石の地を賜り、兄尚勝に代わって東端城城主となった。
その後関ケ原の戦いでも戦功を上げ、従来の領地に城ヶ入村、高取村を合わせて4,050石、さらに上総国、近江国で6,000石、合計1万50石となった。さらに大坂夏の陣では豊臣秀頼切腹見届けの大役を勤めた。この功績でこれまでの領地を改め、上野国小幡で1万石、近江で2,000石、笠間近在で2万石、合計3万2,000石を領有し常陸国笠間城の城主となった。このとき東端城を離れ、以後この城は廃城となる。
直勝は、その後も業績を上げ元和5年(1619)に常陸国新治(にいばり)郡柿岡、土浦両所にて2万石さらに同8年には新たに下総国内で2万石を加え、合計7万2,000石を領し、下総古河城城主となった。その間直勝は江戸にて評定所の奉行を勤めたが、寛永2年(1625)63歳で没した。」


東端城は、平地にあります。

東端城の概念図

西側から北にかけて土塁の跡が残っていました。

西側に残る土塁

土塁はぐるっと曲輪を囲んでいたと思われますが、はっきり残っているのは、西側、北側、及び東側でした。


北西土塁

北西側は、土塁の外に城山稲荷の社が立っていました。

この社の外側を見ると土地が窪んでいました。もしかしたら堀の跡かもしれません。

堀の跡か

ぐるっと回って東の方に出ると、隣の念空寺との間の道にでます。これがけっこう落ち込んだ感じで、堀があったように思えました。土塁は、東端城の東側にも続いていました。

東側の土塁と堀

そして外に出てみますと北西のところに小川が流れていました。これは堀だったのではないかと思いました。

北西側の堀跡

けっこう流れがあったので、もしかしたらただの小川かもしれません。彼岸花がまだ咲いていました。

今は安城市と碧南市に分かれていますが、大浜、西端、東端は深いつながりが昔はあったようです。永井直勝が大浜でも東端でも出てくるのは決して偶然ではないと思いました。
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後瀬山(のちせやま)城(4) 福井県小浜市

2019年10月09日 05時44分41秒 | 福井県
山上御殿
主郭を南の方に降りていきますと、山上御殿(2郭)の跡があります。土塁で囲まれていました。

山上御殿(2郭)の土塁

また、主郭とこの郭との間におびただしい石が転がっていました。

石が散乱している

この石は、山上御殿の周りを取り囲んでいた石垣なのでしょうか。

二の丸(山上御殿)イメージ図 主郭の案内板にあったイメージ図です。

北西部の遺構
山上御殿をあとにして、さらに北西に向かって山を降りて行きました。畝状竪堀を見たいと思ったからです。すると主郭から北西斜面上に堀切、土塁、曲輪を伴う遺構がありました。しかし、概要図にどういう遺構かが書いてないので、何の遺構なのか分かりません。しかし、何らかの遺構であると思いました。

北西斜面上の遺構

肝心の畝状竪堀は、一望に見渡せず、斜面上に何筋か見えただけでした。残念。もしかしたらここじゃないのかも知れません。概要図では山の斜面上に、しかも中腹にありますので、これっと特定できませんでした。

畝状竪堀群 横から見た所

ということで一度登ってみたかった後瀬山城に登りました。はじめの階段がえらくて大変でしたが、あとはなんとか登り切れました。最後の畝状竪堀をはっきり確認できず残念でした。

後瀬山城 おしまい
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