愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

丹下砦・善照寺砦・中島砦 名古屋市緑区

2020年08月22日 13時40分08秒 | 名古屋市緑区
第2回 丹下砦・善照寺砦・中島砦
織田信長に尽しながらも最後は追放された佐久間信盛


鳴海城を囲むように3つの砦が置かれています。

この3つの砦は、織田信長が今川の城である鳴海城を見張り、牽制するために造った付城(つけじろ)です。
丹下砦は古屋敷を整備して、水野帯刀等を守備につかせ、、善照寺砦は文字通りお寺を改修して砦とし、佐久間信盛等を守備につかせ、中島砦は小さな村だったのを砦とし、梶川隆英を守備につかせたそうです。
桶狭間の戦いで織田信長は、清須城から熱田神宮(上知我麻神社)を経て、上手の道を通って丹下砦、善照寺砦へと入ります。この時点で兵力は約二千人程でした。

丹下砦
丹下砦は、現在光明寺裏手の辺りと言われていますが、遺構はありません。しかし、ここから鳴海城がよく見え、見張り、牽制という点では大変いい所に立地していると思いました。鳴海城から信長軍に攻撃してくる気配がないことを信長は感じたのかも知れません。

丹下砦から鳴海城を臨む

善照寺砦
次に、信長は善照寺砦に入りました。善照寺砦は、鳴海城と丘続きで丘の東西のはずれに位置します。鳴海城から攻撃される危険があるために、堀切という防御施設が造られていたそうです。

善照寺砦と鳴海城の間の堀切跡。鳴海小東交差点から南にのびる道です。

善照寺砦は小高い丘の上にありますので、そこから鳴海、有松、大高の様子が一望のもとに見えます。今川義元が桶狭間山で休憩していること、鷲津、丸根の砦が敵に攻撃され燃えていること、さらに敵の一部が大高城でも休息している事、そして、何よりも今川勢の兵力が分散していることを見て取ったのだと思います。信長は勝機とみて、善照寺砦から中島砦へ移動しようとします。しかし、善照寺砦から中島砦への道は「深田」(低湿地帯)で、一本道です。敵に見つかり、攻撃される可能性が高いのです。すかさず家老が止めに入ります。「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども・・・」周りは低湿地、道は一本、しかも、わが兵が少ないことが丸見えです。もってのほかです。と家老たちが馬の轡を引き、口々に止めたのだが、信長は、それを振り切って中島砦への行軍を決行します。

中島砦跡 現在は住宅になっています。門の中に入ると、すぐ石碑があります。

佐久間信盛
善照寺砦を守っていたのは、佐久間信盛たちです。止めに入った家老とはこの佐久間信盛ではないかと思われます。佐久間信盛は織田家では重鎮の一人で、この後も数々の信長の戦いに参加し、武功を上げます。信長の天下統一への道に大きく貢献していました。しかし、少しずつ信長との関係がおかしくなり、信頼関係がなくなっていきます。そして天正8年(1580)息子信栄と共に信長から一九か条の折檻状を受け、織田家から追放処分となってしまいます。そして1582年高野山で寂しく亡くなっています。
中島砦からさらに信長は、桶狭間に向かって行きます。こんども家老に止められますが、敵は疲れている、勝機はあると兵を鼓舞し、今川本陣へと進軍していきます。

鳴海城 名古屋市緑区

2020年08月20日 05時56分13秒 | 名古屋市緑区
 年金者組合の方から緑区のお城の紹介をしてほしい、支部ニュースで連載してくれないか、という依頼がありました。年金者組合というのは、年金をもらっている方々が、正当に年金がもらえるようにと制度の拡充の為に活動している組合です。そればかりではなく、カラオケ、卓球、俳句、歌声、絵画など集まって趣味の世界を充実させている団体のようです。
 せっかくなので、お受けすることにしました。緑区のお城と言ってもほとんどは桶狭間の戦い関連のものです。今川方の鳴海城、大高城、それに対抗して織田方の丹下砦、善照寺砦、中島砦、鷲津砦、丸根砦とまあ、これくらいでしょうか。これらを順に紹介していけたらいいかなあと思います。

第1回 鳴海城
桶狭間の戦いで今川側の武将岡部元信が守った城
鳴海城は、名鉄鳴海駅から歩いて10分弱のところにあります。今は城跡公園になっています。


 この城は根古屋城とも言い、1390年代に築城されたそうです。もともとは織田側のお城でしたが、1560年の桶狭間の闘いでは、今川側の武将岡部元信(もとのぶ)が守っていました。この岡部元信は、今川義元が討たれたとの知らせを受けても、最後まで織田勢とたたかい、義元の首をもらい受けるという条件でようやく城を明け渡したそうです。岡部元信の後は佐久間信盛(のぶもり)、正勝(まさかつ)が城主となりましたが、1590年廃城となりました。作町は佐久間という名前の名残だそうです。


 公園はちょうど本丸にあたります。公園南側に曲輪や切岸の跡が見受けられます。そしてこの公園をぐるりと一周している道は、その形から堀だったと考えられます。北にある東福院には城門の梁を使用しているという山門があります。


丁野山砦 滋賀県長浜市

2020年08月19日 05時49分17秒 | 滋賀県
中島砦をあとに丁野山砦に登りました。普段は何でもないような登りの勾配でしたが、暑さのため、休みやすみの登城になりました。

丁野山砦案内板

小谷丁野町の南西に存在する岡山の最高点・標高169m(平地からの比高70m)の場所に存在する砦跡である。
北・北東・東・南に支脈が伸びるが、それぞれに附属する曲輪が並んでいたことが「丁野山古砦の図」から読みとれる。同図によれば、永正15年(1518)7月に浅井亮政が築城、天正元年(1573)には朝倉義景の軍勢が小谷城の加勢に入ったとある。また、北の尾根(土砂採取のため、昭和37年頃に消滅、明治時代まで八幡宮があった)を「八幡ノ岡」、北東の尾根(現岡本神社の前身・山王権現があった)を「山王台」、東の尾根を「大鳳山」と呼んでいた。さらに、南の尾根は「山脇山」に連なる。 南北を大規模な堀切で画された、ほぼ正方形な主郭(現在地)には、周囲に横堀と犬走りを配しており、土塁を使用しない特異な形状を保っていることが、現状から観察できる。「信長公記」によれば、小谷落城直前の天正元年(1573)8月12日、「ようの山」には越前平泉寺の玉泉坊が籠城していたが、信長の攻撃が迫ったので降参し、越前国へ落ちのびたとある。「丁野山古砦之図」によっても、平泉寺衆徒や越前玉泉坊、それに堀江甚介など、越前朝倉氏の家臣たちが、信長の小谷城攻めに対抗するため、布陣した場所であることが記されている。

まず驚いたのは、枡形虎口があったことです。

枡形虎口

南側には大きな横堀がありました。

南側の横堀


南東の竪堀

南側は横堀と竪堀で遮断しています。結構大きなものでした。

本丸の北側も物見?との間に大きな堀がありました。

本丸北の堀

砦の一番北側には堀切があり、北からの侵入を防いでいました。

北側の堀切

丁野山砦は堀がしっかり残っており、見ごたえのある砦でした。案内板が言うように、中島砦には土塁があり、丁野山砦には土塁がありません。丁野山砦は曲輪が単郭のように見えますが、中島砦は2つの郭がありました。
この違いは、先回述べた「中島砦の敵は丁野山砦」に繋がる考え、つまり築城者が異なるのかもしれません。すぐ近くの砦なのに、こんなに違うのはどうしてか、謎が残る2つの砦でした。

中島砦 滋賀県長浜市

2020年08月18日 05時20分15秒 | 滋賀県
虎御前山の次は、北にある中島砦と丁野砦です。いったんは、虎御前山の南の中野町の駐車場に戻り、そこから、県道263号を北上します。すると、「中島城跡」という大きな看板が見えてきました。


中島城跡の看板

看板が見えた道の隅に車を止めさせてもらい、いよいよ中島城に登りました。

中島砦縄張り図(現地案内板)

案内板によれば
丁野山城がある岡山から東へ出る支脈の頂部(標高113m、平池からの比高差34m)の場所に存在する砦跡である。地域に伝わる「丁野山古砦之図」によれば、この支脈を「大鳳山」と称し、中島砦から東の尾根上にも、三田崎六郎右衛門ら朝倉氏家臣が立て籠った砦跡が存在したが、現状では明確に確認しえない。本城には浅井氏の重臣である中島宗左衛門直親が、織田信長の小谷城攻撃に対抗するため、布陣した場所と伝えることから、城名がつけられたと推定される。城の構造は、約10m四方の主郭の周囲を、高い土塁が囲繞(いじょう、取り囲むこと)し、虎口があいた西側に、やはり土塁で囲まれた出丸(現在地)を配する形状である。また主郭東側の横堀、東の尾根に設けられた堀切なども残りが非常に良く、小規模ながら近世城郭に近づいた、非常に進化した形状をなしている。


主郭

主郭北東に位置する土橋と堀

中島砦の敵は丁野山砦?
さて、ネット「城郭探訪」で面白い見解が出ていましたので、それを紹介します。(要約)
曲輪が二つあるとき、主郭に対してもう一つの曲輪は、主郭を守るために造られることが多い。先ほどの図の左側を主郭とするなら、右の曲輪は主郭を敵から守るために造られている可能性が高い。ということは、中島城は、敵を西、つまり丁野山砦に想定していることになる。
というのです。

面白い見解だと思いました。確かに、三河の古宮城を訪れたとき、堀切で切られた二つの曲輪のうち、半分は主郭の馬出の役割をしている曲輪だと聞いた気がします。
そうすると、中島砦と丁野山砦をセットにして浅井側の砦と考えてきましたが、そう単純ではないことになります。織田側が中島砦を落とした後、急きょ丁野山砦攻略の為に改造したのでしょうか。丁野山砦などの落城から朝倉義景の越前への敗走は「信長公記」では10日間ぐらいの出来事と記されています。砦を改修するには、短すぎます。
さらに「信長公記」では、8月12日、織田側が落とした城は、「大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、疋檀、敦賀、志津が嵩、若狭粟屋越中所へさし向ひ候付城、共に拾ヶ所退散。」とあります。
なんと、中島砦が入っていません。(ようの山に含まれてしまっているのかも知れません)ということは、もっと以前に織田側に攻め落とされ、改修されていたのかも知れません。

いやいや丁野山砦と中島砦は仲間だよ
なお、小冊子「小谷城と城下をゆく」小谷城址保勝会(小谷城戦国歴史資料館内)・小谷城下まちめぐりウォーク実行委員会2010年発行に「丁野山城絵図」というのが「本書で初公開」として紹介されています。その図では天正19年辛卯九月図画之とし、おそらく天正元年の小谷城攻防戦の様子として、丁野山を本丸(玉泉坊)、大鳳山(中島砦)を出丸(中嶋宗左衛門)としています。つまり、天正元年丁野山砦と中島砦は浅井側に立って戦っていたということを示しているのです。

捕虜収容所跡 名古屋市緑区

2020年08月17日 05時40分35秒 | 名古屋市緑区
ネットで見つけた
先日、ネットで戦争の遺跡を調べていたところ、偶然名古屋市緑区に捕虜収容所があったことを発見しました。

ネット「朝日新聞DEGITAL」2019年5月6日の記事

記事によれば、第2次世界大戦中名古屋市緑区有松に捕虜収容所があったそうです。「名古屋俘虜(ふりょ)収容所第2分所」などと呼ばれ、県内唯一の捕虜収容所だったそうです。終戦時には米英の捕虜約270人がいたそうです。捕虜は熱田区の鉄道車両工場で働かされ、電車で通う姿が地元で目撃されていました。そのうちの一人、城山三郎さんが「捕虜の居た駅」というタイトルでその様子を小説にあらしていたそうです。それを知ったもと南山中学校教員馬場豊さんは、苦労して資料を集め、聞き取りもして「捕虜のいた町」という戯曲を作ったそうです。

馬場豊「捕虜のいた町」

馬場さんたちは「捕虜収容所跡を残す会」を結成し、収容所にあったれんが造りのポンプ施設跡や土の中からのぞく配管を史跡として案内プレートを設置することを訴えています。記事では、ポンプ施設跡で訴えているところが写真として掲載されていました。

城山三郎「捕虜の居た駅」の一節
城山さんの小説は前記「捕虜のいた町」に収録されていました。1961年の作品ですが、名古屋市生まれの城山さんの青春の一コマを描いているような、ほのかな初恋の物語になっていました。しかし、その中に収容所の捕虜に対する理不尽な日本人の対応が詳しく描かれていました。
駅(有松)で収容所の捕虜を電車に乗せている場面です。一般客もいます。
「それまでも時々声高に何かどなりながら捕虜の列に附添っていた下士官や警防団員たちが、待ち構えていたように襲いかかるのだ。半靴で蹴上げる。ゴンボ剣と呼ばれていた短い帯剣で、尻や背筋を突く。背伸びして棍棒を振るう者もいた。うすい髪を通して頭蓋を打つ音が、かたくひびく。
 それは毎朝きまってくり返される光景であった。下士官たちのしていることには、何の意味もなかった。乗り方としては、押し合いもみ合うよりも、捕虜たちのそうした乗り方の方が能率的である。それでいて、下士官たちは襲いかからずには居られない。捕虜より一枚上の人間なのだということを、通勤客たちの前で見せたかったのであろうか。」
70数年前の有松駅で実際にあったことだと思います。

名古屋市は史跡として保存を
さて、このポンプ跡地がどこなのか、少し迷いましたが、ようやく見つけました。ぜひ名古屋市には、この史跡を市指定としていただき、保存するとともに案内プレートを設置してほしいと思いました。


捕虜収容所ポンプ施設跡の位置(Yahoo地図より作成しました)


捕虜収容所ポンプ施設跡