第2回 丹下砦・善照寺砦・中島砦
織田信長に尽しながらも最後は追放された佐久間信盛
鳴海城を囲むように3つの砦が置かれています。
この3つの砦は、織田信長が今川の城である鳴海城を見張り、牽制するために造った付城(つけじろ)です。
丹下砦は古屋敷を整備して、水野帯刀等を守備につかせ、、善照寺砦は文字通りお寺を改修して砦とし、佐久間信盛等を守備につかせ、中島砦は小さな村だったのを砦とし、梶川隆英を守備につかせたそうです。
桶狭間の戦いで織田信長は、清須城から熱田神宮(上知我麻神社)を経て、上手の道を通って丹下砦、善照寺砦へと入ります。この時点で兵力は約二千人程でした。
丹下砦
丹下砦は、現在光明寺裏手の辺りと言われていますが、遺構はありません。しかし、ここから鳴海城がよく見え、見張り、牽制という点では大変いい所に立地していると思いました。鳴海城から信長軍に攻撃してくる気配がないことを信長は感じたのかも知れません。
丹下砦から鳴海城を臨む
善照寺砦
次に、信長は善照寺砦に入りました。善照寺砦は、鳴海城と丘続きで丘の東西のはずれに位置します。鳴海城から攻撃される危険があるために、堀切という防御施設が造られていたそうです。
善照寺砦と鳴海城の間の堀切跡。鳴海小東交差点から南にのびる道です。
善照寺砦は小高い丘の上にありますので、そこから鳴海、有松、大高の様子が一望のもとに見えます。今川義元が桶狭間山で休憩していること、鷲津、丸根の砦が敵に攻撃され燃えていること、さらに敵の一部が大高城でも休息している事、そして、何よりも今川勢の兵力が分散していることを見て取ったのだと思います。信長は勝機とみて、善照寺砦から中島砦へ移動しようとします。しかし、善照寺砦から中島砦への道は「深田」(低湿地帯)で、一本道です。敵に見つかり、攻撃される可能性が高いのです。すかさず家老が止めに入ります。「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども・・・」周りは低湿地、道は一本、しかも、わが兵が少ないことが丸見えです。もってのほかです。と家老たちが馬の轡を引き、口々に止めたのだが、信長は、それを振り切って中島砦への行軍を決行します。
中島砦跡 現在は住宅になっています。門の中に入ると、すぐ石碑があります。
佐久間信盛
善照寺砦を守っていたのは、佐久間信盛たちです。止めに入った家老とはこの佐久間信盛ではないかと思われます。佐久間信盛は織田家では重鎮の一人で、この後も数々の信長の戦いに参加し、武功を上げます。信長の天下統一への道に大きく貢献していました。しかし、少しずつ信長との関係がおかしくなり、信頼関係がなくなっていきます。そして天正8年(1580)息子信栄と共に信長から一九か条の折檻状を受け、織田家から追放処分となってしまいます。そして1582年高野山で寂しく亡くなっています。
中島砦からさらに信長は、桶狭間に向かって行きます。こんども家老に止められますが、敵は疲れている、勝機はあると兵を鼓舞し、今川本陣へと進軍していきます。
織田信長に尽しながらも最後は追放された佐久間信盛
鳴海城を囲むように3つの砦が置かれています。
この3つの砦は、織田信長が今川の城である鳴海城を見張り、牽制するために造った付城(つけじろ)です。
丹下砦は古屋敷を整備して、水野帯刀等を守備につかせ、、善照寺砦は文字通りお寺を改修して砦とし、佐久間信盛等を守備につかせ、中島砦は小さな村だったのを砦とし、梶川隆英を守備につかせたそうです。
桶狭間の戦いで織田信長は、清須城から熱田神宮(上知我麻神社)を経て、上手の道を通って丹下砦、善照寺砦へと入ります。この時点で兵力は約二千人程でした。
丹下砦
丹下砦は、現在光明寺裏手の辺りと言われていますが、遺構はありません。しかし、ここから鳴海城がよく見え、見張り、牽制という点では大変いい所に立地していると思いました。鳴海城から信長軍に攻撃してくる気配がないことを信長は感じたのかも知れません。
丹下砦から鳴海城を臨む
善照寺砦
次に、信長は善照寺砦に入りました。善照寺砦は、鳴海城と丘続きで丘の東西のはずれに位置します。鳴海城から攻撃される危険があるために、堀切という防御施設が造られていたそうです。
善照寺砦と鳴海城の間の堀切跡。鳴海小東交差点から南にのびる道です。
善照寺砦は小高い丘の上にありますので、そこから鳴海、有松、大高の様子が一望のもとに見えます。今川義元が桶狭間山で休憩していること、鷲津、丸根の砦が敵に攻撃され燃えていること、さらに敵の一部が大高城でも休息している事、そして、何よりも今川勢の兵力が分散していることを見て取ったのだと思います。信長は勝機とみて、善照寺砦から中島砦へ移動しようとします。しかし、善照寺砦から中島砦への道は「深田」(低湿地帯)で、一本道です。敵に見つかり、攻撃される可能性が高いのです。すかさず家老が止めに入ります。「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども・・・」周りは低湿地、道は一本、しかも、わが兵が少ないことが丸見えです。もってのほかです。と家老たちが馬の轡を引き、口々に止めたのだが、信長は、それを振り切って中島砦への行軍を決行します。
中島砦跡 現在は住宅になっています。門の中に入ると、すぐ石碑があります。
佐久間信盛
善照寺砦を守っていたのは、佐久間信盛たちです。止めに入った家老とはこの佐久間信盛ではないかと思われます。佐久間信盛は織田家では重鎮の一人で、この後も数々の信長の戦いに参加し、武功を上げます。信長の天下統一への道に大きく貢献していました。しかし、少しずつ信長との関係がおかしくなり、信頼関係がなくなっていきます。そして天正8年(1580)息子信栄と共に信長から一九か条の折檻状を受け、織田家から追放処分となってしまいます。そして1582年高野山で寂しく亡くなっています。
中島砦からさらに信長は、桶狭間に向かって行きます。こんども家老に止められますが、敵は疲れている、勝機はあると兵を鼓舞し、今川本陣へと進軍していきます。