愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

模擬天守だけが城じゃないよ(第3回城めぐり)知多大野城・大草城 愛教労城の会

2020年01月27日 11時54分37秒 | 愛教労 城の会
1月26日の天気予報は曇り時々雨。「ずっとっ降っているわけではないし。傘さしてやろう」と、ドキドキしながら皆さんにGOサインを出しました。しかし、実際は薄日が差し、絶好の日よりとなりました。晴れ男、晴れ女は、どなたでしょうか。ありがとうございました。

海賊佐治氏の気分に 大野城(常滑市)

展望台前の説明板で

大野城は北駐車場からが大手口になります。しばらく登ると、三の丸が見えて、「ここに井戸があったらしいです。しかし、あまり水が出なかったようで城は廃城になりました。」「前来たときは、井戸跡があったような気がしたんだけど・・・」ちょっと探しましたが、見当たらず残念でした。本丸に行くと展望台(模擬天守)があります。その前に大野城の城主、佐治氏についての説明板がありました。織田氏との関係や、お犬の方、お江の方との関係を知り、展望台に登りました。展望台からは霞がかかった伊勢湾や鈴鹿山脈が見えました。ちょうど海にはノリの養殖のしかけがたくさんあり、船が停泊しているように見えました。海賊佐治氏の気分になりました。展望台から北の方を見ると、大草城が見えました。本丸の先に見張り台跡があり、佐治神社になっていました。「佐治神社というぐらいだから、きっと佐治氏のご先祖だよね」後で調べましたら、第4代目当主佐治一成の像でした。展望台から降り、本丸の周りをぐるっと回ると、横堀の跡や腰曲輪の跡がありました。横堀のよこに土塁状のものがあり、「これ、土塁だよね」と「新発見」でした。

実はすごい土塁と水堀 大草城(知多市)

本丸土塁跡を見上げる

つぎは、大草城です。案内人が道に迷ってしまい、目的の駐車場に着けず。近くのお寺の駐車場に止めることにしました。見学コースを変更し、二の丸のお堀から入る事にしました。なかなか素敵なお堀で、水の上をカモが泳いでいました。このお堀のかべは土でできていて、石垣が使われていないそうです。お堀から、虎口を通り、二の丸の土塁の上を歩きました。そして北西隅のやや広いところに出ました。天守があったかもしれないというところでした。二の丸から本丸に渡り、展望台(模擬天守)に入りました。本丸は広場になっていて、少年サッカーチームが練習をしていました。展望台から南の方を見ると、大野城の展望台が見えました。最後に東側の土塁を見学しました。「高さ6メートルと聞いたときはびっくりしたが、上を歩くと納得できる」と感心しました。また「前来たときは、この展望台に登って終わっていたけど、こんなに広いとは思わなかった」という方もいらっしゃいました。
展望台(模擬天守)を見たり、中に入って登ったりすることで、城を味わったような気分になりがちですが、城には模擬天守の周りにも素敵なところがたくさんあることが分かりました。

参加者の感想
私が一番に感じたことは、大野城の展望台から見た風景!すごい!伊勢湾を手に入れたような気分になれました。のりいかだを軍艦に見立て、佐治水軍が出張っていく景色が見えるようでした。そして、大草城の土塁の凄さです。しかも、これが完成されることなく残っていることにも驚きを感じました。城としての役割もなく、どんな存在の在り方をしてきたのか余計に興味がわきました。実際にその場に立って、話を聞きながら、時代の風を肌に受ける心地よさは何とも言えませんね。ありがとうございます。  (豊田市 H)
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知多の城へ行こう

2020年01月26日 07時24分30秒 | 愛教労 城の会
さて、愛教労城の会では1月26日(日)第3回の城めぐりを計画しました。

集合時間 午後1時(3時解散)
集合場所 大野城北駐車場(国号155号線「堀田交差点」東に入り、1本目の道を右折)
     大野城(所在 常滑市金山桜谷)

是非、参加してください。

参加希望の方は メール mseijyun@gmail.com にアクセスするか
080-3612-0027までお電話ください。


大野(おおの)城 常滑市金山桜谷
大野城は、戦国時代知多半島で佐治(さじ)水軍と言われた佐治氏が4代にわたって居住した城です。この佐治氏は織田信長の妹お犬や浅井三姉妹のお江(ごう)を妻に迎えるなど織田氏と深いつながりがありました。天正2年(1574)幼少の佐治一成の後見として信長の弟の織田長益(ながます)が入りました。しかし、水利が悪いということで長益は大草城に拠点を移し、大野城は廃城になりました。

大草(おおくさ)城 知多市大草字東屋敷
大草城は、織田信長の弟織田長益によって築城が始められました。しかし、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの後、長益が摂津(せっつ、今の大阪)に転封となり、大草城は未完成のまま廃城となりました。織田氏一門の城でありながら石垣がありません。江戸時代には山澄氏が隣に屋敷を構え、城を管理したそうです。

コメント (2)
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東海地方で金の製造? 中日新聞

2020年01月23日 05時52分22秒 | 日記

中日新聞1月22日の記事

1月22日の中日新聞に戦国期に関する記事がありました。東海地方でも戦国期に金の製造の跡があったというのです。その場所は、清洲遺跡、鷺山遺跡(岐阜県)、多気北畠遺跡で、そこで出土したるつぼやとりべを調べた結果、それらの土器に金や銀の粒子が丸い形で付着しているのが発見されたそうです。
調査した人は、「戦国大名が近世の大名へと変貌する過程を調べる上で、信長らを生んだ東海地方で金属加工を確認できたことは意義深い」と話しているそうです。近世への時代の変遷と金の製造がどういう関係があるのか、そもそも近世の大名とは何なのかと考えさせられるコメントでした。
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七尾城(3) 石川県七尾市

2020年01月22日 05時58分08秒 | 石川県
安寧寺跡より先は行きづらかったので、戻ることにしました。二の丸、三の丸の曲輪群より一段低いところに道がありましたので、その道を通って行きました。途中、寺屋敷跡がありましたので、そちらも見てみることにしました。そこには、小さな山がありました。雑草を積んでできた山なのかと思いましたが、後でパンフレットで調べてみますと、寺屋敷跡にその小山の絵が描かれてありました。一体何でしょうか。疑問です。

寺屋敷跡の小山

二の丸とその曲輪群を見た後に本丸に行きました。


本丸を下から見る 本丸は、三段の石段がありました。

また、本丸に上がる階段は石段になっていて、右側は登り石塁のようになっていました。

本丸への階段

本丸からの展望は抜群でした。特に、七尾湾が見え、絶景でした。畠山氏は、日本海の様子が城から手に取るように見えていたのだと思いました。

本丸から七尾湾を望む


本丸の城山神社

神社に向かって右手には大きな土塁がありました。ただし、この土塁は外枡形虎口の一部でした。

本丸西の土塁


本丸西の外枡形虎口
写真の左側の土塁が本丸内側から見た先の土塁です。土塁の外側は石垣が貼られています。写真は本丸の外から写しています。


本丸外枡形虎口の一部、石垣の様子

本丸の横には素晴らしい枡形虎口がありました。

最後、外枡形から西の丸に行ってみましたが、西の丸は草原で未整備でした。残念

西の丸

七尾城 おしまい
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七尾城(2) 石川県七尾市

2020年01月21日 06時50分00秒 | 石川県
本丸には行かず、右の方の遺構を先に見ることにしました。調度丸の上が桜馬場で、そのさらに奥が温井(ぬくい)屋敷跡です。温井とは、重臣の名前です。七尾畠山氏の重臣は他に遊佐氏、長氏と言った人がいます。北から越後の上杉氏、南から織田氏が迫ってくる中で、いろいろな戦いが繰り広げられたようです。一言では言い表せないので、今回はパスです。


温井屋敷跡

温井屋敷は、城への虎口のすぐ近くにあったようです。温井屋敷のすぐ近くに九尺石がありました。1尺は約30cmなので、9尺では2m70cmそんなの大きいとは思いませんが、大きな石であることは間違いありません。
ここに上がる城道もあるので、この九尺石のあるところは、城の虎口で、この石は鏡石だったのかも知れません。そうすると、温井氏はこの七尾城の中で正面の虎口を守る大切な場所に位置していたことになります。逆に言えば、畠山氏の信頼が厚かったとも言えます。


九尺石

九尺石から戻ると、二の丸、三の丸への道が続きます。

二の丸へ

珍しいことですが、二の丸に「史跡 七尾城跡」と銘打った案内板がありました。全体的な案内板は普通は本丸に一つあるだけなのですが、七尾城では、二の丸に全体の案内板があり、特にここでは二の丸について詳しく述べられていました。


二の丸の案内板

二の丸から三の丸にかけては、大きな堀切がありました。


二の丸と三の丸の間の大堀切


三の丸

三の丸の先には安寧寺跡がありました。安寧寺跡には、畠山氏の墓碑がありました。


畠山氏の墓碑

七尾城 つづく
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