愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(16) 松平記

2022年02月23日 18時39分02秒 | 松平記

松平記p16

翻刻
(岡崎を何とそ責落し支配有)へしと被仰付加勢有、近日責らるべしと談合有、爰に此
事岡崎に聞えしかハ、廣忠ひそかに筧三郎を呼て、上和田
へたはかり行て、三左衛門を切て参り候へ、是然共頼むと
被仰、筧承り御請申上和田へ参、降参申度と申、三左衛門殿
岡崎衆をあまた引付、最早何とそ筧兄弟の中を引付候ハ
んと常に被仰候時分、平三郎参候間、大小悦なされ近く召
し、近日岡崎を責候ワんまま筧案内を頼由被仰付、御懇情
有て御近所へ寄せ給ふ、誠に運のきハめ也、其夜筧御近辺
の座鋪に〇り候へハ、案内ハくハしく見置けれは廣忠よ
り被下候脇指にて三左衛門殿わきつぼを二脇差指突てに(け出る)

現代語
(岡崎をなにとぞ攻め落とし、支配する)べきであると、織田殿より言われて、加勢をうけ、近日中に岡崎を攻めようと話し合っていた。このことが岡崎に聞こえてきたので、松平廣忠は、ひそかに筧三郎を呼び、「上和田(松平三左衛門忠倫の居城)へ嘘を言って近づき、松平三左衛門忠倫を切ってしまえ、このこと頼むと仰せられ、筧はそれを承諾した。上和田には「降参したいのだが」と近づいた。松平三左衛門忠倫は、岡崎衆(廣忠の家臣たち)をたくさん上和田に引き入れ、とくに筧兄弟を引き入れたいと言っていたちょうどその時に、筧平三郎が降参したいと言ってきたので、大変喜んだ。そして近日中に岡崎を攻めようと思う、筧には案内を頼むつもりであると言い、大変丁寧にもてなした。その夜筧は近くの座敷にいて、屋敷の様子を詳しく観察し、廣忠よりもらった脇差で、松平三左衛門忠倫のわきを二カ所突いて(逃げ出た)

コメント
暗殺の応酬です。先には松平廣忠が暗殺されかけました。刺客である片目八弥は、誰のさしがねで暗殺を企てたか、記載がありません。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長が廣忠を暗殺しようと刺客を送り込み、廣忠が暗殺されてしまいます。今回は、廣忠が敵対者である松平三左衛門忠倫を暗殺したという話です。刺客は筧平三郎(三郎)重忠です。この武将、ネットで調べたところ桶狭間の戦いで丸根城を攻めたうちの一人でした。
だまし打ちというのは、この時代いつでも、どこででも起こり得た事なので、この場合は松平三左衛門忠倫が油断したということになるのでしょうか。さすがは戦国時代です。殺し殺される世界で、油断も隙もありません。大変怖い世界だと思います。
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村木砦 東浦町

2022年02月21日 16時19分33秒 | 東浦町

村木砦石碑

村木砦は、天文23年(1554)織田信長と今川軍が戦った時の今川方の砦です。現地案内板では村木砦の城将を松平甚太郎義春としていますが、「日本城郭体系9」では、松平甚太郎家忠としています。

この戦いは、2つの点で興味があります。一つは、信長が戦で鉄砲を使っていることです。「信長公記」に「信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三ツ御請取りの由仰せられ、鉄炮取りかへ取りかへ放せられ」と、後の設楽原の戦いを彷彿させるような戦いを行っています。二つ目は、冷酷無比のように言われている信長ですが、この戦いで死んだ仲間を思い、涙を流していることが「信長公記」に記録されていることです。「御本陣へ御座候ひて、それもそれもと御評なされ、感涙を流させられ候なり。」

とても寒い日で、雪がバンバン降る中を見学に出かけました。

村木砦はその一部が現在八劔(やつるぎ)神社となっています。

八劔神社本殿

この神社の南側は少し低くなっていて、信長の兵が次々とよじ登っていった大堀を忍ばせました。

八劔神社の南側、少し低くなっていました。大堀の名残かなあと勝手に想像しました。

この神社の西側をぐるっと回ってみましたが、宅地化が進み、砦の遺構を感じることはできませんでした。残念。
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松平記(15) 松平記

2022年02月15日 12時21分15秒 | 松平記

松平記p15

翻刻
外記譜代の侍少うらミ有浪人し、蔵人殿に奉公し此合戦
に高名しける其明年五井へ帰参しける
一 此蔵人殿ハ御一門の内にても忠節の人にて去年片目八
弥と云者、廣忠を村正のわきざしにて突候得てにげ申候
つきそこなひ、早々にぐる処を植村新六郎出仕に出ると
て是に出会くミ堀の中へ、ころび入候処に、蔵人殿走りよ
り鑓にてつき給ふに、はなせ植村と被仰候へども、はなし
不申、大事のやつにて御座候、我等共に突給へと申、扨八弥
をば突殺し植村ハ高名致し御感状被下候
一 織田殿より松平三左衛門に岡崎を何とそ責落し支配有

現代語
前回の末尾(一 鳥居源七を松平蔵人信孝の家臣である松下清兵衛が討ち取った。)松下清兵衛は、松平外記忠次の譜代の侍であったが、少し恨みを持ち、浪人して、蔵人信孝殿に奉公し、この合戦(渡り河原の合戦)に高名をなした。その翌年に五井松平に帰参した。
一 この蔵人信孝殿は、松平家御一門のなかでも忠節の人であり、昨年(天文15年)片目八弥と云う者が廣忠を村正の脇差で突き逃げようとしたが、つきそこない、八弥が逃げるところを植村新六郎が出仕したところと出会い、組み合い堀の中に転んで入ってしまったところへ蔵人信孝が走り寄って鑓で突いた。「はなせ植村」とわめいたが、植村は離さず、とんでもない奴だ、一緒にこいつを突いてしまおうと言い、八弥を突き殺し、植村は高名をなし、感状をいただくことになった。
一 織田信秀より松平三左衛門忠倫に「岡崎をなんとしても攻め落とし、支配なされるべし」と・・・・

コメント
松下清兵衛は、一度五井松平を離れ、この合戦で五井松平忠次の従弟である鳥居源七を討ち、次の年また五井に戻るという、ちょっと不思議な武将です。五井松平がよく受け入れたなあと思いました。三河一向一揆では五井松平を盛り立てる活躍をしているようです。複雑です。
片目八弥が登場しました。一般的には岩松八弥となっています。廣忠はこの岩松八弥に暗殺されたという説もありますが、「松平記」では、ここで襲われたとは書いていますが、死んだとは書いていません。そしてその殺人未遂者八弥を撃退したのが、植村新六郎になっています。先代の松平清康の時も、清康を殺した阿部弥七を成敗したのは植村新六郎で、同一人物と思われます。不思議なめぐりあわせです。
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松平記(14) 松平記

2022年02月13日 06時24分01秒 | 松平記

松平記p14

翻刻

一 天文十六年九月廿八日渡り河原と云所にて蔵人方と岡
崎衆一日合戦し、味方破られ、松平外記、松平喜蔵、鳥居源七
討死しける、喜蔵、弥右衛門兄也、鳥居源七ハ彦右衛門兄也
此人々残当り討死ゆへ、廣忠御除被成候、外記をハ鳥居久
兵衛と申者、蔵人方にて討捕申候、久兵衛と外記ハ従弟
にて見知て討とめたる也、青江の刀をぶんどりにしける
が、是ハ外記重代の刀也とて外記子息方へ後に送りける
情有と諸人申ける也
一 鳥居をハ松下清兵衛と申者、蔵人殿衆にて討取申候、是ハ

現代語
こと
一 天文十六年九月二十八日、渡り河原というところにて、蔵人信孝方と岡崎勢が一日合戦した。味方は負け、松平外記(五井松平忠次)、松平喜蔵、鳥居源七(鳥居忠宗)が討死した。松平喜蔵は、松平弥右衛門の兄であり、鳥居源七は鳥居彦右衛門の兄であった。この人々(     )討死なので、松平廣忠は「御除被成候」、蔵人信孝側の鳥居久兵衛なる者が、松平外記忠次を討ち取った。鳥居久兵衛と松平外記忠次は従弟同士で、知り合った仲であったが、討ち取った。(松平外記忠次より)青江の刀を分捕ったが、これは外記に伝わる先祖伝来の刀であるとして松平外記忠次の息子に後で送りつけた。人情があると、皆が言っていた。
一 鳥居を松平蔵人信孝の家臣である松下清兵衛が討ち取った。これは・・・・


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 今回は、文字が読めないところ、意味が分からないところがありました。直に翻刻すると、「此人々残当り討死ゆへ廣忠御除被成候」となります。これで翻刻が正しいかどうかがまず問題です。正しいとして、「残当り討死」とは何か、また廣忠が除いたというのは、何をどこから除いたのか分かりませんでした。
 さて、織田、松平、今川の絡んだ三河での戦いは天文年間にいくつもあり、井田野の戦い、安祥城をめぐる戦い、小豆坂での戦い、岡崎城をめぐる戦い等々、学者によっていつごろ、何回戦われたか、結果はどうだったか、など諸説あり、整理が難しいです。この節では、天文16年9月28日の渡り河原での戦いが描かれています。
松平外記、松平喜蔵、鳥居源七が討死し、廣忠勢は敗北を喫しています。松平外記と鳥居久兵衛に関しては、逸話があるようで、鳥居久兵衛が外記の持っていた名刀を息子に返したということらしいです。この辺は「軍記物」という感じで、面白いところです。
 なお、鳥居久兵衛は、寛政修重諸家譜では鳥居又次郎になっています。どちらの呼び方が正しいのか分かりません。また、討死した鳥居源七と松平外記を討ち取った鳥居久兵衛とどういう関係か分かりません。
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福山城鉄板の復元 広島県

2022年02月10日 16時07分31秒 | 広島県

福山城の記事(22年2月10日中日新聞)

今朝ほどの朝刊に福山城(広島県)の記事が載っていました。福山城は城主に水野勝成がなった時があります。水野勝成は刈谷城主でもあったため、愛知県とは縁がある武将です。
新聞記事によれば、福山城は天守の外壁に鉄板が張られていたそうで、それを復元するということらしいです。
福山城は白い端正な城というイメージが私にはありますが、どんな城になるのか楽しみです。


新聞記事と角度は違いますが福山城(2014年11月撮影)
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