愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

石橋城(2) 新城市

2019年04月30日 05時00分45秒 | 新城市

入ってすぐに目に入る土塁 奥の木の間に見えます。

この土塁は2メートル以上あり、大変見ごたえのある土塁でした。昔の高さを保っているのだろうと思いました。山の頂上部分の土塁や放置したある土塁は低くなっていますが、この土塁はかなり高かったので、お寺の方が代々補修して保全してきたからなのだろうと思いました。


北側、お寺の建物の裏側の土塁 建物の屋根まで土塁が届いています。

この土塁の外側は、これまた立派な堀になっていました。

土塁の外側の堀

たまたまお寺の人がいらっしゃったので、石橋奥平氏の石祠を教えていただきました。

石橋奥平氏の石祠

亀山城の目と鼻の先でこんな一族の血なまぐさい抗争があったとは全然知りませんでした。

石橋城 おしまい

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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石橋城(1) 新城市

2019年04月29日 06時06分07秒 | 新城市
4月28日、新城市の石橋城に行きました。石橋城のほかにネットで調べたところ、いろいろな遺構が残っているようなので、ついでに回ってみました。

亀山城付近の遺構(Yahoo地図より作成) 

亀山城のすぐ西に石橋城、北には蔵屋敷、北東に姫屋敷、南東に馬呂遺構というそれぞれ遺構が残っているようです。(ネット「城郭放浪記」より)

亀山城は以前に訪れたことがあります。
亀山城 新城市

石橋城は現在お寺になっています。「石橋山慈昌院」というそうです。そのいわれが観光案内にありました。

観光案内版

石橋城は、奥平2代貞久の二男、弾正久勝(だんじょうひさかつ)が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、3代貞昌(さだまさ)の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌(だんじょうしげまさ)は、天文6年(1537)9月、主君への謀反が露見し、4代貞勝(さだかつ)の命を受けた土佐定勝(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも、西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第2世徳岩明和尚(とくがんみょうおしょう)が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。  作手村


一族の内部抗争により、石橋奥平が宗家の奥平氏に滅ぼされたようです。何とも痛ましいことです。


石橋城(慈昌院)の入口 幟には「南無釈迦牟尼仏」とあります。臨済宗です。


石橋城縄張り図(現地案内板より作成しました、黄色い部分)

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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井ノ口城 豊田市

2019年04月25日 09時03分45秒 | 豊田市
黍生山から下りたら、次は井ノ口城です。井ノ口城というのは、「信長公記」で斉藤道三の居城として登場しますが、それではありません。
井ノ口城は、黍生城の南にあります。しかし、標高は150mで比高は20mです。ほとんど平地にあります。

井ノ口城の位置(地理院地図より作成)

井ノ口城は、「参河国二葉松」では「戸田右衛門尉忠勝」とあり、「日本城郭体系9」では「鈴木重政の築城」とあります。戸田右衛門とは田原城のあの戸田氏と関係があるのでしょうか。また鈴木重政という武将は、足助鈴木氏の2代目の人です。足助鈴木氏は真弓山城を本城としていましたので、この井ノ口城は支城としての役割があったのでしょう。

黍生城を登った道で降り、そこから井ノ口町の方へ歩いていきました。約2kmです。30分ほど歩いて、ようやく井ノ口城につきました。

井ノ口城全景(東から撮影)


井ノ口城イメージ

井ノ口城は竹と藪で覆われていて、なかなか大変でした。

登り口は西曲輪の北の方からでした。ここは、大きな堀切になっていました。

西曲輪と東曲輪の間の堀切

これは大変見ごたえがありました。この曲輪を横断する堀切は、昔長野で見た「三日市場城」を思い出しました。その時に案内の方が言われた「どうして曲輪を二つに仕切るように大きな堀切や土塁があるのでしょうか」と見学者に投げかけた問いを思い出しました。

また西曲輪は、草が刈ってあったので、見事な切岸もみることができました。

西曲輪の切岸

東曲輪(北側)

これは東の曲輪を写したものですが、藪がひどくて詳しい状況が分かりませんでした。東曲輪は全体が藪と竹やぶで覆われていて、よく分からなかったので、残念でした。

井ノ口城は、里にできており、戦の時の砦というより居城という感じがしました。しかも結構大きかったので、藪で覆われていたことがとても残念でした。

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり

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黍生城(3) 豊田市

2019年04月24日 06時57分13秒 | 豊田市
この曲輪の南西に腰曲輪がありました。

南西部腰曲輪

また南東部にも腰曲輪がありました。

南東部腰曲輪

堀切が3つありました。

主郭北東部の堀切


腰曲輪と堀切(現地案内図より)

南側に竪堀のようなものが図に書き込まれていましたが、確認できませんでした。

黍生山は足助ばかりでなく石野、猿投などの地域を見渡せる山で、戦略的に大変重要な山であることが分かりました。

黍生城 おしまい

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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黍生城(2) 豊田市

2019年04月23日 05時45分07秒 | 豊田市
1時間ほどかかって、やっと頂上にたどり着きました。

黍生山頂上

天気が良かったこともあり、ここからの眺望は抜群でした。特に北の方は猿投山が見え、感動でした。

黍生山北方の眺望

また、地元の追分小学校がここに登った記念碑がありました。

追分小学校登山記念碑

さて、お城はといえば、単郭で割と広い曲輪が頂上に広がっていました。

頂上の曲輪


愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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