愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(29) 松平記

2022年07月25日 10時45分26秒 | 松平記

松平記p29

翻刻
間大炊助を初として其弟松平十郎左衛門、松平太郎左衛
門、同久太夫、同新八郎、同孫十郎、主殿内の随分の侍卅余人
吉良衆に被討取候也
一 吉良殿御一門荒川甲斐守殿義昭と少不和に成候て、逆心
被成、岡崎衆と内通被成、酒井雅楽助を荒川へ引入置、西尾
と日々せり合御座候間、牧野新次郎西尾に不叶して終に
城を岡崎衆に渡し牛久保へ帰り申候、依て西尾の城へ酒
井雅楽助移申候、義昭の籠られ給ふ東城へ押寄、付城を
取岡崎衆被攻、小牧の取手に本多豊後供国の取手に松平
左近在陣し日々せり合有之、弘治二年九月十三日本多豊

現代語
(大炊助と吉良義昭の衆との合戦が始まったので)大炊助を初めとしてその弟松平十郎左衛門、松平太郎左衛門、松平久大夫、松平新八郎、松平孫十郎、主殿内の多くの武士30余人が吉良衆に討ち取られてしまった。
一 吉良殿の御一門である荒川甲斐守殿が吉良義昭と少し仲が悪くなり、義昭に逆心をした。荒川は、岡崎衆と内通し、酒井雅楽助を荒川に入れ置き、西尾の牧野新次郎と日々せり合いをした。牧野は叶わずして、ついに西尾の城を岡崎衆に渡し、牛久保に帰ってしまわれた。そこで西尾の城には酒井雅楽助が移った。義昭が籠っている東条城を攻め、付城として小牧砦に本多豊後、供国砦に松平左近を在陣させ、日々せり合いをした。弘治2年9月13日本多豊後・・・・


コメント
寛政重修諸家譜では、松平大炊助好景の兄弟は、好景を入れて男子6人で、そのうち善明堤の戦いで戦死したのは、好景本人、定清(太郎右衛門)、好之(久大夫)、景行(新八郎)の4人となっています。定政(孫十郎・十郎右衛門)、康定(勘解由左衛門)は戦史の記録がありません。特に十郎左衛門・孫十郎の通称を持つ松平定政が「松平記」では戦死したことになっていますが、寛政重修諸家譜では戦死の記載がなく、食い違っています。
小牧砦は、幡豆郡(現西尾市)の小牧砦で西尾市吉良町小牧字郷中の宝泉寺辺りにあったといわれています。(ネット「城郭写真記録 愛知の城館」)供国の砦は友国、朝国とも記され、西尾市吉良町友国字山ノ上にあったようです。(ネット同上サイト)在陣した武将としては松平左近ではなく松井左近とする記事もあります。(三河国二葉松)
通説である永禄4年(1561)の戦いが、ここでは弘治2年(1556)となっていました。戦死者や在陣した武将の名前など違っているところもあり、違いの理由を探っていくと面白いかもしれないと思いました。
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松平記(28) 松平記

2022年07月08日 13時17分31秒 | 松平記

松平記p28

翻刻
弘治二年卯月の頃吉良殿義安と申て駿河の薮田村に御
座候、御弟義昭を名代として西尾の城に御座候が、逆心を
起し、尾州一味被成、東條の城へ義昭御移り、西尾の城へ牛
久保の牧野新次郎をよび入置給ふ、岡崎衆、東條衆と日々
のせり合御座候、其頃上野の城に酒井将監殿御座候を吉
良殿、富永、瀬戸、河上、大河内など申衆、日々攻申候間、中島の
城主松平主殿助、大炊助父子加勢として被来候、東條衆中
島の町に忍を入、善明と申所へ押懸申候、敵多勢を不存父
大炊助ハ跡に残り子息主殿助ハ早々先上野の城へ被参
候間、善明に隠れ居たる吉良衆押かかり、合戦を初め申候

現代語
弘治2年4月のころ、吉良義安と言って、駿河の薮田におられた方が、弟義昭を名代として西尾の城にいておいた。ところが義昭(義安?)が今川氏に逆心し、尾張方になられた。義昭は東条の城に移り、西尾の城には牛久保の牧野新次郎を呼び入れた。岡崎衆は、日々東条衆とせり合い(戦い)をした。その頃上野の城に酒井将監なる方がおられ、吉良殿、冨永、瀬戸、河上、大河内らと共に攻めてきた。そこで、中島城主の松平主殿助、大炊助ら父子が岡崎衆へ加勢した。東条衆は、中島の町に忍びを入れ、善明という所に押し掛けてきた。敵が多勢であることを知らずに父大炊助は中島に残り、子の主殿助は上野城へ攻めていったので、善明に隠れていた吉良衆が押しかかり、合戦が始まった。

コメント
ここは、織田側に寝返った吉良義昭と今川につく松平家(中島の大炊助、主殿助父子)との戦いとして描かれています。
ネット「みかわこまち」によると、その前に天文18年(1549)吉良義昭が織田に寝返り、今川に謀反を起こしているようです。この時は外戚の後藤平大夫の奸計だったということです。そして義安も謀反のかどで駿府薮田に幽閉されたそうです。同じ記事のなかで新説として、この謀反は義安によるもので、弘治元年(1555)に再び反旗を翻し、その時は弟の長三郎(義昭か)を人質にして水野氏(緒川城)の軍を西条城に引き入れたという説を紹介しています。
そして、松平記のこの記事は、どこかで聞いたことがある戦いと思っていましたが、徳川家康と吉良義昭のいわゆる「善明堤の戦い」でした。酒井将監は酒井忠尚、松平主殿助は松平伊忠、松平大炊助は松平好景です。一般には永禄4年(1561)と言われるこの戦いが「松平記」によって弘治2年(1556)の可能性もあるということになりました。しかも戦いは単に松平対吉良ではなく、織田対今川の戦いという意味合いになってきました。
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松平記(27) 松平記

2022年07月04日 11時01分25秒 | 松平記

松平記p27

翻刻
一 去程に竹千代殿御成人の間、今川殿御前にて元服被成義
元一字を付被申、松平次郎三郎元信と申、弘治二年正月義
元の御妹婿に関口刑部少輔殿と申て今川御一家御座候、
其婿に元信を被仰付、義元の姪婿に御成被成候、御官途有
松平蔵人元康と御改名被成、清康の康の字を御付被成候、
右御元服の後、御祝言打続、御祝目出度とて御譜代衆より
御祝義御礼被申上、三河柳原と申人嵐鹿毛と申御馬進上
申候、此馬其比無双の逸物にて今川殿御馬にて京公方へ
進上被申候、殊更公方御満足にて松平蔵人殿へ御自筆の
御書被下〇、御腰物拝領被成候也

現代語
一 さて、竹千代殿成人なされ、今川殿の御前で元服をされ、義元の一字を付け申されて、松平次郎三郎元信と申された。弘治2年正月、義元の妹婿関口刑部少輔と申今川御一家の婿に元信をと義元が仰せ付けられ、元信は義元の姪婿になられた。官途もあり、松平蔵人元康と御改名なられた。清康の康の字を付けられた。この元服にあたっては祝言がうち続いた。「めでたきことだ」と譜代衆より祝儀をうけ、三河柳原と申す人より馬を進上された。その馬は無双の逸物の馬で、今川殿が京の将軍に進上された。将軍は特に満足されて、松平蔵人に直筆の書と刀を下された。

コメント
徳川家康元服、改名の話です。元服して元信と名乗ったのは、天文24年(1555)のようです。(ウィキペディア)弘治2年は1556年ですので、翌年に後の築山殿(瀬名姫)と結婚し、名前を元康と変えたようです。官途は蔵人。しかし、これには不思議な点があります。蔵人は、今川を裏切り織田方に走った松平信孝の官途です。信康は瀬名姫と結婚して今川家の親戚筋になったのに、どうして松平信孝の官途を名乗ったのか、分かりません。

難語

一番最後の行です。
コメント (2)
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