愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(75) 松平記

2024年07月30日 05時51分46秒 | 松平記

松平記p75

翻刻
へきとの儀也。然を、かれら大久保五郎右衛門を頼、色々御
内証申、とかく御和談可、然し、さるからハ酒井将監并東条
殿、荒川甲斐殿以下皆押つふし候。半事いとやすし。国中御
静謐の基成べしと頻に申上しかハ、則和談有。上和田成就
院にて起請を書て、寺中并一揆をは助らるへし、御忠節可
申候由、被仰聞召。彼者とも案内申て、石川日向守を大将
にて、とろの寺内へ、高須の口より八町引入ける程に子
細をしらさる一揆共、乱れさわぎけるに、石川大声をあけ
て皆々和談にて御助有そ、さハくへからすと、よばわりけ
る間、皆々悦て一揆とも味方に成て合戦しける間、松平監

現代語
(一揆勢においては、誅罰がある)のが当然であるとのことであった。一揆勢は大久保五郎右衛門を頼りにし、いろいろ内輪のことも話し、とにかく和談するべきであると申した。。しかし、そうであるならば、酒井将監や東条殿、荒川甲斐守殿以下みな押しつぶすべきである。半事は大変簡単なことである。国中静謐の基であるとしきりに申し上げたので、和談は成立した。上和田の成就寺において起請文を書き、寺中並びに一揆衆は助けられること、家康に忠節をする由、家康はお聞きになった。石川日向守を大将に立てて土呂の本宗寺、高須口より八町ほど入った。すると詳しいことを知らない一揆衆は騒ぎ立てた。石川日向守は大声で「皆々和談にてお助けあるぞ。騒ぐな」と叫んだので、一揆衆は喜んで家康の味方となり、合戦におよんだ。それで松平将監‥‥
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松平記(74) 松平記

2024年07月29日 06時35分08秒 | 松平記

松平記p74

翻刻
揆ともをハかり、和談の才覚有。一揆共も三ケ寺を大切に
存迄にて、さすがに国郡をとらんとの義にもあらず、度々
の合戦に打負大かた退屈しける時分、大久保五郎右衛門
方より、色々いさめ、異見に及間、蜂屋半之亟降人に成て御
免を蒙ふりしかハ、其外石川善五左衛門、同源左衛門、同半
三郎、本多甚四郎も降参し、敵の案内くハしく申上て、又御
訴訟に寺中ハ本のことく立をき、不入に被仰付、一揆共も
命を御助候様に御和談被成、可被下候ハゝ、一揆共皆、御味
方になし、上野城をかつき、可進由申候。家康聞召、寺内を本の
ことくに被仰付候ハん事尤也。一揆に於てハ御誅罰有

現代語
(一)揆どもをはかり、和談の考えがあった。一揆たちも三か寺を大切にしたいだけのことであって、さすがに国や郡をとろうということでもない。度重なる合戦に打ち負かされ、打つ手がない状況の時、大久保五郎右衛門忠俊よりいろいろと宥めたり、説得をしたりしたので、蜂屋半之亟が降参して一揆勢から抜けたので、他にも石川善五左衛門、石川源左衛門、石川半三郎、本多甚四郎も降参し、敵に味方(一揆勢)の実情を詳しく話し、そして訴えの文に寺は破却しないこと、不入の特権も残し、一揆勢の命も助けるように家康様が和談をしてくだされば、一揆勢は皆家康の味方になり、上野城(酒井忠尚)を降参させることを述べた。家康はこれを聞き、寺内を元のようにしておくことは尤もである。一揆勢においては、誅罰がある‥‥
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松平記(73) 松平記

2024年07月28日 07時43分08秒 | 松平記

松平記p73

翻刻 
門、物見に針崎へ出る。其勢廿五人。然処に敵方よりも針崎
の近所に伏兵を置けるに、物見衆、はたと行逢てせり合を
初む。敵にハ渡辺半之亟、筧助大夫、渡辺平六其外三十余人
火花をちらしせり合、石川ハ手を負、引返し、根来ハ渡辺に
討倒され、渡辺平六に首をとられける。布施孫左衛門、筧助
大夫と組しが、渡辺落合、布施が首をとる。味方のまけいく
さ、此一揆の時ハ此せり合はかり也。
一 方々の合戦に味方打勝といへとも、三州所々一揆の起り、
御一家衆もあまた逆心し、味方つかれ果けり。此時、多勢に
て甲駿の敵押来ハ御大事なりと、大久保一党謀を廻し、一

現代語
(布施孫左衛)門、物見に針崎に出た。その兵数25人。そこへ敵方よりも針崎の近辺に伏兵がいて、物見衆と行き合わせ、せり合いが始まった。敵には渡辺半之亟、筧助大夫、渡辺平六その他30人程で、火花を散らすせり合いになった。石川又四郎は怪我をして引き返し、根来十内は渡辺半之亟に打ち倒され、渡辺平六に首を取られた。布施孫左衛門は筧助大夫ととっ組み合いになったが、渡辺が助太刀をして布施は首を取られた。味方の負け戦は、この一揆の時はこの戦だけであった。
一 一つ一つの戦に味方が打ち勝っているとはいえ、三河のいたる所で一揆が起こり、松平家のご一家衆の中にも反逆するものがあって、味方は疲れてきた。この時、大軍で甲斐、駿河から敵が押し寄せてきたなら、一大事である。大久保一党は、知恵を廻らし、‥‥
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松平記(72) 松平記

2024年07月27日 06時39分01秒 | 松平記

松平記p72

翻刻
門、半之亟を(た)すけ突てかかり、鵜殿を突伏、首をとる。川澄又
助、同突てかかる処に、源五左衛門脇より突て出る間、又助
返す。家康是を御覧じて、自身鑓にて渡辺を突給ふ。うす手
なれハ、渡辺引て行を、石川十郎左衛門、渡辺源五左衛門先
にすすみ、家康へ突てかかるを内藤甚市、弓にて渡辺源五
左衛門が両股を射返しける間、渡辺射伏られける。子息半
之亟、父を肩にかけて早々引て行。内藤甚市ハ、渡辺源五左
衛門が甥なれとも敵なれハ、射伏ける。家康、甚市を御感不
斜。渡辺は頓て死ける。
同二月十三日、味方より石川又四郎、根来十内、布施孫左衛

現代語
(渡辺源五左衛)門、半之亟をたすけ、鵜殿十郎三郎に突きかかり、首を取った。川澄又助が突きかかるところに、渡辺源五左衛門が脇から出て突きかかったので、又助が渡辺源五左衛門に突き返した。家康がこれを見て、渡辺源五左衛門を突いた。しかし、傷は浅く、渡辺が引き返していくのを、石川十郎左衛門、渡辺源五左衛門が先に進み、家康に突きかかった。そこに内藤甚市が弓で渡辺源五左衛門の両足を射ったので、渡辺源五左衛門は伏した。子息である半之亟が父を肩にかけて早々に引いていった。内藤甚市は渡辺源五左衛門の甥であったが敵なので、渡辺を射った。家康は内藤甚市にいたく感激した。渡辺源五左衛門はやがて死んだ。
 同(永禄5年)2月13日、味方より石川又四郎、根来十内、布施孫左衛門、
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松平記(71) 松平記

2024年07月26日 06時01分05秒 | 松平記

松平記p71

翻刻
つき合けるに水野殿、石川を突伏せ、うちわをそへて、高名
被成候。大見藤六ハ、水野太郎作に突伏せられ、佐橋甚五郎
も爰にてうたれける。波切孫七郎ハ、家康自身追懸、鑓にて
後を二鑓突給へと、浅手なれハ、引拂退けり。味方も皆本陣
へ帰る。
一 正月十一日、針崎へ家康御出被成、敵も出、終日のせり合。
中根喜蔵と名乗味方の一番鑓、敵方には渡辺半之亟、鑓を
すてて太刀にてかかる。中根も手しげくかかられ、鑓を捨
て太刀をぬき、切合。互に手を負、相引に引ける処に、鵜殿十
郎三郎、渡辺を追かけ、討とらんとかかる。渡辺父源五左衛

現代語
水野藤十郎と石川新七が突きあいになったが、水野藤十郎が石川新七を突き伏せ、団扇を添えて高名、手柄をたてられた。大見藤六は水野太郎作に突き伏せられ、佐橋甚五郎もここに討たれた。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろから二槍突いたが、傷が浅かったので、引き払って逃げて行った。味方も本陣に皆帰った。
一 正月11日、針崎勝鬘寺へ家康が出陣し、敵も出会い、一日中せり合った。中根喜蔵と名乗る味方の一番槍、敵方は渡辺半之亟(半蔵?)が立ち、渡辺は槍を捨てて刀でかかってきた。中根は何回も槍を突いたが、鑓を捨て太刀を抜き、切りあいになった。互いに傷を負い、ともに引こうとするところへ鵜殿十郎三郎が渡辺半之亟を追いかけ、討ち取ろうとした。渡辺半之亟の父源五左衛門
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