愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

和田城 豊橋市

2020年04月21日 06時02分46秒 | 豊橋市
和田城は吉田城(豊橋市役所)の北東にあります。石巻山の近くです。

和田城の場所

渡辺山城守茂と戸田茂睡
「参河国二葉松」に、この和田城についてのコメントがあります。「昔和田民部という武将が住んでいた。その後、渡部久左衛門が永禄年間に、同じく渡部の息子渡部図書助浄が元亀元年に、また同じく息子渡部山城守茂も住んでいた」ということです。
和田と言えば、和田義盛という鎌倉幕府の御家人を思い出しますが、関係ないようです。
また、渡辺と言えば、槍の名手渡辺半蔵守綱を思い出しますが、これも関係ないようです。

ただ、最後に出てきた渡辺山城守茂はネットで登場しました。山城守茂は父久左衛門の三男で姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小田原攻め、関ケ原の戦い、大坂の陣等で功績があり、徳川忠長(家光の弟で幼名を国松と言った。家光と将軍後継を争ったが敗れる。後に不祥事を起こし改易される)の家臣となりました。
さらに、驚くことに江戸時代の歌人戸田茂睡と渡辺山城守茂がつながっていました。茂睡の父戸田監物(けんもつ)忠は、渡部山城守の養子となり、その息子が戸田茂睡だったのです。戸田茂睡の渡辺姓での名前を馮(たのむ)というそうです。父の監物忠の時に主君徳川忠長の改易があり、父と共に配流されます。そして父が死んだ後、伯父の戸田政次の養子となり、戸田姓を名乗るようになりました。
ところで、名前が「浄」とか「茂」とか一字なのは嵯峨流源氏の始祖が融で、それに倣って一字で通すことが伝承していたそうです。(渡辺守綱は2字なので、こっちが庶流で、茂が本家筋なのかもしれません)

さて、和田城は曹洞宗春興院の東の森の中にありました。実際に森の中に入り、見学しながら描いてみました。

和田城のイメージ図

森に入る前に春興院さんにあいさつに行ったら、溝について教えてくれました。春興院と森の間にある溝は、春興院さんが「竹が寺の敷地に延びてこないように」と掘ったものらしいです。おそらく、寺の北に東西に掘られている溝も竹の進出防止の溝だと思われます。

しかし、いったん森の中に入ると、素晴らしい堀がありました。結構深かったです。



この堀は北に延びて崖となり、川の方につながっていました。さらに、堀の内側は土塁が回っていました。

西側の土塁

土塁は春興院東の森をぐるっと一周していました。

東側の土塁

東のはずれは道路ができていましたが、道路側に土塁があったことから、この道路は、堀だったのかも知れないと思いました。

東外れの道路

この道を隔てて、さらに東側にも森がありましたが、藪がひどくて、進入できず、やむを得ず見学をあきらめました。

和田城は見学できたところでは土塁が巡り、南西には虎口っぽい遺構もあり、単郭の中世の城郭なのかなあと思いました。整備すればきっと素晴らしいお城になると思いました。
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高井城 豊橋市

2020年04月20日 07時25分17秒 | 豊橋市
「参河国二葉松」に高井主膳とあります。高井主膳は、石巻山城の城主です。石巻山城の説明板に「(高井)主膳正は、南北朝時代の吉野朝方の人物と言われ、石巻山城や高井城(石巻町字城の内)で北朝方の足利氏と戦い、敗れて山腹で自害したと伝えられる。」とありました。この城が南北朝の合戦の一舞台だったようです。しかも以前訪れた石巻山城の城主と同じ武将の城でした。(高井城という命名も高井主膳正から来ているのだと思われますが。)
ネットなどでは、土塁が残っているとありましたが、よく分かりませんでした。しかし、城があったらしい場所は高台で、一面に畑が広がり、もしここがすべて城ならばかなり広大な城になると思いました。とにかく見晴らしは大変良かったです。城の立地としては抜群だと思いました。

高井城からの見晴らし
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畔田城(2) 豊橋市

2020年04月19日 08時31分00秒 | 豊橋市
道案内
遺構は林の中にすっかり隠れているので、見学路を探すのがちょっと大変でした。
車は、城下公民館に停めました。道の向こうに「老人憩の家」があります。その横の道をまっすぐ進み、左の2本目の道を曲がります。

2本目を左に曲がる

曲がったら、右の方に家があります。1軒目は黒っぽい家、2軒目は白っぽい家。
この白っぽい家の前で右に曲がります。
あとは、山道ですが、一本道です。

2軒目の白っぽい家の前で曲がる

屋敷跡?
畔田城の森の中に入ると、さっそく両側に土塁らしきものが見えます。屋敷跡っぽい遺構です。図に著しましたが、土塁がぐるっと囲んでいる地形があり、いかにも屋敷跡のように見えます。しかし、「調査報告」では、土塁から近世(江戸時代)の遺物が出てきたりするので、慎重に考えるべきと言っています。

屋敷跡の土塁か?


屋敷跡を囲む土塁?

馬出か?
本丸の前に板の橋がありました。おそらくここが本丸の虎口になると思います。木の板の橋が架けてあるだけで、本丸と手前の曲輪の間は堀になっています。いざというときにはこの橋を外してしまうことになっていたのでしょう。

本丸虎口

手前の曲輪は規模も小さく、周りを堀が囲んでいることから「調査報告」では馬出状というふうに評価されています(高田氏)が、この曲輪が本丸と直接つながらず、土橋で外とつながっていることから、馬出と言えるか疑問に思っています。

曲輪を囲む堀

本丸
本丸には小さな祠が2つ並んでいました。

本丸の祠

「調査報告」に、本丸の先に海岸に向かって土塁が延び、虎口があると書いてありましたが、藪がひどくて確認できませんでした。ただ波の音はとても心地よく聞こえました。

最後につけたしです。
いまさらですが、畔田はどう読みましたか。「はんだ」ではなく「くろだ」と読みます。
「畔」は、もともと田んぼのあぜという意味ですが、湖畔(こはん)のように「みずのほとり」とか「ものの近く」という意味があります(湖畔は湖の近くという意味)。愛知県三河地方では、さらに「ぐろ」と言います。「はしっこ」「すみっこ」という意味で使われます。「車が来たで、ぐろに寄って」(車がきたから、道のはしっこに寄りなさい)のように使います。畔柳(くろやなぎ)という姓は三河の岡崎、豊田に多い姓です。ただ、畔田は富山県に多い姓でした。

畔田城 おしまい
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畔田城(1) 豊橋市

2020年04月18日 14時07分07秒 | 豊橋市
畔田城は、豊橋市にある城です。豊橋市と言っても田原市にかなり近い位置です。近くには戸田氏の高縄城(大津城)があります。

畔田城の位置

畔田氏について
城主は畔田氏です。豊橋市小松原町の東観音寺の寛正2年(1461)の棟札に畔田遠江守、弟修理亮の名前があるそうです。畔田氏が東観音寺の建築か修繕に関わっていたのでしょう。室町時代に畔田氏がこの地に勢力を持っていた証です。
その後、この地域に戸田氏の勢いが大きくなり、文明7年(1475)に戸田氏の支配下にはいります。しかし、東三河は今川氏の侵攻で、戸田氏、牧野氏、今川氏の三つ巴の争いになり、そこへ西から松平氏が加わるという複雑な様相を呈してきます。
天文・弘治の頃(1532~1558)、畔田氏は今川氏に属したようです。その今川氏も永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討たれ、東三河から影響力を失っていきます。畔田氏も永禄7年(1564)の頃遠江平川郷に落ちていったそうです。
なお、畔田氏の関係する城は、畔田城の他に草間城(豊橋市向草間町)、雉子山城(同市畑ヶ田町)、中瀬古館(同市野依町)などがあったようです。

城下(しろした)町の由来
さて、この畔田城は海に面していて、本丸にいると、波の音が聞こえるほどです。その畔田城の北に城下という地名があります。城下町で「じょうかまち」ではなく、「しろしたちょう」と読みます。ネットの情報では、その昔、村人は城の南側の平地に居住していたそうです。「城下」の地名はここからきているそうです。しかし、波による浸食崩壊によって村人たちはしだいに高台へ移るようになり、今では城址が最も海に近くなったのだそうです。地図で見ても分かるように、畔田城の南は海です。この海に昔村があったとはとても信じられません。


城下町と畔田城

老人憩の家
城の近くに老人憩の家があります。ここに畔田氏の年表と縄張り図、畔田氏の概要が掲示してありました。縄張り図は、「愛知県中世城館跡調査報告」(以下「調査報告」)の図とほぼ同じものでした。ところどころ字や図の線が消えたりしていました。せっかくですので、リニューアルしてほしいと思いました。


畔田城縄張り図と由来の掲示


畔田史年表の掲示


畔田城イメージ図

「調査報告」を参考に描いてみました。まだ遺構があると「調査報告」には描かれていますが、実際は雑木林と藪がすごくて深入りができませんでした。

畔田城 つづく
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松尾山城(2) 岐阜県関ケ原町

2020年04月07日 06時35分59秒 | 岐阜県
馬出とされている遺構
本丸から虎口を抜けて南の方に出ると、曲輪があります。この曲輪は周りを土塁で囲み、ここから敵を攻撃できるようになっています。同時に、この曲輪を「馬出風(うまだしふう)」と見る方もいます。(中井氏など)確かに前方に堀切が左右に2本出ていて、敵の侵入を防いでいます。しかし、同時に、堀切の中央に土橋(どばし)がありますので、私は馬出とは言えないと思います。土橋から敵が容易に侵入できるからです。この曲輪を馬出だと考えるならば、この土橋はなかった、あとで造られたものと考えなければいけないと思います。

土橋(土塁も虎口があったかのように開けられている)

西の曲輪
松尾山城がしっかりした山城であることを示すものの一つです。この曲輪は、本丸の西側に谷を挟んで造られています。北と南に土塁を設け、特に南側は土塁の外にかなり険しい堀切(ほりきり)を造って防御しています。また本丸とこの曲輪との間の大きな谷は、南から侵入した敵を誘い込んで一網打尽にすることができます。

西の曲輪(南の曲輪から撮影、手前に大きな堀切がありました)

食い違い土塁
この谷の中に食い違いの土塁があります。敵がこの谷から本丸や西の曲輪に登ろうとしても食い違いの土塁によって勢いを止められ、周りから攻撃されてしまいます。

食い違い土塁(実際残っていたのは手前の土塁で、奥のもう一つの土塁は、付け根のところに名残りだけ残っていました。)

竪堀
西の曲輪の南側の堀切の向こうにまた一つ曲輪があります。この曲輪は周りに土塁もなく防御が緩くなっています。そこで、関ヶ原以前の城の跡なのか、1か月で間に合わなくて緩いまま、造りかけになっているのか説が分かれているようです。なお、南端の竪堀3本は必見と中井氏は言っています。

3本の縦堀

どうやって攻めていったの?
さて、この松尾山城から大谷吉継の陣にどこを通って攻めていったのでしょう。大谷吉継の陣跡は松尾山の北西にあります。でも、松尾山城からそっち方面に出撃するのが難しそうでした。その理由は、本丸の出入り口である虎口が関ヶ原とは反対の方向にあること、また本丸や腰曲輪の北側(関ヶ原側)には土塁などがあって、防御するようにはなっていますが、出撃するための道などが見当たらないこと、さらにいくつかある曲輪の配置や馬出、堀切等が関ヶ原とは反対方向(南側)から侵入してくる敵を想定して造られていることように思えたことです。どうやって大谷吉継の陣に攻めていったのか、疑問として残りました。

松尾山城 おしまい
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