愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

河和城址 美浜町(3)

2015年03月09日 07時04分15秒 | 美浜町
さて、こんなものかと東側の道の方に降りて、ぐるっと左回りに史跡を回ってみると、北のほうが紫陽花園になっていました。当然柵がめぐらされていたのですが、途中入ってくださいといわんばかりに柵が切れているところがありました。なぜ柵が切れているのかと中に入ってみると、曲輪Ⅰの西側の横掘りには入れる入り口があるのを偶然見つけてしまいました。
急な登り坂になっていて、横に手で掴んで登る為のロープもありましたので、間違いなく城に入るために作られた入り口だと思います。

横掘

写真は、曲輪Ⅰの西の横掘りを北から見たものです。大変立派な横堀でした。末森城でも堀の中に入って見学したのを思い出しましたが、堀の規模としては似たような感じでした。

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱをまじかに見ることができました。

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲは竹林になっていましたが、けっこう広くて、ここから城に侵入してきた敵を攻撃するために設けられたことが分かりました。

河和城は、規模としては大きな城でした。曲輪Ⅰと西側の横堀、帯曲輪は素晴らしかったですが、曲輪Ⅳ、曲輪Ⅴは果樹園となっていました。また、竹やぶに覆われていて、土塁や櫓跡、虎口跡などがよく分かりませんでした。
(河和城址 おしまい)
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河和城址 美浜町(2)

2015年03月08日 06時33分17秒 | 美浜町
曲輪Ⅰの虎口部分
曲輪Ⅰの北側に虎口、櫓台があるというので、探しましたが、よく分かりませんでした。ただ堀切のようなものがあって、もしここに虎口があったとしてもかなり城に入りにくいなあと思いました。

写真の上部が竪堀のようになっていました。

曲輪Ⅰ
主郭(曲輪Ⅰ)は、草が刈ってあって、平になっていました。


主郭(曲輪Ⅰ)の西側は土塁がありました。


曲輪Ⅰの南端の櫓台
この土塁の南端が櫓台になっているはずなのですが、竹やぶでよく分かりませんでした。


曲輪Ⅳから曲輪Ⅴ
曲輪Ⅳは、果樹園になっていました。曲輪Ⅳには、土塁の跡らしきものがありました。土塁に木がおい繁り、まるで「天球の城ラピュタ」のように見えました。曲輪Ⅳと曲輪Ⅴとの間にある土塁の跡がありました。東側の土塁跡は、まわりが虎口っぽくなっていたので、もしかしたら、櫓台だったのかもしれないと思いました。
曲輪Ⅴも果樹園になっていました。
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河和城址 美浜町(1)

2015年03月07日 16時04分33秒 | 美浜町
河和城築城は戸田氏
田原城、戸田氏のつながりで河和城址を訪れました。河和城は、戸田氏が築城したと伝えられています。

河和城の横掘

河和城址は、美浜町にあります。戸田氏の本拠地である渥美半島田原と知多半島美浜町河和は離れているように思っていましたが、地図で見ると、海を渡ってすぐのところでした。


陸路を通っていくと、三河(今川や松平)、尾張(織田や水野)を通らないといけませんが、船で行けばすぐです。戸田氏はおそらく三河湾の海上権を握っていたのではないでしょうか。

地域の人に壊された河和城
案内の看板におもしろい話がありました。
1590年(天正18年)8月、秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光が小田原で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関が原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。(現地案内板より)

河和の人々が城主守光が戦死したのを聞いて城を壊したというのは、ある種一揆のような感じを受けました。さらに、守光の妻子の親戚が水野氏というのもおもしろいです。調べましたら、守光の妻は水野信元の娘で、於大は水野信元の異母妹です。つまり、この時代、河和戸田氏は知多半島の北部を支配していた水野氏と婚姻関係を結び「同盟関係」にあった事が窺えます。

河和城址概要図
さて、駐車場から階段を登るとすぐ曲輪Ⅰになります。

「愛知の山城ベスト50」より
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野間大坊 美浜町

2014年03月26日 11時55分58秒 | 美浜町
 南知多町の師崎に所要があったので、ついでに知多半島の史跡を回ることにしました。といっても、全然知らないので、ネットを調べたところ、ほかにもたくさんあると思いますが、とりあえず美浜町に野場大坊、南知多町に資料館があることが分かったので、行ってみることにしました。

美浜町とは
美浜町は、知多半島の中ほどにある町です。

 
野間大坊は源義朝最期の地
 ここに野間大坊というお寺があります。野間大坊に行こうと思った理由は、源義朝が死んだ場所だと分かったからです。源義朝は、鎌倉幕府をひらいた源頼朝のお父さんです。2年ほど前のNHK大河ドラマ「平清盛」でも源義朝は出てきました。玉木宏が演じていました。ので、イメージとしては源義朝=玉木宏という感じです。

 野間大坊でも源義朝について書かれた掲示板がありました。「血の池」というところの看板です。


家来に殺された源義朝
 看板によると、源義朝は「平治の乱」で、平清盛に敗れ、この野間の地まで逃げてきたそうです。しかし、家来である長田忠致(おさだ ただむね)・景致(かげむね)に殺されてしまうそうです。そして、この血の池とは、その殺した源義朝の首を洗った場所だそうです。池の中に供養塔が何本も立っていました。


源義朝の墓
 また、源義朝の墓もありました。

墓の入り口




野間大坊とは
 さて、野間大坊そのものは真言宗の寺院です。天武天皇の時代に役小角というひとがが建立し、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられています。その後、空海が知多半島を訪れたときに、この寺に立ち寄っているそうです。

案内板

 案内板に、「大御堂寺」というのがありますが、このお寺も野間大坊のお寺です。野間大坊の本堂は、別にあり、お守りなどを販売していました。

野間大坊 本堂
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