愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

板山長根古窯 阿久比町

2017年05月14日 07時14分05秒 | 阿久比町
せっかく阿久比町に来たので、もう一つ遺跡を回ることにしました。こんどは古窯です。板山長根古窯といいます。場所がなかなかわからず探すのに苦労しましたが、分かってしまうと簡単で、半田北部グラウンドのすぐ北でした。

板山長根古窯の位置(グーグル航空写真より作成)


古窯全景(屋根は遺跡の保護の為に設けられています。古窯そのものは屋根の下にあります)

現地案内板では下記のように説明されていました。

知多半島には、中世につくられた古窯が数多く存在している。ここに展示する板山長根古窯は三基から構成されていて山茶碗、小皿の民家の雑器を生産していた山茶碗窯である。一号窯は焼台など、二号窯は窯奥まで火をいきわたらせるための「分炎柱」、また三号窯は窯内に空気が入らないようにする「火袋」などが残っている。
大きさは、最大巾約1.8mから2.7m、長さは約8mの中規模のものである。なかでも公開展示している二号窯は、たき口から分炎柱、焼成室入口にかけて完全な姿で残り、山茶碗、小皿が十数枚ずつ重なって窯づめの状態のままで発掘された珍しいものである。しかも、窯壁に修復の跡が残されており数回の焼成に耐えたことを示している。
なお、一、三号窯は埋め戻し保存されている。


なかなか難しいですが、中世(鎌倉・室町時代)に知多半島には茶碗などを焼く窯がたくさんあったようです。板山長根古窯は民家の茶碗などを生産してたようです。ここで生産して清須などの市場に売りに行っていたのでしょうか。この古窯は3個あったもののうちの一つということです。

古窯入口部分(入口部分には大きな穴が二つありました。ここから焼き物を入れたのでしょうか。)

知多半島は今常滑焼が有名です。しかし半島全体に焼き物の産地があったようです。
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二子塚古墳 阿久比町

2017年05月13日 06時34分01秒 | 阿久比町
4月24日、阿久比町の古墳を訪ねました。二子塚古墳です。名前が示すように前方後円墳です。

現地の案内板には以下のように説明がありました。

二子塚古墳は知多半島で唯一の前方後円墳といわれている。
この古墳は、古墳の編年形式や阿久比川の沖積地に位置していること等から、古墳時代中期(5世紀)までさかのぶることができる前方後円墳といえる。このことは、この地方と大和朝廷の深い関係をうかがわせる。
本格的な発掘調査はされていないが、地元では円筒埴輪片がこの古墳から出土したと伝えられている。また、盛土部分には、器形の復元はできないが土師器の細片が含まれている。
この古墳は相当な変形を受けており、特に胴部のくびれ部分は第2次世界大戦中開墾によって大きく削られている。 阿久比町教育委員会


いわゆる鍵穴のようなはっきりとした形は残っていません。

二子塚古墳の航空写真(グーグル航空写真より)

見る角度によっては「ああ前方後円墳だ」と思わせるアングルがありました。

二子塚古墳全景(南から撮影)

この古墳から円筒埴輪が出土しているというので、一度見てみたいと思いました。
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関ヶ原古戦場(9) 岐阜県

2017年05月12日 14時32分11秒 | 岐阜県
福島正則陣所跡
松尾山から降りたら、関ヶ原の南の方面を歩くことになります。まずは福島正則の陣所跡です。

福島正則陣所跡

案内板に残念ながら松尾山に発砲したとは書いてありませんでした。代わりに宇喜多秀家に向けて宣戦布告の意味で発砲したようです。

藤堂高虎・京極高知陣所跡
すぐ近くに藤堂高虎・京極高知陣所跡がありました。

藤堂高虎・京極高知陣所跡

ここにも藤堂陣や京極陣が松尾山に発砲したとは書いてありません。どうも、先に書いた話(家康が寝返りを促すため福島・藤堂・京極らに松尾山に向けて発砲させた)は私独自のもののようです。

西首塚
さて、そこから北の方に進み、国道21位号線を越えると西首塚という史跡がありました。

西首塚

西首塚の元は、関ヶ原の戦いの勝者である徳川家康が地元の武将竹中重門に戦死者の処理を命じ、竹中重門は西と東の2つ戦死者を弔う首塚をつくったそうです。西首塚は昭和6年に国指定されたそうです。関ヶ原の戦いでの戦死者は、ネットで約8千という数字も出ていますが、詳しい数字は分からないとしています。1万人ぐらいはいたのではないでしょうか。私もお参りしました。

さて、次に本多忠勝の陣所跡に行きたかったのですが、道を1本間違えてしまい、行きつくことはできませんでした。時間もかなり経過していて体も弱ってきましたので、そのままにしておくことにしました。

松平忠吉・井伊直政の陣所跡
いよいよ一巡して元の資料館に近づいてきました。東軍の先方隊松平忠吉・井伊直政の陣所跡が見えてきました。

井伊直政・松平忠吉陣所跡

東首塚
このすぐ隣に東首塚がありました。昭和6年に国に指定され、その時には「周囲5間(約9メートル)高さ5尺(約1.5メートル)の円塚」だったそうです。さらに東塚には大変立派な門が設置されていました。

東首塚の中心にあった「スダジイの古木」

東首塚の門

東首塚でもお参りし、ようやく元の資料館に戻ることができました。

以上を持ちまして関ヶ原古戦場めぐりは一応区切りとします。まだ東の南宮山方面が残っていますが、次回ということにします。家康の床几場(11時5分)から最後東首塚(16時16分)まで5時間余りを歩き、その間に松尾山(200メートル)の山登りもしたので、くたくたでした。
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関ヶ原古戦場(8) 岐阜県

2017年05月10日 05時40分18秒 | 岐阜県
脇坂安治陣所跡
大谷刑部吉継の墓にお参りした後は松尾山に向かいました。途中脇坂安治という武将の陣所跡がありました。

脇坂安治陣所跡

松尾山の北側の麓です。どんな武将か知りませんでしたが、案内板を読むと案の定小早川秀秋とともに東軍に寝返ったとありました。

陣所跡に土塁か?
この陣所跡を見回ると北側に土塁のようなものが見受けられました。後世に造られたものかも知れませんし、土塁とは違う構造物かも知れません。しかし陣所なので、こういう土塁状のものを周りにめぐらしていてもおかしくはないと思いました。

脇坂安治陣所北側の様子

苦しかった松尾山登山
いよいよ松尾山です。案内マップには「山麓駐車場から約2キロ、高低差約200メートル徒歩40分」とありましたので、40分ならたいしたことないかと思いましたが、高低差200メートルを40分で登るというのは、後で考えると結構きついことなんだと思いました。実際きつかったです。何度も休憩しました。特にその日は、急に暑くなった日で4月中旬なのに20度を超える気温でした。また、3時間ぐらい関ヶ原を歩いて巡った後の登山ということもあり、ふらふらでした。

松尾山
何はともあれ松尾山に登りました。入り口に看板があり、そこには「松尾山城」とありました。

松尾山入口の看板

看板によると応永年間に富島氏によって築城され、織田信長、浅井長政等に管理されながら最終的に関ヶ原で小早川秀秋の陣所となったようです。

松尾山からの眺め

徳川家康の威嚇射撃を考える
松尾山から関ヶ原全体を見ることができました。

小早川秀秋はここから戦いの趨勢を見極めていたのでしょう。一説に徳川家康は、内通していたにもかかわらず、いっこうに東軍として軍事行動を起こさない小早川秀秋を見て、威嚇射撃をしたと言われています。

しかし、家康本陣から松尾山までは地図で測っても2.2キロあります。とうてい届きません。鉄砲の射程距離が最大で400メートルぐらいしかないからです。実際登ってみて、それは実感します。

もし本陣から射撃をすれば、松尾山までの間に陣を取っている福島正則、藤堂高虎らの陣を背後から射撃することになり、東軍は大混乱に陥ってしまいます。ということは、徳川家康本陣からではなく東軍の松尾山に近い陣所からの射撃だったと思われます。

つまり、徳川家康は関ヶ原北西の石田三成、小西行長、宇喜多秀家らと黒田長政、井伊直政、松平忠吉らの戦闘がなかなか決着がつかないのを見て小早川秀秋に寝返りを催促するために、松尾山近くに布陣していた福島正則、藤堂高虎、京極高知らに発砲を命じたということでしょうか。

福島正則陣所から松尾山まで約1.5キロなので、半分ぐらいは届いたことになります。ちょうど脇坂安治の陣所のあたりぐらいは届いています。(約500メートル)

一番驚いたのは、脇坂安治でしょう。小早川秀秋が動かないのでどう動くかずっと松尾山を見守っていたら急に背後の福島正則から射撃されたのですから。「なんで、福島正則が俺たちに攻撃してくるのだ?東軍につくという密約ができているのに。これはぐずぐずしていると、西軍とみなして攻撃するぞ、早く東軍として参陣しろという合図か。」と思ったかどうかは分かりませんが、決断に迫られたのは間違いないと思います。なので、小早川秀秋より先に脇坂安治が大谷吉継に向けて攻撃を開始したのかもしれません。それを見て小早川秀秋も松尾山から西軍攻撃を開始したということが考えられます。

松尾山は山城だ
それはさておき、この松尾山陣所跡よく見ると周りに土塁があります。頂きがおそらく主郭と思われますので、この土塁は主郭を防御するためのものと思われます。

松尾山城の主郭土塁

土塁はぐるっと主郭を取り囲んでいました。そして南側には枡形の虎口がありました。

主郭南枡形虎口

さらにこの虎口を南の方に下っていきますと、土橋らしきものもありました。

土橋

また腰曲輪や土塁、堀切なども確認でき、りっぱな山城であることが分かりました。

土塁の跡

山を降りるときも気を付けて見てみますと道の脇に曲輪があり、土塁を確認することができました。

降り道の右側にあった曲輪と土塁

松尾山はただの陣所と思っていましたが、今まで山城を見てきた経験が生かされて立派な山城であることが分かり、大変有意義でした。ふらふらになりながらも登った甲斐がありました。
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関ヶ原古戦場(7) 岐阜県

2017年05月09日 15時32分06秒 | 岐阜県
大谷吉継
西軍の武将といえば石田三成に次いで大谷吉継です。

大谷吉継(片岡愛之助 NHK大河ドラマ「真田丸」より)

大谷吉継は画像にもあるように顔を隠すような頭巾をしていたようです。それは顔が崩れるような病を患っていたからだそうです。(ハンセン病や目の病気等の説があります)関ヶ原の戦い当時もこのような格好で出陣したのでしょうか。

大谷吉継の墓

宇喜多秀家の天満山からさらに西の方へ歩き、山を登っていきますと大谷吉継の墓があります。墓の傍らにはこんな掲示がありました。

文部省の立て札

文部省(現文科省)です。国の史跡なのです。しかも昭和14年とありますから、戦前からの史跡だったのです。

大谷吉継陣所跡
この墓から少し下ったところに大谷吉継の陣所跡がありました。

大谷吉継陣所跡

ここからは小早川秀秋の松尾山が見えます。というより松尾山が見えるこの位置に大谷吉継は陣を取ったのでしょう。

大谷吉継陣所跡から見る松尾山

石田三成といい、大谷吉継といい、早くから史跡として認められている感じがします。これは「反徳川」である明治政府(それに連なる戦前の政府)が顕彰の意味も込めてやったのでしょうか。そんな感想を持ちました。
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