愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(57) 松平記

2024年01月06日 07時06分59秒 | 松平記

松平記p57

翻刻
不叶、此由酒井雅楽助に申、酒井聞て使を以て断申けれハ、
其使を切ける間、家康是を聞召、酒井雅楽助を検断に被仰
付、寺中の狼藉のもの共いましめ給ひ。彼寺の坊主の檀那
并末寺中の末山土民百姓一味して一揆を起し、駿河衆の所々
に残りし衆へ触送り、逆心を催し先三ヶ所の寺を城にか
まへ、家康譜代衆も皆此宗旨の檀徒ハ一味し、家康へ逆心
をなす
一 吉良東條義昭ハ、一度和談被成、岡崎と無事に被成候へ共、
今度一揆共す々め申候間、又敵と成、東條へ入城有て、逆心
を起し給ふ。荒川甲斐守殿初より御味方に成、西尾の城を

現代語
寺には叶わなかったので、このことを酒井雅楽助に話した。酒井はそれを聞いて使いを出して抗議をしようとしたが、寺側はその使いを切り捨ててしまった。家康がこれを聞き、酒井雅楽助に検断するよう申つけられ、上宮寺の狼藉者を戒められた。すると、上宮寺の坊主、檀那衆、末寺末山の人々が徒党を組み、三河に残っている(家康に敵対する)駿河衆に触れ回り、家康に反抗するように申し入れた。まず三ヵ寺を城に構え、家康の譜代であってもこの宗派(浄土真宗・一向宗)の檀徒は一味に加わり、家康に反抗することになった。
一 吉良東條義昭は、一度家康と和談し、岡崎と争わないことになったのだが、この一揆勢たちにすすめられて、家康の敵に回ってしまった。東條城に入り、家康に謀反を起こした。荒川甲斐守は、はじめ味方になり、(東條義昭の)西尾城を(攻められた)

コメント
酒井雅楽助は正親とされます。大河で活躍した酒井忠次と親戚ではあると思いますが、直系のつながりはないです。酒井家は2系統が知られており、雅楽助系と左衛門尉系です。どちらも徳川幕府では重臣中の重臣の家柄になります。なお、このあと出てくる酒井忠尚(上野城主)は、左衛門尉家の系統のようです。さて、この雅楽助が検断をしたということは上宮寺、さらには本證寺、勝鬘寺等真宗各寺院の不入の権利、営業の自由を蹂躙されたに等しい状態です。また、三河は桶狭間の戦い(永禄3年)により今川の権威が崩れ、新興勢力の松平や一向宗の勢力が拮抗していた情勢だった(永禄5年)と思われます。松平にとって三河での権力を確立するうえで引けない状況だったのかも知れません。しかし、家康は自身の譜代の中からも一向宗に与し反抗するものが出、家康3代危機といわれるピンチを迎えることになりました。
一方の東條義昭ですが、名門吉良の出身で、名前だけでなく実質的にも三河を支配したいと考えていたのではないかと思います。一度は家康に敗れてしまいました(藤波畷の戦い)が、この一揆をチャンスととらえたのか一揆側にまわり家康に再び挑むことになりました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松平記(56) 松平記 | トップ | 松平記(58) 松平記 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

松平記」カテゴリの最新記事