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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

城の会旅行(兵庫県)(12)篠山城(5)

2017年12月17日 06時13分49秒 | 兵庫県

篠山城縄張り図

埋み門から外に出るるとき、ガイドさんが「ここを見てください」と石垣を指しました。石垣には、刻印がありました。

⑧三左之内の刻印

「三左之内」と書かれているそうです。三左とは、普請総奉行だった池田輝政のことで、この辺りの石垣が池田輝政の担当だったのではないかということでした。

埋み門から外に出ると、城の高石垣が実によく見渡せました。とても美しい石垣でした。

⑨立派な高石垣

そこから土橋を渡り、南馬出へと進みました。馬出は山城でよく見かけますが、山の地形の関係上、小さいものが多いです。また、名古屋城にも角馬出がありましたが、土塁ではなく石垣でできていました。今回は土塁でできた角馬出、しかも規模の大きいものでしたので、大変見ごたえがありました。

⑩土塁の南馬出案内

⑪馬出の内部


⑪馬出の東側部分

この後、城の西側にある武家屋敷跡を見学しました。一般の方が住んでいる住居ですが、城下町保存ということで昔ながらの家を守っていらっしゃいました。住民の方の協力があって町並み保存ができるということを実感しました。

篠山城 城の会旅行 おしまい

城の会旅行(兵庫県)(11)篠山城(4)

2017年12月16日 06時37分40秒 | 兵庫県

篠山城縄張り図(赤い番号は以下の写真の番号です)

二の丸の大書院を出ると、こんどは本丸のほうに向かいました。

④本丸に向かう城の会の方々

本丸内は神社になっていました。青山神社と言って、篠山城主最後の青山氏を祀ってあるそうです。

⑤本丸に鎮座する青山神社

⑥本丸の天守台へ
天守台からは、八上城の山(高城山)や三の丸の現在の様子などが見渡せました。案内板によれば、天守台は、本丸から4メートル、外側の犬走りからは17メートルの高さがあるそうです。むかし「笹山」という小山だったことが頷けます。

天守台を降りて二の丸に戻り、南の方に行きますと、埋み門があります。その名の通り二の丸からずいぶん下がったところに門があり、いざというときには、ここを埋めて敵の侵入を防ぐためのものだそうです。

⑦埋み門(二の丸から撮影)

篠山城 続く

城の会旅行(兵庫県)(10)篠山城(3)

2017年12月15日 05時48分45秒 | 兵庫県
大書院には、いろいろなものが展示してありました。その一つ、篠山城の復元模型です。

篠山城復元模型

また部屋は豪華絢爛で、格式が高いものでした。

上段の間

次の間

これは上段の間の次にある部屋です。襖絵は、狩野派の画家が描いたそうです。さすがは天下普請。ちなみに名古屋城も狩野派でした。これも天下普請。

これは孔雀の間。その名の通り孔雀の絵が掛けられていました。

孔雀の間

立派な大書院を出ると、二の丸には当時の建物の実物大の間取りが描かれていました。(岡山城にも同じような間取り図があったのを思い出しました)

二の丸から見た大書院。手前は間取り図。

篠山城 続く

城の会旅行(兵庫県)(9)篠山城(2)

2017年12月14日 05時25分30秒 | 兵庫県
さっそく篠山城に入城です。その前にボランティアガイドの方から概要の説明をしていただきました。

篠山城前で説明を聞く城の会の方々(北廊下門前)


篠山城縄張り図(赤い番号は以下の写真の番号です)

内堀にかかる北廊下から左側にジグザグの堀が見えました。また、堀と石垣の間には犬走りがあります藤堂高虎の縄張りの特徴だそうです。

①北東の内堀と犬走り

門の石垣には、いろいろな刻印が刻み込まれていました。天下普請であることの証でもあります。

②石垣の刻印

内堀の中に入ったら、ひとまず「大書院」を見学することにしました。大書院は、二の丸に建ち、主に来賓の接待用に使われたそうです。昭和19年、失火により残念ながら焼失してしまったそうです。平成12年に再建されました。再建されたのは、慶長14年(1609)のものだそうです。

③大書院入り口

篠山城 続く

城の会旅行(兵庫県)(8)篠山(ささやま)城(1)

2017年12月13日 05時56分23秒 | 兵庫県
興禅寺を後にして、もう一度戻る感じで篠山城へ行きました。

篠山城の位置(yahoo地図から作成)

前身は八上城
全身は八上城と言います。

篠山城と八上城の位置関係(Google地図から作成)

篠山城天守台から見た八上城

天下普請で建てられた篠山城
八上城は、波多野氏、明智氏、前田氏と城主が続きます。
関ヶ原の戦いの後、慶長13年(1608)に松平康重が八上城から現在の篠山城に移転します。
この移転築城の目的は、豊臣秀頼の大阪城包囲網の一つとしての築城でした。それで、天下普請になり、藤堂高虎が縄張り担当をし、池田輝政が普請総奉行になり、山陰、山陽、南海道17か国、21の大名が夫役を務めたそうです。(城の会資料)天守台は建てられましたが、天守閣は造られませんでした。
江戸時代は、元和5年(1619)藤井松平氏の松平信吉、慶安2年(1748)に形原松平氏松平康信、そして寛延元年(1748)青山忠朝が入り、幕末まで続いたそうです。(城の会資料より)

篠山城縄張り図(城の会資料より)

正方形の篠山城
図のように、ほぼ正方形の外堀に囲まれて本丸、二の丸、三の丸があります。堀の外には、馬出が造られています。本丸と二の丸は、さらに内堀に守られています。北東部は、折れ曲がっていて防備を強化してあります。二の丸には大書院が復元され、本丸には天守台が他より一段高く造られています。

篠山城 続く