愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(43) 松平記

2022年12月26日 10時40分33秒 | 松平記

松平記p43

翻刻
附、永不可相違候、然者如前可令所務、守此旨、弥可抽奉公
状如件
 永禄三年六月八日 氏真在判
     岡部五郎兵衛殿

一 同三年より四年の間苅屋衆と岡崎衆せり合い度々也。然爰
に、信長より水野下野守を以、元康色々和談の扱有。互に起
請文を書取かハし、和談相済、岡崎衆、尾州衆の弓箭無之候

一 其比また京都の所司代三好修理大夫長慶の領分ハ五畿
内、播磨、但馬、淡路、阿波、已上十ヶ国の侍彼下知に随う。公方

現代語
(還)付する。永らく相違なく候。そうであるので、以前のように庶務を行い、この旨を守り、いよいよ奉公するべし。以上である。
 永禄3年6月8日 氏真
  岡部五郎兵衛殿

一 永禄3年から4年の間、刈谷衆(水野)と岡崎衆(松平元康)でせりあいが度々あった。そこへ信長より水野下野守信元を通して、松平元康に対していろいろ和談の話があった。信長と元康は互いに起請文を取り交わし、和談が成立した。岡崎衆と尾州衆は争うことがなくなった。
一 その頃、京都の所司代三好修理太夫長慶の領土は五畿のうち、播磨、但馬、淡路、阿波。さらに10か国の侍が三好長慶の命令に従っていた。将軍(様)・・・

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清州同盟は信長から?―信長と元康の力関係―
中段は、いわゆる「清州同盟」についての記述です。永禄3年から4年の岡崎と刈谷の戦いとは具体的には「石ヶ瀬の戦い」と思われます。「松平記(33)」そこへ「清州同盟」の話が持ち上がります。この文を読むと、信長の方から水野信元を通して話が持ち掛けられたように書かれています。しかし、信長が和議を持ち出して、元康に自分の居城清州城に出て来いというのは、あまりに元康が軽んじられています。信長と元康の力関係はどうだったのでしょうか。この時は対等だったが、徐々に信長が優位になったという説もあります。そうだとすれば、和議は、仲裁に立った水野信元の刈谷城か緒川城ぐらいでやってもよさそうなものです。しかし、この「松平記」に和議の場所は書かれていませんが、「清州同盟」という言葉が残る通り和議の場所は清州城だった可能性が強いです。そうすると、この時点での信長と元康の力関係は信長の方が強かったのかも知れません。桶狭間の戦いで元康の主君である今川義元を打ち負かしたのは、他でもない信長だったのですから。
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太尾山城(3) 滋賀県米原市

2022年12月22日 06時09分02秒 | 滋賀県
南城
北城と南城の間は尾根上の道が通っていました。そして、南城に入る手前にかなりはっきりした堀切が見られました。

南城北の堀切②

南城は、山の頂上を掘りこんで造ってあり、まわりの土塁も積み上げたものではなく、曲輪を掘りこんで土塁となるべき部分はそのまま残すことによって土塁にした感じでした。

南城の土塁

その南城のさらに南西方向に櫓台があり、そこから堀切に向けて急峻な切岸が見られました。

南城西の堀切③と櫓台の斜面(切岸)

太尾山城のように北城と南城を持つ山城を「別城一郭」と呼ぶそうです。

太尾山城 おしまい
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太尾山城(2) 滋賀県米原市

2022年12月21日 05時28分57秒 | 滋賀県
北城
この岩を過ぎると、いよいよ太尾山城北城です。北城の本曲輪の手前に小さな曲輪があり、そこから琵琶湖が一望できました。

北城の曲輪①からの眺望

よくみると、以前登ったことがある山本山が見えました。大変美しい形をしていると改めて思いました。

北城曲輪①からの見える山本山

概要図ではこの曲輪の土塁がしっかり描かれていましたが、実際はかなり低くなっていました。

北城曲輪①の土塁跡

北曲輪には鉄塔があり、その鉄塔の東側に小高い土塁が残っていました。昔はぐるっと回っていたのかも知れません。


北城の土塁

北城の東には堀切があります。今はかなり浅くなっていて、両側の部分も埋まってしまっていますが、昔はしっかり掘られていたのだろうと思いました。

北城東の堀切①

北城の南側には曲輪が3つほどあり、2つ目の曲輪と3つ目の曲輪の間には堀切が設けられていました。

太尾山城 つづく
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太尾山城(1) 滋賀県米原市

2022年12月20日 05時54分52秒 | 滋賀県
寒波襲来
この日は寒波が押し寄せ、東北、北陸で大雪、吹雪の予想が出ていました。米原は滋賀県ですが、雪の多いところです。北西の風が若狭湾を通り抜けて琵琶湖に入り、伊吹山系にあたって滋賀県に雪を降らせるのです。大丈夫かなあ、ちょっと心配でしたが、せっかく計画を立てたので、がんばって行くことにしました。

境目の城
この城は北に浅井氏、南に六角氏があり、ちょうど境目の城になっています。両氏による攻防が繰り広げられたそうです。浅井長政の家臣である中嶋宗左衛門が城主を務めていたそうですが、元亀3年に織田信長に攻められ落城したそうです。

青岸寺

太尾山登山案内板

太尾山の登り口は麓の青岸寺にあります。左からのコースと右からのコースがりましたが、私は左からのコースで上りました。


太尾山城概要図
遺構に付けた番号は、この記事での遺構番号です

盗人岩
太尾山城に着く前に「盗人岩」という奇岩がありました。「盗人が岩陰に隠れ、村人を脅かした」という言い伝えがあるそうです。

盗人岩

太尾山城 つづく
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下社城 名古屋市名東区

2022年12月19日 05時26分09秒 | 名古屋市名東区
柴田勝家生誕の地
下社城は、柴田勝家の生まれた城です。現在は、明徳寺という真宗高田派のお寺です。

明徳寺

案内板によると、享禄3年(1530)に生まれ、幼名を柴田権六と言ったそうです。「信長公記」でもはじめのうちは柴田権六として登場しています。

柴田勝家生誕の石碑(左側の黒っぽい石です)

眺望にすぐれた高台に立つ城
この寺は高台にあり、なるほど城として考えると辺りを見下ろせ、視界も東をのぞいて3方に開けています。

寺の境内から南の方向を眺める

寺の西側は切り立った壁になっていて、恐らく城のときには切岸か石垣だったとそうぞされます。お寺の西横に公園がありました。これは昔曲輪だったのではないかと想像しました。

柴田さんが多い
こんな高台にあったとは知らなかったと、感心して帰ろうとして、ふと家の表札を見ると「柴田」です。

明徳寺近くの柴田さん

きっと柴田勝家の末裔に違いないと思いました。気になったので、まわりをぐるっと調べましたら、なんと柴田さんが5軒ほども寺の周囲にありました。これは、以前寺の敷地がもっと広くて、柴田さんが分家をした時に、土地を分けてもらったので、まわりに柴田さんが多いのではないだろうかと想像しました。だから、おそらく柴田さんはみんな親せきだろうと思いました。
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