愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

東広瀬城 豊田市

2015年04月29日 06時53分49秒 | 豊田市
西広瀬城の次は東広瀬城です。

東広瀬城概要図(愛知の山城ベスト50より)

図の右下から入りました。

石碑が県道沿いに立っていました。

土塁跡
左に折れて入っていきますと、右手にさっそく土塁跡が見えました。


この土塁の上にお墓のようなものがありました。

「妙法 城山 有縁(無縁) 法界萬霊塔」と正面に書かれていました。よくわかりませんが、この城で戦があり、戦死した兵士を弔うためのものでしょうか。

曲輪Ⅱ
山を登っていくと、曲輪Ⅱが見えました。建物は神社の倉庫のようです。


曲輪Ⅰ
曲輪Ⅰには広瀬神社の社がありました。


腰曲輪
曲輪1の西に腰曲輪が確認できました。


旧名鉄跡
この社から左手を降りていくと、急な階段があり、搦め手に出ることができました。搦め手付近には線路がありました。旧名鉄です。


そして、それを西のほうにたどっていくと、名鉄の旧駅がありました。「三河広瀬駅」です。

今は、高齢者のいこいの場所となっているようです。

全景
ぐるっと左回りに城山を回り、大手門付近に来ました。今は民家になっています。

東広瀬城全景、正面の民家の入り口付近が大手門です。
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西広瀬城、東広瀬城の歴史 豊田市

2015年04月27日 07時35分56秒 | 豊田市
西広瀬城、東広瀬城についての歴史を紹介します。

西広瀬城
案内板によれば、「城主、天文年間以降、尾張織田信長の臣佐久間氏一族が居城した。」とあります。「愛知の山城ベスト50」では、「佐久間全孝、あるいは佐久間信盛兄の佐久間信直と伝えられる。佐久間全孝は、徳川家康の父松平広忠の暗殺を仕組んだ人物、広忠は、全孝が送り込んだ岩松弥八によって絶命した」とありました。

東広瀬城
案内板によれば、「1344年児島高徳が築城したといわれ、1560年(永禄3年)徳川家康に攻められ落城した。」とあります。
ベスト50では、「三宅氏の居城であった。児島高徳の築城とされるが、高徳を祖とする三宅氏が後に唱えたものと考えられる。永禄元年(1558年)に初陣の徳川家康に攻撃され、同6年(1563年)再び家康の攻撃を受けた。」とありました。

家康による攻撃の年代が異なるので、いろいろみてみました。

◎豊田市のあゆみ「弘治4年(1558年)今川義元、寺部城を攻める。このとき、元康(家康)の初陣。翌年(1559年、永禄2年)、元康は、佐久間兵兵衛の広瀬城を攻めています。」「永禄3年、元康は広瀬の三宅高貞を攻め、さらに翌4年、広瀬・伊保の2城を攻めています。」

「豊田市のあゆみ」
この本は、平成23年に豊田市市制60周年を記念して発行された市史の概要版です。

◎「三河物語」(斉木一馬校注、岩波思想大系26)では永禄元年の記事で、家康の大高城兵糧入れのことが記載されていますが、斉木氏の注意書きとして、「永禄元年戊午の年 戊午の2字は『丁巳』の上に貼紙で訂正されている。大高城の兵糧入れは永禄3年5月のことで、永禄元年元康17歳の年のこととしているのは誤。なお、下文の元康の初陣は永禄元年17歳の春で、それとの順序も誤っている。」としています。そして、「三河物語」本文で上記大高城兵糧入れの記事の後に家康の初陣について、岡崎城から、寺部の城、梅ガ坪の城、広瀬の城、衣の城などを攻撃したことが記載されています。つまり、家康が広瀬城を攻撃したのは、永禄元年のこととしているのです。

くわしくは、豊田市史などを調べてみないとわからないようです。
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東広瀬城、西広瀬城 豊田市

2015年04月26日 10時15分36秒 | 豊田市

西広瀬城全景

空は青空。気温は暑いくらい。ひさしぶりに史跡めぐりに行きました。豊田の西広瀬城址、東広瀬城址です。西と東に分かれているが、元は同じだったんではないかと、漠然と思っていました。学校としても東広瀬小学校と西広瀬小学校があるのですが、実は昨年東広瀬小学校に行く機会があり、そこで校長先生から、こんな話を聞いたのです。「東広瀬と西広瀬は、じつは歴史的に仲がよくないんですよ。西広瀬は昔、織田の領地で、東広瀬は松平の領地だったんです。だからお互いにいがみ合うところがあって、戦前は川をはさんで、子ども同士で石の投げ合いなんかもあったようですよ。」と教えていただきました。


豊田市東広瀬小学校(公式ホームページより)




両城は、矢作川をはさんで約500メートル、歩いても5分ぐらいの距離しか離れていません。それなのに、敵同士のようにいがみ合っていたのは、なんとも不幸なことだと思わずにはいられませんでした。


さて、はじめに西広瀬城址を見ました。

西広瀬城登城口


西広瀬城案内板


西広瀬城縄張り図(愛知の山城ベスト50より)

登城口から少し上ると、平坦なところに出ました。図のBの場所です。これは、図の左側の山から攻められたときの防御だそうです。しかし、私には曲輪に見えてしまいました。


堀り切り

図の右側から曲輪Ⅰ、曲輪Ⅱ、曲輪Ⅲなどがあるのですが、愛知の山城ベスト50で、ここから先は私有地とありましたので、遠慮しました。
コメント (2)
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二川(ふたがわ)宿 豊橋市

2015年04月07日 18時49分20秒 | 豊橋市

二川宿本陣資料館

4月4日は、せっかくの日曜日でしたが、雨模様でした。しかし最近史跡めぐりをあまりしていないので、雨でも訪れることができるところへ行きました。豊橋市の二川宿に行ってきました。東海道を歩いて踏破したという知人から「行って損はない」と言われたので、いつかは行ってみようと思っていました。

二川宿は東海道33番目の宿
東海道の宿場は、これまでに鳴海宿、池鯉鮒(知立)宿を見てきましたが、二川宿は初めてです。

二川宿の位置(知立市のパンフレットより)

二川宿は江戸から33番目の宿だそうです。ちょうど三河の玄関口に当たります。

高札場
二川宿本陣資料館というところが、本陣跡になります。資料館の脇に「高札場」の復元がありました。

高札場復元(ここに、宿場に入れない者や人足、馬などの使用料が書かれていたようです。

江戸時代の旅の服装
資料館に入ると、さっそく江戸時代の旅の人がいました。時代劇でなじみの格好です。


道が折れ曲がっている
二川宿の模型がありました。


右側の青い線は、川です。梅田川です。その左に奥のほうから真っ直ぐ伸びているのが、東海道です。二川宿は東海道に沿ってきれいに建物が並んでいます。また、昔の絵図ではっきりと分かるように宿の中で道が折れ曲がっています。これは、防衛のためだそうです。これは、同じ宿場町池鯉鮒でもありました。


「二川宿絵図」(パンフレット「豊橋市二川宿本陣資料館展示案内」より)


知立市を通る東海道の案内板

本陣、旅籠屋を復原
さて、この二川宿資料館のすごいところは、本陣や旅籠を復元していることです。下の写真は本陣の表門です。本陣復元屋敷の中に、この建物の復元について以下のような説明がありました。



二川宿本陣の改修復原工事は、昭和63年より3ヵ年をかけて行い、現存部分の解体・修復に続き、取り壊されていた書院棟の復原を行いました。
 工事は建物全体をおおうように屋根をかけ、その中で解体・調査を行い、腐朽の木材・瓦を取り換え、江戸時代末期の姿に復原しました。
 建物の解体にともない、棟札、墨書のある柱・壁・銘の入った瓦、古銭などが見つかり、建物の建築、再建、修復の年代を決定するのに役立ちました。


パンフレットに、その本陣、旅籠の間取り図がありました。

二川宿復元間取り図(図上部は旅籠屋「清明屋」下部は本陣、資料館パンフレットより)


本陣玄関

本陣経営も楽じゃない
さて、本陣は大名が宿泊する施設なので、幕府で造るのかと思っていましたが、その町の豪商を指定しているようです。今復元されているのは、馬場家のものだそうです。本陣の経営も楽なものではないようで、馬場家は三代目になるそうです。(1代目後藤家、2代目紅林家)馬場家は文化4年(1807年)から本陣の経営を始めたそうです。

旅籠「清明屋」
この本陣復原建物の隣は、旅籠屋の復原建物がありました。「清明屋」です。

清明屋の「ミセニワ」と呼ばれる間、玄関のようなところでしょうか。時代劇そのままで雰囲気が伝わります。

五芒星は安倍晴明の紋
この「清明屋」で、不思議な模様を見つけました。


この星印は、「五芒星」と言って、陰陽五行では魔よけとして使われていました。先日テレビで、志摩の海女たちがこのマークを手ぬぐい等に刺繍していたのを見ました。また。有名な安倍晴明は、これを自らの紋として使っていました。「清明」と「晴明」少し字は違っていますが、何か関係がありそうな気がしました。

入館料は400円でしたが、たいへん興味深い史料や復原家屋があり、とても有意義な見学でした。
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