愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(68) 松平記

2024年07月22日 06時53分22秒 | 松平記

松平記p68

翻刻
本多三弥、大久保七郎右衛門をねらふ。七郎右衛門ハ三弥
をねらひ、互に鉄砲にて、あいためにしけるが、七郎右衛門
はなしかちて三弥を打落す。然共うすてにて死なず。針崎
の敵共二手に成、一手ハ大久保衆をあひしらいてくひと
め、一手ハ妙国寺畷乗出る間を取切、大久保衆上和田へか
へすまじ。両方よりせりかけ、土居の方へ押懸、水田に押は
め、討べしと評定し、已に二手にわくる処に蜂屋半之亟ハ
大久保五郎右衛門が妹婿なりしかば、其由大久保衆にし
らせんと思ひ、只一騎馬を原へ乗あげければ、大久保衆見
て、あれハ半之亟也、いか様敵共和田妙国寺前を取切、味方 

現代語
本多三弥は大久保七郎右衛門をねらった。七郎右衛門は、本多三弥をねらい、互いに鉄砲で相打ちになったが、七郎右衛門が勝ち、本多三弥を打ち落とした。しかしながら、傷は浅く死ななかった。針崎に籠る敵は、二手に分かれ、一手は大久保衆に応対し、一手は(大久保衆が)妙国寺畷を出る間を取り、大久保衆が上和田に戻られないようにし、両方より攻め、土井に押し掛け、水田に追い落とし、討ってしまおうと作戦を立てて、既に二手に分けて攻めようとしている時、蜂屋半之亟は大久保五郎右衛門の妹婿だったので、針崎勢の作戦を知らせようと、ただ一騎原に乗り出した。大久保衆はそれを見て、「あれは半之亟だ。敵どもは和田妙国寺を取り切り、味方を返さないようにしている」と見た。
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松平記(67) 松平記

2024年07月18日 10時19分00秒 | 松平記

松平記p67

翻刻
に、味方より大勢つづきける間、渡辺槍をひゐてにげる。渡
辺半蔵真先にかかるを、阿部四郎兵衛討倒す。渡辺源三又
ねらひて安倍四郎兵衛を討倒す。蜂屋ものく。水野藤十郎、
追掛言葉をかくる。蜂屋返し、突てかかる間、藤十郎ひく。家
康乗出し追かけ給へハ、蜂屋ひゐてにげのびぬ。松平金助
追懸行、已に追詰られ、蜂屋申ハ、家康ハ故主に候へハ手を
置逃たり。其方にハ引まじ、と取て返し、金助とつき合、終に
ハ金助を蜂屋突伏候処に、家康御馬を乗出し追かけ給へ
ハ、鑓を引ぬき、早々にげのびける。金助ハ其まゝ死す。
一 大久保一類ハ針崎の寺内までをしこミ、合戦を始ける時

現代語
(渡辺源蔵が黒田半平を突く伏せたところへ)味方より大勢槍で突いたので、渡辺源蔵は槍を引いて逃げた。渡辺半蔵が真っ先に槍で突きかかると、阿部四郎兵衛が打ち倒した。それを渡辺源蔵がまたねらって阿部四郎兵衛を打ち倒した。蜂屋半之亟も引いた。そこへ水野藤十郎が追いかけてきた。蜂屋半之亟は翻って、水野藤十郎と付き合いになった。水野藤十郎は引いた。そこへ家康が馬に乗り、蜂屋半之亟を追いかけたので、蜂屋半之亟は逃げのびた。松平金助が追いかけて行き、蜂屋半之亟を追い詰めた。蜂屋半之亟が言うには、「家康は元の主であるので、合戦をせずに逃げてきた。その方は引く必要がない」と言って松平金助と突きあいをし、ついには松平金助を蜂屋半之亟が突き伏せてしまった。すると、そこへ家康が馬に乗って現れ、蜂屋半之亟を追いかけたので、蜂屋半之亟は槍を抜き、早々に逃げ延びた。松平金助は、そのまま死んでしまった。
一 大久保一類は、針崎の寺内まで押し込んだ。合戦を始めたとき、
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松平記(66) 松平記

2024年07月18日 09時48分34秒 | 松平記
松平記は、三河一向一揆の記述になっています。
この部分は、家康方と一揆方に誰が付いたかなど詳しく書かれています。
主な登場人物については、このブログですでに記載済みですので、以下、原文と翻刻文、現代語訳の3つを掲載し、コメントはなしとします。三河一向一揆の話が終了した段階で元に戻します。

松平記(66)

松平記p66

翻刻 
郎五、同弥七、杉山久内、同市助、市川理兵衛、田井善次郎、日々
のせり合也。土居に本多豊後守、竹の谷に松平玄蕃、かたの
原に松平紀伊守、矢はぎの西に藤井に松平善四郎、福釜に
松平右京、其外小栗助兵衛、同仁右衛門、同大六、是等ハ無双
の味方にて一揆共日々の合戦也。岡崎と土呂、針崎の間ハ、
わづかなれども間に上和田に大久保新八、屋敷を城にと
り合戦しける間、岡崎へハよせず。同十一月二十五日、上和田
へとりかかり、原木坂と云所にて合戦を初む。家康後詰有
敵の先手には、蜂屋半之亟、渡辺源蔵、味方にハ上村庄右衛
門、黒田半平、鑓を以つきあひけるに、渡辺、黒田を突伏る処

現代語
(杉浦八)郎五、杉浦弥七、杉山久内、杉山市助、市川理兵衛、田井善次郎が日々せり合いをしている。土居には本多豊後守、竹の谷には松平玄蕃、形原に松平紀伊守、矢作川の西に(の)藤井に松平善四郎、福釜に松平右京、其の外小栗助兵衛、小栗仁右衛門、小栗大六、これらは無双の味方にて一揆共と日々の合戦をしている。岡崎と土呂、針崎の間はわずかであるが、間に上和田に(の)大久保新八、屋敷を城に構えて合戦しているので、岡崎へは攻めることができなかった。永禄5年11月25日、一揆勢は上和田を攻めるため、原木坂という所で合戦を始めた。家康の後詰があった。敵の先手は蜂屋半之亟、渡辺源蔵であった。味方は上村庄右衛門、黒田半平であった。槍を突き合っていたが、渡辺源蔵が黒田半平を突き伏せた。
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松平記(65) 松平記

2024年06月01日 13時50分51秒 | 松平記

松平記p65

翻刻
(家康の味方の侍は、‥‥青)山善四郎、久米新四郎、八国孫九郎、酒井下総守、大竹源太郎、
小栗助兵衛、同弥右衛門、安藤九助、池波之助、同水之助、吉原
助兵衛、遠山平大夫、鳥居鶴助、同才市、筒井與右衛門、筧図書
同牛之助、土屋勘助、土屋甚七、林藤五郎、内藤甚五右衛門、同
四郎左衛門、松平山城守、杉浦藤次郎、山田彦八、是皆岡崎に
馳あつまる。
一 御手先にハ大久保一党上和田の大久保五郎右衛門、屋敷
を城にかまへ、針崎の敵に取向、大久保五郎右衛門、同甚四
郎、同新八郎、同弥三郎、同新七郎、同弥八、同甚右衛門、同三助
同喜六、同与一、同新蔵、同与次郎、同九八郎、筒井甚六、杉浦八(郎五)

現代語
家康の味方の侍は、‥‥青山善四郎、久米新四郎、八国孫九郎、酒井下総守、大竹源太郎、小栗助兵衛、同弥右衛門、安藤九助、池波之助、同水之助、吉原助兵衛、遠山平大夫、鳥居鶴助、同才市、筒井與右衛門、筧図書同牛之助、土屋勘助、土屋甚七、林藤五郎、内藤甚五右衛門、同四郎左衛門、松平山城守、杉浦藤次郎、山田彦八、これらは皆、岡崎に駆け付けた。
さらに、家康の手先として大久保一党が屋敷を城に変えて、上和田に構えていた。そして、針崎の敵に向かっていた。武将は、大久保五郎右衛門、同甚四郎、同新八郎、同弥三郎、同新七郎、同弥八、同甚右衛門、同三助同喜六、同与一、同新蔵、同与次郎、同九八郎、筒井甚六、杉浦八(郎五)

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家康の味方の武将の名が続きます。さらに家康の手先として上和田に大久保一党がいる事が記されています。
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松平記(64) 松平記

2024年05月28日 09時56分12秒 | 松平記

松平記p64

翻刻
八、同豊後、植村出羽、同庄右衛門、同十内、鵜殿十郎三郎、松平
弥右衛門、同孫九郎、同次郎右衛門、松平金助、鳥居又五郎、同
伊賀、加藤九郎次郎、加藤源四郎、米津藤三、同小大夫、小栗又
六、同仁右衛門、上野三郎四郎、安主長蔵、押雲 此間紙切不見 中根喜
蔵同九蔵、同源六、成瀬藤蔵、榊原摂津守、同隼之助、同小兵衛、
山口清大夫、伊奈市右衛門、松井左近、香村半七、中根源太、同
甚七、同新右衛門、同弥次郎、同喜三郎、天野三郎左衛門、同三
郎兵衛、同甚四郎、同助兵衛、同清兵衛、同伝右衛門、同又次郎、
山田平十、栄田七九郎、渥美太郎兵衛、加藤播磨守、平岩七之
助、青山喜大夫、氷見新右衛門、青山牛之助、近藤馬左衛門、青

現代語
(家康の味方の侍は、‥‥本多肥後守、同平)八、同豊後、植村出羽、同庄右衛門、同十内、鵜殿十郎三郎、松平弥右衛門、同孫九郎、同次郎右衛門、松平金助、鳥居又五郎、同伊賀、加藤九郎次郎、加藤源四郎、米津藤三、同小大夫、小栗又六、同仁右衛門、上野三郎四郎、安主長蔵、押雲 此間紙切不見 中根喜蔵同九蔵、同源六、成瀬藤蔵、榊原摂津守、同隼之助、同小兵衛、山口清大夫、伊奈市右衛門、松井左近、香村半七、中根源太、同甚七、同新右衛門、同弥次郎、同喜三郎、天野三郎左衛門、同三郎兵衛、同甚四郎、同助兵衛、同清兵衛、同伝右衛門、同又次郎、山田平十、栄田七九郎、渥美太郎兵衛、加藤播磨守、平岩七之助、青山喜大夫、氷見新右衛門、青山牛之助、近藤馬左衛門、青(山善四郎‥‥)

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誰が家康の味方をしたか、誰が裏切ったかの記録は、後の世にまで伝えられるので、しっかり名前が残してあるようです。
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