愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

孤愁の岸 愛西市

2014年08月31日 13時34分48秒 | 愛西市
宝暦治水をとりあげた歴史小説「孤愁の岸」を読みました。


薩摩藩がこの治水工事を請け負ったいきさつ、幕府の狙い、商人の考えや当地の代官、百姓たちの考え等が赤裸々に描かれていて、とてもおもしろかったです。

作者の杉本苑子さんは、この作品で1962年(昭和37年)第48回直木賞を受賞しています。
また、劇で森繁久弥が「伊集院十蔵」(二人いた治水総奉行の一人、もう一人は平田ゆきえです)の役を演じて話題になったようです。

杉本さんは、どこから史料を得たのかを是非知りたいと思いました。
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高松城 香川県高松市

2014年08月31日 12時40分48秒 | 香川県
宇高連絡船からマリンライナーへ
 8月15日、所用があり香川県高松市を訪れました。ずっと昔にも香川に来たことがありましたが、そのときは「宇高連絡船」を利用しました。しかし現在は鉄道で来ることができました。岡山から高松まで「快速マリンライナー」というJRの電車が走っています。時間にして約1時間、料金は1500円ほどです。便利になりました。マリンライナーからは瀬戸内海の景色が少し見えました。

快速マリンライナー、画像はウィキペディアです。

マリンライナーからの眺め

高松城へ

 城に入ってすぐ振り向いて1枚撮りました。左の方に暖簾みたいなのがありますが、夕涼み開放ということで、夜は無料では入れるようでした。ちなみに入城料は200円取られました。右側に小さな看板があり、「簾櫓跡」と書いてありました。「すだれやぐら」と読むのでしょうか。昔そういう名前の櫓があったようです。

城のお堀に鯛が
 門から中へ真っ直ぐ入っていくと水門がありました。外海と城の堀とを仕切っている門です。その水門で、のぼりを立てて、何か作業をしている方たちがいました。

のぼりは、「たいがんじょうじゅ」と読むのでしょうか。写真の左側は堀で、右側は瀬戸内海です。

 左側の堀をそっとのぞいて見ました。すると、魚がいました。一瞬鯉か、と思いましたが、よく見るとそれは、鯛でした。おじさんたちは、その鯛のエサを売っていたのです。

写真の中央付近に黒い魚影が見えます。それが鯛です。

月見櫓から披雲閣へ
 更に真っ直ぐ進むと、外からもよく見える「月見櫓」が見えました。


 月見櫓を右に曲がると、庭園や屋敷がありました。
屋敷は「披雲閣」で、庭園は「披雲閣庭園」といいます。


蘇鉄の間
 ここを過ぎて、更に奥へ進みますと資料館がありました。
「蘇鉄の間無料開放」の看板に魅かれ、中に入ってみますと、たしかに「蘇鉄」がありました。

これは「蘇鉄の間」。この右側に庭があり、蘇鉄が芸術的に植えられていました。

蘇鉄の庭です。「ああ四国は南国だなあ」と感じました。

天守閣跡へ
 元の門の方に歩き始めました。最初の鯛のエサの所を左に曲がると天守閣跡にいけました。天守閣には、「鞘橋」という橋を渡っていきます。この橋は敵が攻めてきたときに、すぐに落とせるようになっているそうです。お城はいつも「戦い」と背中合わせで作られていることがわかります。

「鞘橋」ただし、天守閣跡から撮ったものです。


天守閣跡。右のほうのみどりの屋根が見える橋が鞘橋です。この石垣の頂上に登ることができます。石垣の頂上には上に建てられていた天守閣の台座(石)、木の杭(柱)などの跡がありました。


写真がぼやけていて、申し訳ありません。天守閣跡にあった看板からのものです。
これは、天守閣の石垣を上から撮った写真です。まわりが石垣で、中央に「田の字」に線が引いてありますが、この線に沿って台座があったそうです。(今も残してあります)間には杭があります。

この写真も上記看板からのもので、石垣の上にお寺みたいなものが明治時代からあったそうです。これが「玉藻廟」といって、松平家初代藩主松平頼重を祀るものだったようです。しかし、石垣修理工事に伴い平成18年(2006)9月から11月にかけて記録保存を行い解体されたようです。今はありません。

城にもいろいろある
香川県高松城は、なんと言っても堀に鯉ではなく鯛がいたこと、天守閣に昔お社があったことなど、なかなかおもしろいお城でした。
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広島城 広島県広島市

2014年08月27日 15時18分57秒 | 広島県
広島はお好み焼き
 8月11日、広島市に行きました。家族が広島のお好み焼きを食べたいというので、親戚に教えていただき「お好み村」に行ってみました。

「お好み村」画像はウィキペデイアです。

 広島のお好み焼きは、小麦粉が少なくて野菜、お肉、卵などの具が直に焼かれている感じでとてもおいしかったです。

次の日に広島城へ
 次の日、再び広島市を訪れました。今回は、広島城見学のためです。単独の訪問です。

広島城 手前の礎石は天守閣の礎石です。昭和33年天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘りおこして原型のまま移したものだそうです。

築城は毛利輝元
 広島城は天正18年(1589年)末に、毛利輝元によって築かれた平城です。毛利輝元は、中国地方の戦国大名毛利元就の孫です。(元就-隆元-輝元)輝元の時代には、元就の子ども小早川隆景、吉川元春の毛利両川体制で、毛利氏は支えられていました。その後有名な備中高松城の戦いなど織田信長(秀吉)と戦い、やがて秀吉に与するようになりました。

 はじめ備中郡山城に拠点を置いていた毛利氏も、秀吉の聚楽第・大坂城などをみて城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感したそうです。(広島城のパンフレット)その後、福島正則、浅野氏(12代)と城主はかわっていきました。

いきなり池田隼人
 ところが、広島城に西のほうから入ったのですが、いきなり池田隼人の像が出てきました。

 池田隼人といえば、所得倍増計画、「貧乏人は麦を食え」などで有名な総理大臣です。広島城とどんな関係があるのだろうと思いましたが、池田隼人が広島県出身だったということのようです。

裏御門

 東のほうは裏手のようです。この門は「裏御門」とありました。方角では、東は裏なのでしょうか。

天守閣を南東から

天守閣を南東の方角から写す。右側に「広島大本営跡」、その奥に「天守閣礎石」がありました。
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船頭平閘門(せんどうひらこうもん) 愛西市

2014年08月24日 13時27分34秒 | 愛西市
ミニ運河 船頭平閘門
 治水神社から少しばかり南の方にいきますと、船頭平閘門という史跡があります。


 船頭平閘門とは長良川と木曽川を往来できるように開いた運河のようなものです。

写真の中央のプールのようなところが船の待機する場所です。奥のほうは木曽川で、手前の白い仕切りが閘門と呼ばれる門です。木曽川から長良川に船が通る場合、
①一旦奥の門の外で待機します。その間に木曽川と閘門の水位を同じにします。
②同じになったところで、奥の門を開け、船を中に入れます。
③今度は、門の中で、長良川と門の中の水位を同じにします。
④最後は、長良川側の門を開いて、船が通れるというわけです。


 この閘門は、木曽三川の分流工事がオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケによって完成した後に、木曽川と長良川とを結ぶものとして、明治35年にできました。当時は、商船や漁船などが多く往来したそうです。現在は、レジャー目的の船が通っているそうです。

船頭平閘門のある公園にあったデ・レーケの象。

明治35年に完成した閘門は、平成6年老朽化のために現在の門に変えられました。

昔の門が記念に残してありました。
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治水神社 岐阜県海津市

2014年08月22日 08時12分39秒 | 岐阜県
 8月7日、木曽三川公園に行きました。今回は、公園の近くにある治水神社を訪れるのが主な目的です。

平田靱負を祭る治水神社

  治水神社は、江戸時代に木曽三川の工事をした薩摩義士、特に平田靱負(ひらたゆきえ)を祭ってある神社です。

治水神社本殿

宝暦治水の歴史
 今では木曽三川地域は洪水の害もすくなっていますが、昔は小さな河が何本もはりめぐらされ、すぐに洪水が出る状況が長く続いていたそうです。人々は、居住する島の周りに堤防を廻らし「輪中」を作り洪水に備えました。


工事の犠牲者80余名
 宝暦3年(1753年)、幕府から薩摩藩に対して治水工事の命令が出ました。これは地元住民から工事の願いが出ていたこともありますが、幕府が薩摩藩の力をそぐために命令したものといわれています。
 宝暦4年(1754年)、薩摩藩平田靱負はじめ947名の武士たちが当地にやってきました。
 しかし、幕府側の嫌がらせや疫病の流行等で、自殺者52名、病死者33名という犠牲者を出してしまいました。平田靱負自身も宝暦5年(1755年)に自殺しています。

治水神社の中にある「薩摩義士の像」

千本松原
 この宝暦治水によって木曽川と長良川の間に堤が造られ、現在「千本松原」として残っています。




ままず定食
 おまけです。
 木曽三川公園に行ったら是非食べていただきたいのは「あんかけままず定食」です。「ままず」とは鯰のことです。こちらの方言だそうです。なまずという言葉だけで敬遠されるかもしれませんが、味は超さっぱりしていて、極上の白身魚です。
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