愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

江戸城 東京都(2)

2015年03月29日 10時48分05秒 | 東京都
見学コース


千鳥が淵公園を進んでいくと、やがて千鳥が淵の交差点に行き当たりました。そこから右に折れると代官町通りです。信号を渡って北側の道を行きました。北側の道は「北の丸公園」ということになっていました。

乾門
しばらくいくと、また門が見えました。乾門です。名前の元は、おそらく「戌亥」から来たものと思われます。

乾門

このあと、いくつかの門がありました。

北詰橋門

北詰橋門

竹橋門

竹橋門
竹橋とは、案内によれば天正18年徳川家康が江戸城に入城した際、竹で編んだ橋をかけたところから竹橋といわれているとのことです。ただし、諸説あって定かではないとのことです。ちなみに現在の竹橋は

竹橋

平川門

平川門、ただし中にあった石碑には「平川高麗門」とありました。


大手門

大手門、ただし中は工事中でした。

巽隅櫓

最後は巽隅櫓です。元は、辰巳だと思われます。

結局ぐるっと外側を一周しただけですが、ジョギングをしている方が多数見えて、走る方向も「反時計回り」と決められていました。お昼休みの間に着替えてランニングをして、又会社に戻るという方もいるということをテレビで見たことがありましたが、まさにそんな感じでした。

今度来るときは中に入ってみたいと思います。(江戸城終わり)

江戸城 東京都(1)

2015年03月27日 09時14分13秒 | 東京都
東京だよ おっかさん
東京に用事がありましたので、ついでに江戸城を見学しました。
江戸城は、東京駅から西の方にしばらく歩いていくと見えました。
はじめは、有名なめがね橋です。めがね橋といえば、私は島倉千代子の「東京だよ、おっかさん」の歌を思い出してしまいます。歳がわかってしまいますね。

めがね橋

井伊直弼は鉄砲で殺された
平日ではありましたが、観光客がたくさんいました。特に中国人と思われる方が団体で観光していました。
めがね橋を左の方に折れると、桜田門が見えました。

先日、NHKで桜田門外の変について真相を探るという番組がありました。放送では井伊直弼は鉄砲で撃たれて身動きが取れなくなり、暗殺されたということでした。鉄砲を打ったのは、森五六郎という武士で、水戸藩の下級武士だそうです。暗殺団は十数名で、かなり周到に準備をしたそうです。そして鉄砲は水戸の藩主徳川斉昭から渡ったのではないかとしていました。この鉄砲による狙撃で暗殺事件のおおかたは決着がついたといっていました。また、この暗殺事件の黒幕は尊皇攘夷を唱え、鉄砲を提供した徳川斉昭ではないかと言っていました。

樺美智子が亡くなった国会議事堂
この放送の冒頭で桜田門から国会議事堂が見えるというので、見渡しましたらすぐに見えました。
国会議事堂といえば、毎週金曜日に反原発のデモが続いているということですが、私には六十年安保のときに国会へのデモがあり、学生の樺美智子さんが亡くなられたということのほうが印象的です。


半蔵門
桜田門から皿にぐるっと右回りで回っていくと、江戸城の石碑がありました。さらにその先に半蔵門という門がありました。



半蔵門は柵があり、一般の者は中に入れないようです。この奥に皇室の人たちがいるのかと想像しました。それにしても大きな家だと感慨しきりでした。

半蔵門からは「千鳥が淵公園」があり、たくさんの人が来ていました。お昼頃だったので休憩で弁当を食べたり、タバコを吸っている方が見えました。桜はまだでしたが、咲く直前の蕾を熱心にスマホで撮っている方も見えました。

祐福寺一里塚 東郷町

2015年03月16日 12時27分19秒 | 東郷町
パンフレット「あいちの史跡」
どこの博物館だったか忘れてしまいましたが、博物館のパンフレットコーナーに「あいちの史跡」というものがありました。発行が「愛知県史跡整備市町村協議会」というところです。パンフレットの裏表紙に簡単な説明がありました。

愛知県史跡整備市町村協議会は、史跡・名勝・天然記念物等の文化財の保護・保存及び活用を目的として平成3年に発足し、現在は県内36市町村にて構成しています。

パンフレット(22ページで、62の史跡が紹介されています)

灯台下暗し
そのなかに「祐福寺一里塚」が記載されていました。場所は私が職場と自宅を何回となく往復した道の脇でした。以前名古屋市八事の興正寺の五重塔を見落としていたことを書きましたが、今回も同じ思いです。

だいたい一里塚は主要街道にあるもので、愛知県ならば、東海道や中仙道などに限られていると勝手に決め込んでいたことも手伝っています。この祐福寺一里塚は、平針街道(姫街道)沿いにあります。平針街道とは、岡崎から名古屋に行くときの裏街道だったのです。現在の県道56号線です。


南北両方残っている一里塚
この一里塚は、北と南の両方ありました。東海道のほうは両方残っている一里塚はめずらしいので、こんな近くに両方残っている一里塚があるとは驚きでした。

北側の一里塚にあった石碑

北側の一里塚の全景

「余の木」が「榎」に
石碑の後には木が一本ありました。説明板によれば「榎」だそうです。説明板に「榎」についておもしろい話しが紹介されていました。

江戸時代に一里塚の木をどんな木にするか議論をしたそうですが、なかなか決まらず、将軍に決めてもらおうと相談を持ちかけたところ、「余の木(よのき)がいい」といったそうです。それを家臣たちが聞き間違えて、榎(えのき)になったそうです。おもしろいですね。

南側の一里塚

近くに東郷町のバス「じゅんかい君」のバス停がありましたが、ズバリ「一里塚」という名のバス停でした。

平針は宿場町だった
この祐福寺一里塚は、平針から4.9キロメートルです。(飯田街道との交差点から、一里塚まで)つまり、平針を起点として一里と考えることができます。平針は、むかしは平針宿という宿場町だったらしいです。一応それらしきところを歩いてみましたが、宿の跡らしきものは分かりませんでした。しかし、ネットで、平針に宿を作るために「郷の島」に住んでいた百姓を移転させ、宿場町を作ったとありました。

山崎城址 安城市

2015年03月14日 19時09分01秒 | 安城市
今日は、本来は福井に行く予定でしたが、目的のお城の見学会が中止になったため、愛知県内のお城を見ることにしました。
今回は、「諸国古城之図」から山崎城を見学することにしました。

山崎城とは
案内板によれば

この城は、三ツ木城の松平信孝が、岡崎城の松平広忠に敵対して織田方に通じたとき、岡崎城にそなえて1543年(天文12年)に築いたものです。しかし、1549年(天文18年)小牧長久手の戦い後の緊張状態の中で、徳川勢により改修工事を受けたとする説が有力です。

松平信孝は、「守山崩れ」でなくなった松平清康の弟です。「守山崩れ」の後、信孝は宗家松平広忠を支援していましたが、広忠の家臣や広忠の後ろ盾であった今川義元に嫌われて、広忠と敵対するようになったようです。
山崎城は安祥城の出城として、岡崎ににらみをきかす位置にあります。


山崎神明社
現在の山崎城は山崎神明社になっていました。

神明社正面

諸国古城之図より
「諸国古城之図」によれば、堀や土塁、馬出しなどがあったことが分かります。

西側は駐車場になっていて、そこに車をとめることができました。

堀跡
すぐ近くに案内板があり、その奥は北側の堀跡になっていました。堀の大きさは、案内板によれば幅13メートル、深さ2メートルでのこっている長さが50メートルだそうです。なかなか立派な堀でした。今は空掘りですが、「諸国古城之図」では水掘のようです。城の周りをぐるっと堀がめぐらされていたはずですが、今は道路などになっているようです。

北側の堀を東側から見た画像

土塁の上の本殿
神社の北側は土塁になっており、本殿は土塁の上に建てられていました。

山崎神明社本殿

櫓跡か
さらに、東の方にいくと土塁らしきものがありました。おそらくこれが北東の隅櫓の跡ではないでしょうか。

北東の土塁跡

土橋の跡か
ぐるっと回って、西の方にいくと昔の土橋のような雰囲気の坂がありました。

土橋の跡らしき坂

馬出しの遺構なし
この坂の手前は住宅があり、昔の馬出しがあった場所ですが、遺構は全くありませんでした。

日長神社
余談ですが、この神社のすぐ近くに「日長神社」というのがあり、はじめ神明社と間違えてしまいました、「諸国古城之図」には記載されていないので、いつごろからあるのか調べてみたところ、「明治3年・・・高木村」という日付の入った石柱がありました。おそらく神社そのものは古いのでしょうが、この地に建てられたのは明治3年以降ではないかと思いました。

河和城址 美浜町(3)

2015年03月09日 07時04分15秒 | 美浜町
さて、こんなものかと東側の道の方に降りて、ぐるっと左回りに史跡を回ってみると、北のほうが紫陽花園になっていました。当然柵がめぐらされていたのですが、途中入ってくださいといわんばかりに柵が切れているところがありました。なぜ柵が切れているのかと中に入ってみると、曲輪Ⅰの西側の横掘りには入れる入り口があるのを偶然見つけてしまいました。
急な登り坂になっていて、横に手で掴んで登る為のロープもありましたので、間違いなく城に入るために作られた入り口だと思います。

横掘

写真は、曲輪Ⅰの西の横掘りを北から見たものです。大変立派な横堀でした。末森城でも堀の中に入って見学したのを思い出しましたが、堀の規模としては似たような感じでした。

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱをまじかに見ることができました。

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲは竹林になっていましたが、けっこう広くて、ここから城に侵入してきた敵を攻撃するために設けられたことが分かりました。

河和城は、規模としては大きな城でした。曲輪Ⅰと西側の横堀、帯曲輪は素晴らしかったですが、曲輪Ⅳ、曲輪Ⅴは果樹園となっていました。また、竹やぶに覆われていて、土塁や櫓跡、虎口跡などがよく分かりませんでした。
(河和城址 おしまい)