愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

桶狭間の戦い(2) 名古屋市緑区

2013年05月28日 21時09分08秒 | 名古屋市緑区
丸根砦、鷲津砦
以前に出かけたことがあった丸根砦、鷲津砦を紹介します。

丸根砦跡
丸根砦は本当に丸い茶碗を反対にしたような小さな山で頂には写真のような石碑が建てられていました。名古屋市教育委員会の説明版もあわせて紹介します。




鷲津城
ここは、けっこう広い山でした。その山の一角に石碑が建てられていました。





桶狭間の戦い 名古屋市緑区

2013年05月26日 19時40分55秒 | 名古屋市緑区
中島砦とは
ところで、中島砦は桶狭間の戦いに関係のある砦です。

桶狭間の戦いが始まる前の緑区のあたりは、今川氏の勢力と織田氏の勢力が錯綜していたようです。東のほうから迫っていた今川氏は、大高城、鳴海城を支配下にしていました。それに対して、織田氏は鳴海城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦を作りました。また、今川氏の大高城と鳴海城の連絡を絶つために鷲津砦、丸根砦を築きました。

赤いマークは信長の築いた砦です。青いマークは、今川義元支配化のお城です。

さて、信長が義元に勝った世紀の戦い、桶狭間の戦いについて、「信長公記 巻主 今川義元討死の事」には、以下のように書かれています。以下私なりの口語訳です。

天文21年(1552年)5月17日
今川義元が沓掛城に兵を動かした。5月18日夜になり、義元は大高城に兵糧を送った。このことから、5月19日の朝には潮の干満を考え、鷲津砦、丸根砦を攻めてくることは間違いないだろうという情報が信長の下に入ってきた。
5月18日夕方に、佐久間大学、織田玄蕃のほうより、信長に注進がなされた。しかし、その夜の話は戦の話ではなく、世間話ばかりであった。そして、長くなったから帰ってよいとの事だった。家老たちは、「運がないときは、知恵も浮かばない。」と、皆嘲笑して帰っていった。


この文面から大きな疑問が生じました。一つ、今川義元が沓掛城に兵を動かしたのは、上記「信長公記」では天文21年(1552年)としていますが、一般的には永禄3年(1560年)となっています。これはいったいどういうことか、不思議です。
さらに二つ目、潮の干満を考慮していることです。つまり海岸線が今よりもかなり内陸にあったことがうかがわれます。他の人の桶狭間の戦いについてのHPを見ると、海岸線が鳴海城近くまできている図を載せているのもあります。いったいどんなふうだったのか?

鳴海宿(1) 名古屋市緑区

2013年05月23日 19時41分51秒 | 名古屋市緑区
5月20日(日)、仕事の関係で休みになったので、鳴海宿を訪ねることにしました。
鳴海宿は、緑区が「史跡めぐりコース」を紹介しているので、それに従がって回ってみることにしました。

浅間社は、一の鳥居が横向き?
はじめに訪れたのは浅間社。この神社は一の鳥居と二の鳥居が90度に折れ曲がっていました。一の鳥居からは二の鳥居に行くことができません。不思議でした。

火に関係する神の集まり
「秋葉神社」「浅間神社」と柱に書いてありました。

「秋葉神社」は、火伏せの神だそうです。また、「浅間神社」とは富士山信仰の神社だそうです。祭神は木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)だそうです。富士山と木花咲耶姫命がなぜ結びつくかといえば、木花咲耶姫命は、ニニギノ命の妻で出産するときに館に火をつけて出産したという話が古事記にあります。富士山は昔から活火山で知られています。両方とも「火」に関係が深いのです。「秋葉神社」も火の神様なので、「秋葉」「富士山」「木花咲耶姫命」の3つがうまく結びつきました。
扇川と手越川に囲まれた中島砦
不思議な浅間神社を後にして、扇川を南東に登っていきました。扇川と手越川が合流する地点付近に「中島砦跡」がありました。



とても小さなところで、中に石碑が一つ建てられていました。木の陰でよく分からなかったです。私有地のようで、「所有者のご好意で自由に見学ができます。」とのことでしたが、鍵がかけられていて、中に入ることはできませんでした。

しかし、地図で見ると扇川と手越川の合流点に位置しており、西側を川で守ることができるように考えられているなと思いました。

北野廃寺跡 岡崎市

2013年05月06日 21時15分45秒 | 岡崎市
5月6日(月)、岡崎に用事があったので、ついでに北野廃寺跡を訪ねました。


北野廃寺は、岡崎市の北、三菱自動車工場のすぐ東にあります。


伽藍配置が飛鳥・四天王寺と同じ

上の写真のように、南大門から僧坊まで一直線に並べる伽藍配置は、飛鳥・四天王寺と同じだそうです。このお寺は、白鳳時代(645年大化の改新から710年平城遷都までの時代)前期に立てられたものと考えられています。

南大門跡


塔跡

この塔は、後ろの金堂に比べ大きいそうです。これは「釈迦を供養する塔中心の初期仏教思想のあらわれであろうか。」と案内板は推測していました。


この塔の柱を支えていた心礎には、ある工夫がなされていました。それは排水溝です。びっくりしました。昔の建築物にこんな工夫があるとは知りませんでした。


講堂の柱が9×5?

不思議だったのは、講堂の柱の数です。東西に9本、南北に5本です。案内板には8間に4軒の建物とありました。写真を見ても分かるとおり、出入り口が中央ではなくやや東よりです。出入り口を中央にすると柱が邪魔になります。
どうして柱の数を偶数にして出入り口を中央にしていないのか、謎です。ふと梅原猛の「隠された十字架」の法隆寺中門のことを思い出しました。法隆寺中門も4間で真ん中に柱があります。これは、聖徳太子の霊を閉じ込めるためのものだということを梅原猛が指摘していましたが、この北野廃寺にも何かわけがあったのでしょうか。

鷲ヶ岳 福井県勝山市

2013年05月04日 16時46分04秒 | 福井県
5月3日、福井県の鷲ヶ岳に行きました。

畑ヶ塚

鷲ヶ岳のふもとに「畑ヶ塚」という記念碑がありました。これは南北朝時代のことです。畑六郎左衛門時能(はたろくろうざえもんときよし)という南朝側の武将がいて、北朝側の斯波高経に追われ、ここで戦ったという話です。斯波の軍勢3000騎に対して畑の軍勢わずか16騎だったそうです。畑時能は、大群相手に奮闘しましたが、肩に傷を負いここで死んだということです。昭和16年「畑時能奉賛会」という団体が畑氏を顕彰するためにここに碑を建てたようです。
建てた日が問題かなと思いました。昭和16年(1941年)です。戦争の真最中です。戦争遂行のために天皇への忠誠心を国民の間で高めておくことが必要だったことと関係している気がしました。なぜなら畑氏は南朝の武将だからです。


伊地知姓発祥の地

この畑氏の顕彰碑のすぐ横に「伊地知姓発祥の地」という碑がありました。
伊地知という姓は、鹿児島県に多いそうです。その伊地知という姓はもともとは、ここ「伊地知村」から出たそうです。

登山路

登山路は、始め急、中緩やか、終わり急という感じでした。途中の林道がとても歩きやすく緩やかだったからです。

馬の蹄跡・馬屋跡

馬の蹄跡と称する大きな岩がありました。表面に確かに凹みがあり、馬の蹄の跡と言っていえないことはなかったですが、かなり固い岩なので、馬が蹴って跡がつくのだろうかと少し疑問に思いました。また、馬屋跡という場所にも行きましたが、単に看板が立っていただけでした。

この巨石は?

林道を曲がったところに、少し平らなところがあり、その平らな場所の奥の方に巨石が聳え立っていました。先ほどの馬屋跡よりもこちらの方が見ごたえがありました。

登山路の花
登山路にはきれいな花がたくさん咲いていました。そのうちの二つを紹介します。

<カタクリの花です>

<シャガの花です。>

山頂に到着
?時間かけてやっと頂上に着きました。意外と狭かったです。頂上からの景色は、天気がよかったこともあり、絶景でした。

<山頂より福井平野を臨む>

<山頂より勝山市を臨む>

古戦場跡?

頂上に「鷲ヶ岳古戦場」というタイトルの看板がありました。ふもとの村にあった「畑ヶ塚」とよく似た文面ですが、こちらの方が戦闘の様子を詳しく描いていました。
また、石碑も建てられていました。

<石碑「畑将軍戦死の地」>
こうやって石碑が建てられていると、畑六郎左衛門は鷲ヶ岳の頂上で死んだのかと間違えてしまいそうです。(看板にふもとで死んだと書いてありますが)

ここに砦?
さて今回は山城に詳しい方と一緒です。(というより、その方に誘われたのです)今回の登山の大きな目的は、鷲ヶ岳に山城が存在しているかどうかの調査でした。「ここには、砦か、見晴台みたいなものがあったのかもしれない。山城はないだろう。」とおっしゃっていました。
ただ、「こぐち」と呼ばれる入り口跡らしきものや「縦の堀切らしきもの」が見受けられました。

<こぐちらしきもの>

<ほりきりらしきもの