愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

仙台城(2) 宮城県仙台市

2015年08月26日 05時49分21秒 | 宮城県
帰りは、歩いて仙台市内に帰りました。
本丸詰門から大手門までは坂になっていました。

詰門(つめもん)
まずは、詰門跡です。これも立派な石垣でした。

詰門跡

中門
しばらく下ると、沢門跡、中門跡がありました。沢門跡は、どこだか分かりませんでしたが、中門跡は、道がかぎ状になっていました。

道が曲がりくねっている中門跡

大手門櫓
さらに下っていくと、大手門の櫓が見えました。これはコンクリート製です。


堀・子門(ねのもん)
大手門を右に曲がると、池がありました。堀の跡です。


この堀沿いに進んでいくと、博物館がありました。博物館の入り口は石垣があり、どうも遺構っぽいので、辺りを見回しますと、看板がありました。やはり門の跡でした。「子門」です。

子門跡

博物館に土塁?
子門を入ると博物館になりますが、博物館の向かいは土塁になっていました。きれいに盛ってあるので、博物館の工事のときにわざと造ったのかもしれません。

博物館向かいの土塁(?)

仙台に愛知の焼き物が
博物館は、仙台市博物館です。ちょうど浮世絵展をやっていましたが、またの機会に浮世絵は見れると思い、常設展のみの見学としました。(見学料400円)展示は、どこの博物館でもあるように、古代から近代までの仙台の歴史を展示してありました。焼き物の展示で、愛知県の常滑焼や瀬戸焼が仙台に来ていることが分かり、驚きました。

仙台市博物館

両目政宗像の話
伊達政宗で、ひとつ逸話があるを知りました。というのは、政宗の死後に作られた肖像画や像は両目を開けているものがあるそうです。それはどうしてかというと、政宗が言い残したことに、「自分の木像作るときは、片目ではなく、両目にしてほしい、生まれたときは両目を親からもらっているのだから、片目にするのは親不孝である」ということで、両目の政宗が描かれたということです。なかなかいい話でした。

仙台は自分の中のイメージとしてなんとなく金沢のような感じがしました。大きな外様大名として江戸時代を生き抜いてきたからでしょうか。いい街でした。

仙台城(1) 宮城県仙台市

2015年08月25日 09時04分08秒 | 宮城県

伊達政宗像

るーぶるバス
仙台に用事がありましたので、仙台城を見学しました。
仙台市は、観光に力を入れているようで、専用のバスがありました。「るーぷる仙台」というバスです。1日乗車券が620円と割安です。

仙台城に登る「るーぷる仙台バス」
8月15日は仙台城への入り口は大変混雑しました。画像のように渋滞でした。

本丸北壁石垣
城に着くとまず出迎えてくれるのは、本丸北壁の石垣です。

すごく立派な石垣でした。最も高いところで17mもあるそうです。また、この石垣の修復が平成9年から16年にかけて行われましたが、その時にこの石垣が3期に分かれて作り変えられていたことが分かったそうです。

石垣の修復・発掘について書かれた掲示

1期は慶長6年(1601年)伊達政宗の時期につくられた野面積みの石垣
2期は元和2年(1616年)の地震で壊れたときにつくられました。
3期は正保3年(1646年)と寛文8年(1668年)の地震の後に作り直されました。このときの製法は、切石積みの石垣です。

石垣の展示
中に入ったら、その石垣が展示してありました。


切石整層積み、石をきれいに切って積んだ石垣です。(上記3期に当たります)


野面積み、自然の石の形のまま積んだ石垣です。(上記1期に当たります)


仙台城鳥瞰図(現地案内板)

本丸広場
本丸に入ると、仙台市を一望できる広場がありました。大変眺めがよかったです。

そして、仙台市、仙台城のシンボルになっている伊達政宗の像がありました。

大広間は礎石が残っていました。


青葉城資料展示館
城内の青葉城資料展示館の前に矢穴の分かりやすい展示がありました。

矢穴

青葉城資料展示館では、CGで再現した仙台城を大画面で見ることができました。

松江城(3) 島根県松江市

2015年08月21日 09時21分05秒 | 島根県
天守閣の中
さっそく天守閣の中に入りました。太い柱がたくさん立っていました。よく見ると、補修した跡がありました。


天守閣最上階
天守閣の最上階に登ると、宍道湖が見えました。


敷居に溝がない
最上階で一つくだらないことを見つけました。

上記の画像は最上階の床の一部です。左側は部屋の床です。右側は廊下です。右側の廊下はぐるっと最上階の縁を一周しています。この廊下と内側の部屋を区切っているのが画像中央の敷居です。しかし、この敷居には、溝がありません。廊下と部屋を区切っているのであれば、間に襖や戸があったと思われますが、その仕切りを作動するための溝がないのです。大変不思議でした。もともと溝がないのか、それとも年月の経過で磨り減ってしまったのか分かりません。(見たところでは、もともと溝はなかったように思われました)

本丸
天守閣を降りてあたりを散策しました。

鉄砲櫓跡

天守閣の南西に鉄砲櫓跡がありました。場所としては一ノ門のすぐ近くにあるので、ここから敵を鉄砲で撃つためにつくられたものと思われます。

さらに天守閣の北西には乾櫓跡がありました。こちらは北門の警護のためと思われます。

乾櫓跡

北門付近
この乾櫓跡を抜けますと、北門へと出ます。北門付近は牢固な石垣が巡らされていました。こちらは、裏門にあたると思われますが、いざというときのために守りも固いものになっていました。

北門付近

近くには、馬洗い池、ギリギリ井戸跡などもありました。


馬洗い池

ギリギリ井戸跡

松江城は、立派な天守閣があり、見ごたえのあるお城でした。また、堀をめぐる遊覧船は船頭さんの語りが面白く、また乗ってみたいと思いました。

松江城(2) 島根県松江市

2015年08月20日 10時24分38秒 | 島根県
堀川めぐり遊覧船は、松江城の入り口でいったん降りました。出迎えてくれたのは、初代城主堀江吉晴でした。

堀江吉晴の像

堀尾吉晴とは
堀尾吉晴という武将は、愛知県(尾張)の出身です。天文13年(1544年)の生まれです。吉晴が生まれた当時は、尾張は北のほうを岩倉の織田氏、南のほうを清須の織田氏が治めていました。堀尾吉晴の父堀尾泰晴は、岩倉織田家に仕えていました。南の織田氏の中心は、弾正忠家、つまり織田信秀でした。織田信秀、信長によって岩倉織田氏はついに滅ぼされてしまいますが、その過程で堀尾氏は一時浪人の身となったようです。その後織田信長の勢力下に入り、豊臣秀吉の家臣となったようです。

豊臣秀吉が死去した後は、徳川家康に近づき、関が原の戦いでは東軍につきました。その後、この出雲の国の大名となりました。

松江城の歴代城主(現地パンフレットより)堀尾氏(吉晴、忠氏、忠晴)→京極氏(忠高)→松平氏(直政、綱隆、綱近、吉透(よしとう)、宣維(のぶずみ)、宗衍(むねのぶ)、治郷(はるさと)、斉恒(なりつね)、斉貴(なりたけ)、定安)と続きました。

マップ(現地パンフレットより)

馬溜
大手門を入ると、大きな広間がありました。馬溜と呼ばれるところです。昔の駐車場でしょうか。

馬溜跡 右が太鼓櫓、左が中櫓。石垣をよく見ると、中央から右と左で様子が違っています。右側が整然と積まれているので、後で積み直したのでしょうか。

太鼓櫓

松江城 国宝に
太鼓門横を登り、奥へ入っていくと一ノ門辺りに「国宝」の垂れ幕がありました。今年5月、国の文化審議会が松江城を国宝にと答申しました。そして7月8日国宝に指定されました。おかげで、地元ではおおにぎわい。観光客もかなり増えたそうです。

松江城は、現存する天守閣(弘前城、松本城、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城(岡山県)丸亀城、松山城(愛媛県)、高知城、宇和島城)12のうちの一つですが、このうち国宝となっているのは、松本城、犬山城、彦根城、姫路城そして松江城です。
どうして他の城が国宝でないのか、理由は分かりませんが、国宝に指定されると、現地は、にぎわうというは確かなようです。

さて、一ノ門をくぐると天守閣が見えました。



松江城(1) 島根県松江市

2015年08月14日 17時35分32秒 | 島根県

松江城天守閣

お盆の帰省ついでに松江城に行きました。
本丸近くの駐車場がいっぱいでしたので、遠くの駐車場に止まりました。偶然そこから堀川めぐりの船が出ていました。

堀川めぐり

堀川めぐり遊覧船乗り場

遊覧船は松江城の内堀を約50分かけてめぐります。料金は1230円でした。一日券で何回でも乗り降りができるそうです。遊覧船からは、松江城の石垣をまじかに見ることができました。また、船には日よけの屋根がついていましたが、堀にかけてある橋をくぐる時に低くなるので、乗客は中央に向かって全員が腰を曲げてお辞儀をしました。

船内の様子

船から見えた石垣。野面積みだそうです。