学習会テーマは、長宗我部元親
若越城の会の学習会は、8月23日(日)午後1時30分からでした。今回のテーマは、四国の戦国武将長宗我部元親です。彼がどのようにして四国を征服していったかという話です。
講師は、野本亮さんという方でした。(高知県立歴史民俗資料館学芸課長)
信長と長宗我部元親
お話で面白かったのは、長宗我部元親の息子信親の信という字を信長からもらい、信長のお墨付きの下四国征服を進めていったと言う話です。
これまでの研究では、信の字をもらったのが天正3年ということになっていました。このことは、元親の天正3年から8年にかけての阿波、讃岐、伊予の征服戦争の後ろ盾に、信長がなっていたということです。
ところが、近年岡山県で見つかった「石谷(いしがい)家文書」によると長宗我部信親が信の字をもらったのは、天正3年ではなく、天正6年とする文書があったそうです。(同じ文書に、天正6年の荒木村重の謀反のことが書かれているそうです)
もちろん、元親が天正6年以前に信長と接近を図っていた可能性を否定するものではないのですが、これまでの説を覆す発見であると言っていました。
本能寺の変と長宗我部元親
また、本能寺の変について、長宗我部元親のかかわりについての質問に答えていただきました。
先の「石谷家文書」に、天正10年(本能寺の変があった年)5月長宗我部元親から明智光秀の家臣斉藤利三に宛てた手紙があるそうです。その中で、長宗我部元親が、信長の命令(阿波からの撤退)に対して、「命令には従うが、海部、大西城の2城は所持したい」と書き、そのことを信長に伝えるように斉藤利三に書いています。
この手紙が明智光秀や斉藤利三に伝わったかどうかははっきり分からないが、もし伝わっていれば、本能寺の変に影響を与えていただろうとおっしゃっていました。
城の会見学会は四国へ
ということで、若越城の会の今年の秋の見学会は、四国に行くそうです。
コースは、大まかに松山城→高知城→高松城です。大変楽しみです。