堀川めぐり遊覧船は、松江城の入り口でいったん降りました。出迎えてくれたのは、初代城主堀江吉晴でした。
堀江吉晴の像
堀尾吉晴とは
堀尾吉晴という武将は、愛知県(尾張)の出身です。天文13年(1544年)の生まれです。吉晴が生まれた当時は、尾張は北のほうを岩倉の織田氏、南のほうを清須の織田氏が治めていました。堀尾吉晴の父堀尾泰晴は、岩倉織田家に仕えていました。南の織田氏の中心は、弾正忠家、つまり織田信秀でした。織田信秀、信長によって岩倉織田氏はついに滅ぼされてしまいますが、その過程で堀尾氏は一時浪人の身となったようです。その後織田信長の勢力下に入り、豊臣秀吉の家臣となったようです。
豊臣秀吉が死去した後は、徳川家康に近づき、関が原の戦いでは東軍につきました。その後、この出雲の国の大名となりました。
松江城の歴代城主(現地パンフレットより)堀尾氏(吉晴、忠氏、忠晴)→京極氏(忠高)→松平氏(直政、綱隆、綱近、吉透(よしとう)、宣維(のぶずみ)、宗衍(むねのぶ)、治郷(はるさと)、斉恒(なりつね)、斉貴(なりたけ)、定安)と続きました。
マップ(現地パンフレットより)
馬溜
大手門を入ると、大きな広間がありました。馬溜と呼ばれるところです。昔の駐車場でしょうか。
馬溜跡 右が太鼓櫓、左が中櫓。石垣をよく見ると、中央から右と左で様子が違っています。右側が整然と積まれているので、後で積み直したのでしょうか。
太鼓櫓
松江城 国宝に
太鼓門横を登り、奥へ入っていくと一ノ門辺りに「国宝」の垂れ幕がありました。今年5月、国の文化審議会が松江城を国宝にと答申しました。そして7月8日国宝に指定されました。おかげで、地元ではおおにぎわい。観光客もかなり増えたそうです。
松江城は、現存する天守閣(弘前城、松本城、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城(岡山県)丸亀城、松山城(愛媛県)、高知城、宇和島城)12のうちの一つですが、このうち国宝となっているのは、松本城、犬山城、彦根城、姫路城そして松江城です。
どうして他の城が国宝でないのか、理由は分かりませんが、国宝に指定されると、現地は、にぎわうというは確かなようです。
さて、一ノ門をくぐると天守閣が見えました。
堀江吉晴の像
堀尾吉晴とは
堀尾吉晴という武将は、愛知県(尾張)の出身です。天文13年(1544年)の生まれです。吉晴が生まれた当時は、尾張は北のほうを岩倉の織田氏、南のほうを清須の織田氏が治めていました。堀尾吉晴の父堀尾泰晴は、岩倉織田家に仕えていました。南の織田氏の中心は、弾正忠家、つまり織田信秀でした。織田信秀、信長によって岩倉織田氏はついに滅ぼされてしまいますが、その過程で堀尾氏は一時浪人の身となったようです。その後織田信長の勢力下に入り、豊臣秀吉の家臣となったようです。
豊臣秀吉が死去した後は、徳川家康に近づき、関が原の戦いでは東軍につきました。その後、この出雲の国の大名となりました。
松江城の歴代城主(現地パンフレットより)堀尾氏(吉晴、忠氏、忠晴)→京極氏(忠高)→松平氏(直政、綱隆、綱近、吉透(よしとう)、宣維(のぶずみ)、宗衍(むねのぶ)、治郷(はるさと)、斉恒(なりつね)、斉貴(なりたけ)、定安)と続きました。
マップ(現地パンフレットより)
馬溜
大手門を入ると、大きな広間がありました。馬溜と呼ばれるところです。昔の駐車場でしょうか。
馬溜跡 右が太鼓櫓、左が中櫓。石垣をよく見ると、中央から右と左で様子が違っています。右側が整然と積まれているので、後で積み直したのでしょうか。
太鼓櫓
松江城 国宝に
太鼓門横を登り、奥へ入っていくと一ノ門辺りに「国宝」の垂れ幕がありました。今年5月、国の文化審議会が松江城を国宝にと答申しました。そして7月8日国宝に指定されました。おかげで、地元ではおおにぎわい。観光客もかなり増えたそうです。
松江城は、現存する天守閣(弘前城、松本城、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城(岡山県)丸亀城、松山城(愛媛県)、高知城、宇和島城)12のうちの一つですが、このうち国宝となっているのは、松本城、犬山城、彦根城、姫路城そして松江城です。
どうして他の城が国宝でないのか、理由は分かりませんが、国宝に指定されると、現地は、にぎわうというは確かなようです。
さて、一ノ門をくぐると天守閣が見えました。