箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

 学校での「新型コロナウイルス」学習

2020年09月30日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルスに感染した人に偏見をもつ、差別する言動が学校で起こっています。

新聞やテレビのニュースでも、新型コロナウイルスに関して、差別や偏見という表現がよく使われています。

しかし、このとき「差別」と「偏見」とは何か、その違いを意識して使っている人は少ないのではないでしょうか。

この両者は違う性質のものです。

まず、「差別」「偏見」の前段階として、「ステレオタイプ」(きめつけ、カテゴリー化)があります。

たとえば、「秘密の県民ショー」のように、「愛知県民は、みんながみそ煮込みうどんが大好きで、いつも食べます」と一つのカテゴリーに愛知県の人びとを押し込みます。

じっさいは、愛知県の人びとのなかにも、讃岐うどんが好きであったり、大阪のきつねうどんのが好きである人がいるにもかかわらず「みんな」という言葉でひとくくりにするのです。

こうすることで、イメージが単純になり、他の人に伝わりやすく、あれこれ考えなくても簡単に判断し、行動でき、便利になります。

そしてこの「ステレオタイプ」に好感、あこがれ、嫌悪、軽蔑のような感情を抱くことが「偏見」です。

さらに、その「偏見」をもとに、接近、親近、忌避、排除などの行動が現れると「差別」になります。

つまり、「ステレオタイプ」⇒「偏見」⇒「差別」と、段階的につながっているわけです。

では、そもそもステレオタイプをつくらなければ、偏見や差別は起こらないのでないかという考えが浮かびます。

でも、それは不可能です。

カテゴリー化するときに、人びとは同時に自分が属する集団と属さない集団というすみわけを行っています。

たとえば自分の応援するサッカーチームが勝利すると、チームメートとファンが一緒に喜びます。

応援するアイドルが選抜入りすれば、ファンからアイドルへのお祝いのメッセージが発せられます。

これらのことからわかるように、集団に所属しているという安心感が個人の心の支えになるというプラスの面があります。

ですから、「カテゴリー化」はよいとか、よくないとかという問題ではなく、人間の生活には欠かせない自然な行為なのです。

ただし、この「カテゴリー化」は、往々にして、その集団に所属する人には所属しない人より好感や好意をもって接する傾向が生まれます。

逆に言えば、所属しない人を疎外する場合があり、外されるされる人にとっては脅威となります。

このようにして、ステレオタイプは偏見とか差別につながりやすいのです。

だからこそ、個人は一人ひとりが自分の中にある偏見や差別を見つめ、「偏見をもたない」「差別しない」という意志を明確に持ち、行動することが必要になるのです。


さて、新型コロナウイルスにかかわる偏見や差別が起こっているのをどう防止するかという学校の課題に話を戻します。

「新型コロナウイルスには、だれもが感染する」という正しい知識を教師が児童生徒に伝え、「偏見をもたない」、「差別はいけない」と教えることは大切です。

子どもは正しく知ることによって考え方が変わることがあります。

それにくわえて、教師の平素の態度やおこないが大きな影響力をもっています。

転入生に「ブラジルから来たのならサッカーがうまいんだろ」とクラスの子が言ったとき、すかさず教師が切り込んでいけるか。

「ブラジルの子は、どの子もサッカーをするのだろうか?」と問い返すことなく、黙って聞いている。

子ども間のいじめを見て見ぬふりをしている。

特定の気に入った子だけをえこひいきする。

それらはすべて教師が行う差別です。

こんな態度や行いをふだんしておきながら、「新型コロナウイルスについての偏見をもったり、差別をしないようにしましょう」と言っても、児童生徒には届きません。

教師の言葉が子どもに共感され、支持されるのは、「せんせいはいつも私たちみんなを大切にしてくれる。そんなせんせいが言うことだから」という受けとめ方を子どもがしてくれるときです。

教師のふだんのおこないや態度が新型コロナウイルスに関する偏見や差別をクラスからなくしていくことにつながります。