今回の新型コロナウイルス感染防止の日本での対策は、ただ一点「命を守る」ことが目的でした。
そして、感染症拡大防止だけを目的にして、緊急事態宣言を発令し、経済活動に制限をかけました。
その結果がどうなったでしょうか。
失業者が増え、企業が倒産し、店は閉店しました。
これが「命を守る」ことになったのでしょうか。
一つの方向から命を守ろうとしたら、結果として命を大切にしない影響を生み出しています。
そうなったとき、私たちの命は、ほんとうに守られたことになるのでしょうか。
そのような疑問を、わたしは抱いています。
病院は健康を維持するもっとも大切な機関である。
「病院が持ちこたえられなくなると、社会は終わりを迎えます」という考えがショッキングな「医療崩壊」という、まことしやかなフレーズとともに報道されました。
学校教育の分野では、よく「学級崩壊」という言葉が使われます。
学校教育の分野では、よく「学級崩壊」という言葉が使われます。
でも、わたしは「崩壊」という仰々しい言葉に、違和感をもつことがよくあります。
「崩壊」とは壊れて、崩れ落ちてしまうことだと思います。「地震で建物が崩壊した」というように。
学級の役割(機能)がはたらかなくなって、授業中騒がしくて、立ち歩く子がいる。教科書もノートも出さない子がいる。安心して給食がとりにくい状況を表すという意味で崩壊ではありません。
ですから、「学級が機能不全になる」という表現を、わたしは校長在任時にはしていました。
とにかく、今回の新型コロナウイルス対応では、「医療を崩壊させてはならない」という勢いで、あれこれが決められていきました。
その一方では、「不要不急」とラベルを貼られた仕事の人たちは、仕事をしていたら叩かれました。
みんなで力を寄せ合って戦わなければならなかった、その先にあったのは何だったのでしょうか。
とにかく、今回の新型コロナウイルス対応では、「医療を崩壊させてはならない」という勢いで、あれこれが決められていきました。
その一方では、「不要不急」とラベルを貼られた仕事の人たちは、仕事をしていたら叩かれました。
みんなで力を寄せ合って戦わなければならなかった、その先にあったのは何だったのでしょうか。
感染者数が上がった/下がったという数字の変動だけだったのでないか。
ここまで、思うようになりました。
そして、ウイズコロナ時代の「新しい生活様式」が提唱され、導入を進めているのがいまです。
しかし、そもそも人びとの生活様式は多様なものです。
ここまで、思うようになりました。
そして、ウイズコロナ時代の「新しい生活様式」が提唱され、導入を進めているのがいまです。
しかし、そもそも人びとの生活様式は多様なものです。
その生活様式は、人々がそれぞれに長い時間をかけ、生活のオリジナルな工夫から確立されたものです。
たとえば、農業をする人は、真夏は直射日光が強くて、暑い日中の時間帯には作業をやめて、昼寝をする。
たとえば、農業をする人は、真夏は直射日光が強くて、暑い日中の時間帯には作業をやめて、昼寝をする。
そして日が陰りだしたら作業を再開する。このようにして熱中症も防いできたのです。
ですから、生活様式というものは、どれほど小さな行動であっても、それにはれぞれの人が、意味があって築いてきているのです。
この考えに立つとき、ウイルス感染症予防というたった一つの観点から「これはやってもいいです」「これはだめです」と強いるのはどうでしょうか。
ですから、生活様式というものは、どれほど小さな行動であっても、それにはれぞれの人が、意味があって築いてきているのです。
この考えに立つとき、ウイルス感染症予防というたった一つの観点から「これはやってもいいです」「これはだめです」と強いるのはどうでしょうか。
人びとの多様な生活様式を一つの色に統一しようとする「新しい生活様式」の導入に、わたしはとまどいを覚えざるをえないのです。
また、日本では自粛の要請があると、多くの人々が従順にしたがい協力しています。
また、日本では自粛の要請があると、多くの人々が従順にしたがい協力しています。
国民性というものがあるとするならば、そういう国民性のあらわれだと思います。
ヨーロッパでは、要望を受けただけでは守ろうとしない人が多いようです。でも罰則がつけば守ろうとします。
ヨーロッパでは、要望を受けただけでは守ろうとしない人が多いようです。でも罰則がつけば守ろうとします。
その点で、罰則がなくても、国民が同じ行動をして守ろうとするのは、新型コロナウイルス感染対策上は、よかったとは思います。
それは、別の面からみれば、人びとが「早く上から指示を出してくれ」と望む人が多いという特徴を表していたとみることもできます。
基本的に、日本はタテ社会でできています。
「上の人が言ってくれれば、自分が考えたり、言わなくて済む」という打算も働いているのでしょう。
その点では、学校教育も同様です。
新型コロナウイルス感染症への対応では、文科省が通知を出し、都道府県教育委員会を経て、市町村教育委員会が所管する各学校に通知や指示を出します。
学校の教職員は、世代間ギャップや、若い教職員が突出して多いなど、いまやヨコの人間関係がとりにくい学校も増えています。
学校の教職員は、世代間ギャップや、若い教職員が突出して多いなど、いまやヨコの人間関係がとりにくい学校も増えています。
個人個人は「ちょっとおかしいんじゃない」と感じても、そのまま受け入れてしまいます。
そうなると、「隣の学校ではやっているのに、うちの学校はしていない。やらないと」となります。
そうなると、「隣の学校ではやっているのに、うちの学校はしていない。やらないと」となります。
保護者も、「なぜうちの学校ではしないのですか。○○の学校はやっていますよ」と批判の声をあげます。
でも、考えてみれば新型コロナウイルス感染のリスクに対応はしますが、そのリスクはゼロにはなりません。
でも、考えてみれば新型コロナウイルス感染のリスクに対応はしますが、そのリスクはゼロにはなりません。
そうなると「不十分じゃないですか」という声が出ます。
その結果、たとえば「ガラスは割れてけがをする子がいるから、学校をガラスのない建物にしましょう」という行きすぎた段階にまで踏み込んでしまう感染症対策も出てくる心配があります。
私は、学校とは基本的に人と人が出会い、交流する「交差点」だと思っています。
私は、学校とは基本的に人と人が出会い、交流する「交差点」だと思っています。
ですから、感染症対策が極端な方向に向けば、人と人を出会えなくすることになります。
人間は人と出会うために生まれてきて、人と出会うことで、人生を送る存在です。
そのために学校はあると言っても過言ではないと思います。