安達誠司 『恐慌脱出』 ( p.98 )
大恐慌期には、不良債権の買い取りがなされたが効果を上げず、金融機関に対する資本注入によって、金融システムは安定化した、と書かれています。
不良債権の買い取りは、金融機関から不良債権を切り離すのですから、金融システム安定化に効くのではないか、と思われるのですが、実際には効かなかった。最終的に、資本注入がなされて、金融システムは安定化した、というのですが、それはなぜなのか。
不良債権の買い取りと、資本注入のちがいはどこにあるのか、を考えてみると、
金融機関の経営の面では、どちらも、大差はないのではないかと思います。不良債権を買い取ることによって、金融機関から不良債権を切り離すことと、金融機関への資本注入によって、不良債権を償却する余力を金融機関に与えることとで、大差はないと思います。
それでは、両者のちがいはどこにあるのか。両者で決定的に異なるのは、不良債権が債権買取機構などに移って 「残る」 のか、償却されて 「なくなる」 のか、のちがいではないかと思います。
この差は、金融機関にしてみれば、どちらも大差はありません。債権の売却であれ、償却であれ、要は自分のところから 「なくなる」 ことには、変わりありません。しかし、債務者にとっては、この差は決定的なものになります。
債権が売却された場合には、債権者が変わっただけで、債務者の債務はそのまま残存します。しかし、債権が償却された場合には、債権そのものが消滅するのですから、債務者の債務も消滅します。したがって、債権の買い取りがなされても、債務者にとっては、なにも変わらないが、債権が償却された場合には、債務者にとっては、利益になる、と考えてよいでしょう。
それでは、これを 「金融システム」 の観点からみてみます。いま、「金融システム」 を、金融機関など、債権者に限定する視点でみれば、債権買取も資本注入も、「金融システム」 のうえで、大差はない。しかし、「金融システム」 を、債務者をも含んだ視点でみるならば、債務が残存するか、消滅するかによって、「金融システム」 に対する介入に、決定的なちがいがある―――。
ここで、冒頭、私が引用文を要約した記述、「大恐慌期には、不良債権の買い取りがなされたが効果を上げず、金融機関に対する資本注入によって、金融システムは安定化した」 を再考します。ここにいう 「金融システム」 は、もちろん、金融機関など債権者にかぎった視点で用いられている言葉なのですが、
その 「金融システム」 の安定化のためには、債務者側をも、考慮しなければならない。なぜなら、効果の有無が、主として債務者側の事情によっていると思われるからです。
ここで、債務者の立場に立って考えてみます。
債務者にとってみれば、( 債権買取によって ) 債務が残存する場合には、債務を完済するまで、支払いを続けなければなりません。しかし、債権が償却された場合には、債務も消滅するのですから、もはや、支払いをする必要はありません。
支払いをする必要がなければ、あらたな消費・投資を行う余裕が生じ、それによって、景気が上向き、経済が活発になる可能性が高まります。債務が残存する場合には、返済に精一杯で、消費・投資どころではないと思います。そもそも、「不良債権」 と呼ばれるくらいですから、返済そのものが困難で、返済に精一杯のはずです。
結局、「金融システム」 を健全にしたところで、消費・投資が上向き、経済活動が活発にならなければ、あらたな不良債権が生じてしまい、意味がないのですから、債務者の救済も、同時に考えなければならないのではないかと思います。
もっとも、債務者を救うことには、モラルの面で、問題があるとも考えられます。しかし、それをいうなら、債権買取にしろ、資本注入にしろ、債権者の側にも、モラルの面で問題があるのであり、それを承知のうえで、債権買取なり、資本注入なりを行うのです。ですから、債務者のモラルのみを問題視する必要はない、と考えてよいと思います。
■追記
文中、「消費」 としていた部分を、「消費・投資」 に訂正しました。
1930年代の大恐慌期のアメリカを見てみよう。
1933年3月にフランクリン・ルーズベルトが新大統領に就任し、「バンク・ホリデー」を実施した。これによって、金融機関の合併や統廃合を通じて金融機関の選別が行われ、生き残ることができると政府に判断された金融機関に対して、資本注入が実施された。その時、金融機関に対する資本注入をする仕組みとして設置されたのが、RFC(復興金融公庫)であった。
実は、RFC自体は、フーバー大統領時代の1932年に設置されていた。当初は不良債権の買い取りが主で、大した効果を上げることができなかった。だがルーズベルトはこれを資本注入型の救済機関に体制を整え、みずからの強いリーダーシップによって、金融システム安定化のために大鉈をふるったのであった。
大恐慌期には、不良債権の買い取りがなされたが効果を上げず、金融機関に対する資本注入によって、金融システムは安定化した、と書かれています。
不良債権の買い取りは、金融機関から不良債権を切り離すのですから、金融システム安定化に効くのではないか、と思われるのですが、実際には効かなかった。最終的に、資本注入がなされて、金融システムは安定化した、というのですが、それはなぜなのか。
不良債権の買い取りと、資本注入のちがいはどこにあるのか、を考えてみると、
金融機関の経営の面では、どちらも、大差はないのではないかと思います。不良債権を買い取ることによって、金融機関から不良債権を切り離すことと、金融機関への資本注入によって、不良債権を償却する余力を金融機関に与えることとで、大差はないと思います。
それでは、両者のちがいはどこにあるのか。両者で決定的に異なるのは、不良債権が債権買取機構などに移って 「残る」 のか、償却されて 「なくなる」 のか、のちがいではないかと思います。
この差は、金融機関にしてみれば、どちらも大差はありません。債権の売却であれ、償却であれ、要は自分のところから 「なくなる」 ことには、変わりありません。しかし、債務者にとっては、この差は決定的なものになります。
債権が売却された場合には、債権者が変わっただけで、債務者の債務はそのまま残存します。しかし、債権が償却された場合には、債権そのものが消滅するのですから、債務者の債務も消滅します。したがって、債権の買い取りがなされても、債務者にとっては、なにも変わらないが、債権が償却された場合には、債務者にとっては、利益になる、と考えてよいでしょう。
それでは、これを 「金融システム」 の観点からみてみます。いま、「金融システム」 を、金融機関など、債権者に限定する視点でみれば、債権買取も資本注入も、「金融システム」 のうえで、大差はない。しかし、「金融システム」 を、債務者をも含んだ視点でみるならば、債務が残存するか、消滅するかによって、「金融システム」 に対する介入に、決定的なちがいがある―――。
ここで、冒頭、私が引用文を要約した記述、「大恐慌期には、不良債権の買い取りがなされたが効果を上げず、金融機関に対する資本注入によって、金融システムは安定化した」 を再考します。ここにいう 「金融システム」 は、もちろん、金融機関など債権者にかぎった視点で用いられている言葉なのですが、
その 「金融システム」 の安定化のためには、債務者側をも、考慮しなければならない。なぜなら、効果の有無が、主として債務者側の事情によっていると思われるからです。
ここで、債務者の立場に立って考えてみます。
債務者にとってみれば、( 債権買取によって ) 債務が残存する場合には、債務を完済するまで、支払いを続けなければなりません。しかし、債権が償却された場合には、債務も消滅するのですから、もはや、支払いをする必要はありません。
支払いをする必要がなければ、あらたな消費・投資を行う余裕が生じ、それによって、景気が上向き、経済が活発になる可能性が高まります。債務が残存する場合には、返済に精一杯で、消費・投資どころではないと思います。そもそも、「不良債権」 と呼ばれるくらいですから、返済そのものが困難で、返済に精一杯のはずです。
結局、「金融システム」 を健全にしたところで、消費・投資が上向き、経済活動が活発にならなければ、あらたな不良債権が生じてしまい、意味がないのですから、債務者の救済も、同時に考えなければならないのではないかと思います。
もっとも、債務者を救うことには、モラルの面で、問題があるとも考えられます。しかし、それをいうなら、債権買取にしろ、資本注入にしろ、債権者の側にも、モラルの面で問題があるのであり、それを承知のうえで、債権買取なり、資本注入なりを行うのです。ですから、債務者のモラルのみを問題視する必要はない、と考えてよいと思います。
■追記
文中、「消費」 としていた部分を、「消費・投資」 に訂正しました。