言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

株価 PKO の是非

2009-09-26 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.50 )

 PKOは即効性があり、効果も大きかったが、評判はきわめて悪かった。「株式市場に公的資金を投入するなどとんでもない」「まして株価の買い支えなんて」「損をしたらどうする」「国民のお金で投資家を儲けさせるのか」と、さんざんであった。
 公的資金の導入は、どこの国でも国民の抵抗が強い。しかも、PKOの対象は、博打の一種とみなされている株式市場だ。サブプライム・ローン危機における米国でもそうだった。公的資金導入の法律を作りながら、政府は「これは使わない」と言わざるを得なかったほどである。
 一般国民が反発するならわかる。だが、経済学者や経済ジャーナリストのいわば専門家たちが反対したのは、理解できないことだった。専門家の反対理由も、一般国民と大同小異だ。市場メカニズムに介入し、株価を買い支えるのは「政府による株価操作」であり、「禁じ手」だ、というのだ。
「株価は実体経済を映す鏡だ。鏡を持ち上げても実体経済は変わらない」などと、わけのわからない論文を書いた経済学者もいた。経済の専門家が、経済の相互作用を知らないのだ。株価は実体経済の鏡だが、実体経済もまた、株価水準によって影響を受ける。鏡が実体経済を変え得るのだ。
 そもそも市場への介入は、そんなに非難されるべきことか。戦後最大の株価大暴落という緊急事態である。市場メカニズムが経済そのものより、大事であるはずがない。たとえ、どんなに経済の安定を損ない、国民生活を傷めても、市場メカニズムに委ねるべきだというのだろうか。市場メカニズムだけでうまく行くなら、政府そのものが、はじめから必要ないはずだ。


 宮沢内閣による株価 PKO を支持する見解が、理由とともに書かれています。



 当時、PKO を批判する見解が一般的だったと思います。著者は、そのような批判、批判理由に対し、「わけのわからない」 見解である、と主張されています。

 株価と実体経済とは、相互に密接につながっています。したがって、株価が下落すれば、実体経済も傷み、株価が上昇すれば、実体経済に好影響が及ぶ、というのは、当然だと思います。この点については、( 私には ) 異論はありません。



 しかし、株価の買い支えが市場メカニズムに対する介入であり、「禁じ手」 である、という見解には、無視しえない必然性があると思います。

 もともと、経済学は科学たらんとしています。すなわち、経済学の視点でいえば、価格は 「必然」 によって決まる、と考えることになると思います。それにもかかわらず、政府の介入によって ( 強引に ) 価格を操作すれば、必ず、どこかに歪みが生じる、と考えることになると思います。

 著者は、「そもそも市場への介入は、そんなに非難されるべきことか」 と書かれていますが、私は、「非難されるべきこと」 にあたると思います。市場への介入とは、資本主義の否定にほかなりません。日本が資本主義国家である以上、政府は市場に介入してはならない、と考えるのが当然だと思います。



 けれども、株価の暴落を放置して、実体経済が破壊されるのを傍観すべきなのか、というと、それもいかがなものか、とも思います。資本主義体制の維持と、国民の暮らしと、どちらが大切なのかは、比べるまでもありません。

 そこで、きわめて例外的な対応として、政府による市場介入が必要不可欠である場合には、認めてもよいのではないか、と思います。「緊急事態」 には、政府による市場介入が行われても、かまわないのではないかと思います。



 なお、このように述べた場合に問題になるのは、「それでは、どのような場合が、政府による市場介入が許容される緊急事態にあたるのか」 ですが、これは価値判断の問題であり、理論的に、論理のみによって判定可能な問題ではありません。まさに、「政治判断」 の問題であり、個々の場合において、許容されるか否かを、世論に沿って判断せざるを得ないのではないかと思います。一般国民の意見を考慮しつつ、判断するほかないと思います。