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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

規制緩和倒産のなか、生き残った酒屋がある

2009-09-02 | 日記
内橋克人とグループ2001 『規制緩和という悪夢』 ( p.101 )

 九四年十一月五日、六日と二夜連続でNHKスペシャル『どうする規制緩和』が放映された。この第一夜「今なぜ規制緩和なのか」で、売り場面積が一万平方メートル以上のスーパーに酒販免許を与えるという規制緩和がどんな影響をもたらしたかというレポートがあった。
 そのレポートでは、ダイエーが国産ビールを三〇円ちかく安く売り始めたことが紹介される。問題はそれから取り上げられる個人酒店のケースである。番組では、個人酒店も、地域で集まって組合をつくり共同仕入れをして酒を安く売り、ダイエーなどのスーパーに対抗していっている、と紹介されるのである。
 さて、私たちはこのVTRを見て、こんな疑問を持った。はたして、個人酒店が共同仕入れ程度でダイエーなどの巨大スーパーに対抗していけるのだろうか?
 私たちは、NHKが取り上げた「石神井酒販協同組合」の市川昭治副理事長にあらためて取材をしてみた。
 NHKが番組で紹介をしていなかったのは例えば市川氏のこんなコメントである。
「共同購入をすると、我々は、ダイエーさんに準じた小売り二〇〇円ぐらいまでは、何とか落とせるんです。しかし、二〇〇円で売った店は、このところアルコール類の消費が低迷しているから、損益いっぱいか、少し割っているぐらいではないでしょうか。酒屋は通常で、二割か、二割五分ぐらいしか利益をかけていませんから、それをダウンさせると、生活がなかなかやっていけない。たとえ、ダイエーと同じ値段で売っても、うちなんかチラシが入れられませんから、いくら価格競争しても駄目なんですね。会合を開くと、組合員から『これからどうしたらいいのか』という質問が多い。かりに共同仕入れをやっても駄目だとなると、その先何があるのか。規制緩和を進めようとする人たちに、どういう方法があるのか聞いてみたい」
 ようするに、地域の酒屋がいくら集まったところで、ダイエーの大量仕入れ、大量販売を上回ることはできないということである。これは黒石市でも同じだ。
 東京商工リサーチが、九四年十二月に発表した調査によれば、酒販免許の規制が実際に緩和された九二年から零細の個人酒店を中心に酒屋の倒産が激増している。九一年までは五十件前後で推移していた酒類販売業の倒産件数は、九二年には百八といきなり倍に跳ね上がり、九三年、百十四、九四年、百十七と倒産件数は急増している。東京商工リサーチはこれを「規制緩和倒産」と名付け、〈倒産は零細の小売店に集中している〉と分析している。


 規制緩和により、事実上、大手スーパーに対抗できない酒屋が窮地に陥っている、と書かれています。



 町の酒屋が、大手スーパーと価格競争をしようとしても、事実上、できない。どうすればいいのか。これでは、だまって潰れろ、と言っているのと同じではないか。規制緩和は間違いである、と言いたいのだろうと思います。

 個人酒店は個人酒店なりに、「地域で集まって組合をつくり共同仕入れをして酒を安く売り、ダイエーなどのスーパーに対抗していっている」 とはいえ、それにも限界がある。「はたして、個人酒店が共同仕入れ程度でダイエーなどの巨大スーパーに対抗していけるのだろうか?」 と思うのは、当然です。

 おそらく、地域の組合でどんなに努力しても、巨大スーパーよりも安く仕入れることはできないと思います。また、かりに同じ価格で仕入れることができたとしても、商品一点あたりの利幅が小さくなれば、やっていけないと思います。地域の酒屋では、大量販売は期待できないからです。



 しかし、現にいまでも、酒屋は存在しています。

   競争に生き残った個人酒店がある、

と考えてよいと思います。どうやって生き残ったのか、それは知りませんが、酒屋が全滅したわけではない。競争に勝ち残る方法は、あったのだと思います。



 一般に、コンビニの販売価格はスーパーよりも高い。それにもかかわらず、コンビニが消費者から一定の支持を得ている背景には、

   消費者が望んでいるのは、価格の安さばかりではない

状況があるのだと思います。したがって、たとえ価格面で巨大スーパーに太刀打ちできなかったとしても、なんらかの方法で、対抗できる方法があると考えるのが、適切だと思います。具体的にどういう方法なのか、それはわかりませんが、

 地域の酒屋には、巨大スーパーやコンビニにはない、有利な点があります。地域の人々とのつながり、人間関係です。そこから、小さな酒屋ならではのサービスができるのだろうと思います。

規制緩和は構造改革の一環にすぎない

2009-09-02 | 日記
小松亀一法律事務所」 の 「私の自覚-弁護士は基本的にサービス業、世の指導者に非ず2

○「私の自覚-弁護士は基本的にサービス業、世の指導者に非ず1」の話を続けます。
 私が弁護士になったのは30年前で当時まだ28歳の若造でしたが、今思えば正に世の中の右も左も判らない未熟者にも拘わらず、弁護士という肩書きだけで「先生」と呼ばれ、自分は偉くなったと誤解してしまいました。

(中略)

○にもかかわらず弁護士と言うだけで「先生」なんて呼ばれ、舞い上がって自分は難しい仕事をする偉い人間と勘違いして、お客様を見下す態度が徐々についていきました。

(中略)

○このように「弁護士先生」と言われることで、本来お客様は報酬をお支払い頂き弁護士としての仕事を成り立たせて頂く大変有り難い存在であるのにこれを忘れがちになります。そしてお客様について、まるで自分が導く生徒の如き感覚を持ち、自分が指導者であり、お客様を教え導くのが弁護士の仕事との勘違いに陥りました。

○この勘違いのため大切なお客様のご希望・ご要望をじっくり聞かず弁護士の見解を押し付けることへの自覚が乏しくなります。それが「女性依頼者の怨み」に記載した事情等の経験、更に弁護士に対する市民の苦情窓口担当等で、お客様の弁護士に対する強い不満を強く自覚するようになりました。

○これらの過程で、弁護士の持つ世の指導者意識に対する反発は相当根強く、いつかしっぺ返しを食らうだろうなと覚悟していたら,案の定、ここ10数年の司法改革の波で弁護士特権の殆どが奪われつつある状況になりました。私は、弁護士と言う職業は世の指導者たる特別の存在だとの思いは払拭すべきと常に自分に言い聞かせるようにしておりますが、まだまだ実践が伴わないと反省することが多々あり、兎に角、自戒を継続していきます。


 弁護士は社会慣習上 「先生」 と呼ばれることに加え、専門家であるとの自意識もあり、自分は偉い人間なのだと勘違いをして指導者意識を持っている。司法改革によって弁護士特権が奪われつつあるのは、その 「しっぺ返し」 である、と書かれています。



 この先生は、自らを振り返り、反省 ( …といって失礼でなければよいのですが ) しておられます。お会いしたことはありませんが、おそらく、( 人間的に ) 大変立派な先生なのだろうと思います。しかし、すこし、誤解しておられるのではないか、とも思います。



 弁護士のなかには、「俺はエライ」 と、勘違いしているのではないか、と思わざるを得ないような人もいます。しかし、司法改革は、そのような弁護士に対する反発に基づくものではなく、合理的・理性的な動機によるものだと思います。

 市民の意見 ( 世論 ) は、かなり理性的なものであり、感情的な動機で、社会構造を変えようとしているのではない。市民は市民なりに、事の軽重を弁えている ( わきまえている ) のであり、もっと市民に信頼を持っていただきたい、と思います。



 なお、弁護士のなかには、「俺はエライ」 と、勘違いしている人もいるのではないか、というのは、私の実体験に基づいています。「ヤミ金融 (押し貸し)」 に、 ( 事実関係の ) 一部分だけ書きましたが、その弁護士は、なんと、( こちらにはカネを受け取る義務はないにもかかわらず ) 一方的にカネを振り込んできたのです。とても困りました。

 相手は 「君のため」 ( こちらのため ) だと言っていたこと、相手が 「先生」 と呼ばれる弁護士であり、また、相手が 「年上」 でもあったことから、「迷惑なのですが…」 と、遠まわしに伝えたところ、無視されました。その約 1 か月後、公的機関に事実関係を伝えなければならない、その期限直前に電話したところ、こちらの雰囲気を感じ取っていたのか、

   「なんだ~あ? あれは? 迷惑だと言ってるのと同じじゃないか! 温情だーーっ!!」

と、怒鳴られました。この怒鳴りかたは、まるでヤクザです。

 実際、迷惑だったのですが、その弁護士は、「迷惑なはずがない」 と思い込んでいたのかもしれません。善意に解釈すれば、「君のためにカネを振り込んでやったのに、不満があるとは何事だ」 という意味になり、「弁護士の持つ世の指導者意識」 の現れだろうと思います。

 したがって、弁護士が 「世の指導者意識」 を持っていることは間違いないと思います。しかし、司法改革は、そのような 「指導者意識」 に対する反発ではないと思います ( 事実関係を全部書かず、一部分だけ書いているのは、相手の弁護士に配慮しているからです ) 。

 司法改革は、構造改革の一環にすぎないと思います。