日本共産党は、千島列島全島の返還を主張しています。
「しんぶん赤旗」の「日ロ領土問題 歴史的経過を見ると―」( 2010年11月2日 )
この主張には、説得力があります。
しかし問題は、日本が「日本国との平和条約」(通称・サンフランシスコ平和条約) において、千島列島の領有権を放棄していることです。
条約のうち、該当部分を引用します。
とすると、
日本は、すでに条約を結んでしまった以上、千島列島について、すべての島を返還要求することは、法的にもはや不可能なのでしょうか? 法的に可能ならば、全島の返還を求める道がひらけます。
そこで、この問題について考えてみました。
「外務省」の「条約データ検索」
長いためか、5つに分割されていますが、この2つ目のファイルを開き、15ページ目の部分を見てください。条約の最後の部分です。そこには、
これを見ると、ここにはロシアの前身であるソビエト社会主義共和国連邦の名前はありません。つまり、日本は、ソ連とはこの条約を結んでいないわけです。
要するに、ソ連は「関係ない」ということです。
たしかに、日本はこの条約で千島列島を放棄しました。
しかしそれは、「条約を結んだ国々に対して」千島列島を放棄したものであり、「ソ連に対して」放棄したものではありません。
したがって、日本は「ソ連に対して」、そしてもちろん「ロシアに対して」千島列島全島の返還を要求しうる、と考えられます。
もちろん現実問題として、ロシアが全島を返還する可能性はないとは思いますが、それは別の話です。日本は全島返還を主張し得ることそのものが重要です。
以上により、この論法 (私の論法) を用いれば、「日本はロシアに対し、千島列島全島の返還を要求し得る」と考えます。
★参考資料
「「千島列島を全て返せ」ソ連の占領は国際法違反」
http://www.youtube.com/watch?v=DfwC3YNf5U8
「しんぶん赤旗」の「日ロ領土問題 歴史的経過を見ると―」( 2010年11月2日 )
日本共産党は、1日の志位和夫委員長の談話でのべているように、1969年に千島政策を発表して以来、日本の領土として全千島列島と歯舞(はぼまい)諸島、色丹(しこたん)島の返還を求めてきました。党綱領でも「日本の歴史的領土である千島列島と歯舞諸島・色丹島の返還をめざす」と明記しています。これは、歴史的経過からみても当然の主張です。
◆全千島が日本領土
千島列島は、北端の占守(しゅむしゅ)から南端の国後(くなしり)までの諸島をさします。幕末から明治にかけての日ロ間の平和的な外交交渉では、全千島が日本の領土と確定されました。
それは、両国の国境を決めた二つの条約をみれば分かります。(地図参照)
日ロ間の最初の条約は、「日魯通好条約」(1855年)で、日ロ間の国境は択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島との間におき、択捉以南は日本領、得撫以北はロシア領とし、樺太(からふと)を両国民の“雑居地”にするという内容でした。
その後、「樺太・千島交換条約」(1875年)で、日本は樺太への権利を放棄し、その代わりに、得撫以北の北千島を日本に譲渡し、千島全体が日本に属することで合意しました。
その後、日露戦争で日本は樺太南部を奪いましたが、全千島が日本の領土であることは、第2次世界大戦の時期まで国際的に問題になったことはありません。
◆ヤルタ密約の誤り
ところが、ソ連のスターリンは、米英首脳とのヤルタ会談(1945年2月)で、対日参戦の条件としてソ連への千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、密約を結んだのです。これは、「領土不拡大」(1943年のカイロ宣言など)という戦後処理の大原則を踏みにじるものでした。
ヤルタ密約の誤りは、サンフランシスコ講和条約(1951年)第2条C項にひきつがれ、「千島放棄条項」になりました。
「サンフランシスコ条約第二条C項 日本国は、千島列島…に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」
その後、日本政府はこの千島放棄条項を前提にして、“南千島(国後、択捉)は千島ではないから返せ”という国際的に通用しない解釈で返還要求を続けてきました。この主張があとからのこじつけであることは、サンフランシスコ会議における日米両政府代表の言明やその後の国会答弁で明らかです。
吉田茂・日本政府代表の発言(51年9月7日)…「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿(は)さまなかった」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時…」
つまり、日本代表の吉田氏自身が、日本が放棄する千島列島には、択捉、国後が含まれるという演説をしているのです。
ダレス米国代表の発言(51年9月5日)…「第二条(C)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります」
これは、講和会議のさい、日本政府が「歯舞、色丹は千島ではない」と主張したためですが、それ以外は千島列島だという見解を示したものです。「南千島は千島にあらず」という日本政府の立場では、択捉・国後でさえ、道理をもって要求できる論立てにはならないのです。
さらに、サンフランシスコ条約の批准国会ではどうか。
外務省・西村熊雄条約局長の答弁…「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」「この千島列島の中には、歯舞、色丹はこれは全然含まれない。併し(しかし)国後、択捉という一連のそれから以北の島は、得撫(ウルップ)・アイランド、クリル・アイランドとして全体を見ていくべきものではないか」(51年10~11月)
西村局長の答弁は、南千島、北千島と分ける道理はない、択捉、国後以北の島は全体として千島列島を構成するというもの。「南千島は千島にあらず」という論立てが成り立たないことを、政府自身認めていたのです。
ソ連の不当な領土併合という根本問題を避けて、サンフランシスコ条約の前提に縛られている限り、領土問題の解決ができないのはこうした経過からみても明らかです。
この主張には、説得力があります。
しかし問題は、日本が「日本国との平和条約」(通称・サンフランシスコ平和条約) において、千島列島の領有権を放棄していることです。
条約のうち、該当部分を引用します。
第二条
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
とすると、
日本は、すでに条約を結んでしまった以上、千島列島について、すべての島を返還要求することは、法的にもはや不可能なのでしょうか? 法的に可能ならば、全島の返還を求める道がひらけます。
そこで、この問題について考えてみました。
「外務省」の「条約データ検索」
日本国との平和条約 ( TREATY OF PEACE WITH JAPAN )
1
http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/B-S38-P2-795_1.pdf
2
http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/B-S38-P2-795_2.pdf
3
http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/B-S38-P2-795_3.pdf
4
http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/B-S38-P2-795_4.pdf
5
http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/B-S38-P2-795_5.pdf
長いためか、5つに分割されていますが、この2つ目のファイルを開き、15ページ目の部分を見てください。条約の最後の部分です。そこには、
以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。と書かれており、その後には、各国の全権委員の署名が入っています。(3つ目のファイルにも署名が続いています。)
千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本国により作成した。
これを見ると、ここにはロシアの前身であるソビエト社会主義共和国連邦の名前はありません。つまり、日本は、ソ連とはこの条約を結んでいないわけです。
要するに、ソ連は「関係ない」ということです。
たしかに、日本はこの条約で千島列島を放棄しました。
しかしそれは、「条約を結んだ国々に対して」千島列島を放棄したものであり、「ソ連に対して」放棄したものではありません。
したがって、日本は「ソ連に対して」、そしてもちろん「ロシアに対して」千島列島全島の返還を要求しうる、と考えられます。
もちろん現実問題として、ロシアが全島を返還する可能性はないとは思いますが、それは別の話です。日本は全島返還を主張し得ることそのものが重要です。
以上により、この論法 (私の論法) を用いれば、「日本はロシアに対し、千島列島全島の返還を要求し得る」と考えます。
★参考資料
「「千島列島を全て返せ」ソ連の占領は国際法違反」
http://www.youtube.com/watch?v=DfwC3YNf5U8