今視網3/28日アップの記事より
江西で受けたインタビューの動画と記事です。
嬉しい事に、たっぷり31分50秒あるので、お茶を片手にどーぞ♪
下記は相変わらず熱意と勢いだけのアヤシい訳ですが、とても興味深い事を話しているので、よろしければこちらも参考にどうぞ♪
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7年間アルバムを出さない間に何潤東は様々な地方に仕事に行き、いろいろな経験をしてきたが、振り返ってみれば、この7年間の経験を何潤東は感謝している。
以前の彼は、歌を歌うにはまだ力不足で、テクニックもまだ感情に左右されてしまい、これはあまり良い事とはいえなかった。
今の彼は、どうすれば歌に感情移入すればいいかが解っているし、以前に比べて、歌を深く理解している。
彼はこの7年、映画やドラマの仕事の合間に発声や歌のレッスンを堅持し、いつも一人でKTVにリクエストしては練習していたと言う。
何潤東の最新アルバムの中には2曲の古い歌《双飛》と《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》がある。
《双飛》はもともと呉奇隆(ニッキー・ウー)が歌っていた歌で映画版《梁山伯祝英台》の主題曲だった。
つい最近何潤東もドラマ版《梁山伯祝英台》を演じたばかり。
今度はこの曲を何潤東がカバーし、ドラマ版の主題曲になったので、観衆にもっと認知されることを望んでいる。
《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》は何潤東の名曲だが、この歌は当時のドラマ《小李飛刀》のエンディング曲だった。
このドラマは案外いい視聴率だったため、多くの民衆はこの曲を知っている。
しかし、誰が歌っているかはあまり知られていなかった。
ここ数年、何潤東はこの歌を公の場で何度か歌う機会があり、ようやくこの歌を歌っているのが何潤東であるということが知られて来たらしい。
だから、何潤東は今度はこの歌を新しく編曲し、アコースティック版の(暖かいイメージの)《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》を皆にささげるためにアルバムに入れようと決めた。
これは当時からこの曲が好きな自分のファンへのプレゼントだとも言える。
アルバムのメイン曲、《黒色翅膀》のMVは、何潤東の監督処女作品で、MVの出来に、周囲は何潤東を称讃。
MVで描かれている家庭内暴力について、どうしてこのような構想が生まれたのか?という疑問に何潤東はこう応える。
「僕はずっと家庭の中では親の愛情がとても重要だと感じていて、両親は子供の一生を左右するほどの影響力がある。僕はとても幸運で、愛情に満たされた家庭で育ちました。でも、僕の周りには母(父)子家庭の子も多くいて、彼らの両親は無責任でした。それによって彼らの多くはかなり過激な個性がありました。僕がこのMVを通して望むのは、1つの悲劇のストーリーから、世の親達に警告をし、自分の子供に関心を持ち、すべての子供は健全に成長して欲しい。(という事です)」
《黒色翅膀》のMVの中で、何潤東は自分で“堕天使”のイメージをデザインした。
マフラー一本で上半身裸、黒い双翼。
この造型はこれを支持してくれた事務所の同僚達からの後押しもあり、会社はこの造型を使って表紙とすることを決定。
人々は今度のアルバムの表紙を見ると、どうしてこんなセクシー路線なのか?と思うが、これに対し何潤東が慌てて釈明するに…
実は普段着の彼はとても保守的。今回はアルバムの内容上必要だっただけで、セクシー路線は彼の本意ではないらしい。
《那年我們十七歳》(あの年僕らは17歳)は、当時の仲が良かった友達との事を歌った曲である。
この歌に言及した何潤東は、これは非常に感慨を覚えるという。
この時何潤東は、音楽で彼と友達の青春を記録するため、友達とのストーリーを、この歌の作詞者に話して聞かせた。
そうしてやっとこの一曲の友情の歌曲が誕生した。
この歌のMVには、その時の実際の友達が出演しており、彼は皆が50歳になった時に、この歌がいい思い出になって欲しいと思っている。
何潤東の紹介によると、この歌の歌詞の中の“小黒”は今は兵隊に、“小[月半]”は、一ヶ月前に結婚し、彼はまたわざわざ花婿の介添え人になった。
また、“阿民”はこの新しいアルバムのプロデューサーの畢国勇である。
自分の若い頃の事を話し出した何潤東の物語は終わらない。
多くの若い男の子と同じように、若いときの何潤東もちょっとした反抗的な少年だった。
10何歳かの時、彼は何人かの友達と一緒に、高いビルの屋上に登って、ビニール袋に水を入れた”水球”を、通りがかりの通行人に投げていた。
ある時それをうっかりチンピラにぶつけてしまい、危うく血戦(ヤキをいれられる?笑)になるところだったらしい。
バスケットボールは、何潤東の学生時代の最大の趣味で、カナダの学校では彼は唯一の中国人だった。
バスケットボールはどうしてもコートで衝突があり、特に華人はいつもコート上では地元人のいじめにあう。
ある試合の前、相手チームの一人が何潤東を挑発した。
いくつか悪口を言い、彼を黄色いサルとののしったのだが、何潤東はチームに気を配り、黙って怒りをこらえた。
しかし試合中、相手が何度も汚いファウルをしかけてきたため、堪えきれなくなった何潤東は、相手とけんかになり、数週間病院に入院する事になってしまった。
これは人種が原因であり、バスケットボールをする、その殴った外国人に比べれば、何潤東は比較的体つきも小さく、か細くみえる。
だから彼は試合は一生懸命やる。
ある時、試合中、首に相手の肘がぶつかり、救急で運ばれたが、結果は脊椎骨の第7節目の負傷だった(?)。
(“脊椎骨移位了七節”の詳しい意味は解りませんでした(汗)
今、思い起こすと、バスケットボールが最も多く何潤東に与えたのものは団体意識(チームプレーの大切さ)だ。
その年、カナダで学校のチームを選出する際のこと。何潤東は練習や試合中、威圧的(高飛車な?)な動作をし、一旦監督の厳しい懲罰を受けた。
監督は何潤東のプレーを拒否。これは何潤東の内心に個人プレーを(または大げさな演出を)したい欲求があり、大局を重視しなければならないのに、これでは必然的に協調性を欠いてしまう恐れがあったためだ。
まさにこのバスケットボールで過ごした歳月の経験と鍛錬は、何潤東に団体における協調性の重要性を理解させ、これは彼の後の仕事にも大きな助けとなった。
だから映画を撮影するとき、彼はいつもとても自然に早くチームにとけ込む事ができるのである。
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※以上意訳的解釈でした。まちがいもあるかもしれませんので詳しくは原文をご確認ださい。
またまた長い~ッ!(爆)
でも昔の事や今の事やいろんな事が解って嬉しいです♪
本当に興味深い話ばかりですね。
《那年我們十七歳》は実はこの間まで私のドライブソングで、古い曲の中では《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》と並んで最も好きな歌でした。
このMVは、ピーター君もお友達も、皆初々しくてとてもいいのですが、このうちの一人が今回のプロデューサーとは驚きです。
きっといいスタッフに囲まれて仕事をしているんだろーなー♪
江西で受けたインタビューの動画と記事です。
嬉しい事に、たっぷり31分50秒あるので、お茶を片手にどーぞ♪
下記は相変わらず熱意と勢いだけのアヤシい訳ですが、とても興味深い事を話しているので、よろしければこちらも参考にどうぞ♪
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7年間アルバムを出さない間に何潤東は様々な地方に仕事に行き、いろいろな経験をしてきたが、振り返ってみれば、この7年間の経験を何潤東は感謝している。
以前の彼は、歌を歌うにはまだ力不足で、テクニックもまだ感情に左右されてしまい、これはあまり良い事とはいえなかった。
今の彼は、どうすれば歌に感情移入すればいいかが解っているし、以前に比べて、歌を深く理解している。
彼はこの7年、映画やドラマの仕事の合間に発声や歌のレッスンを堅持し、いつも一人でKTVにリクエストしては練習していたと言う。
何潤東の最新アルバムの中には2曲の古い歌《双飛》と《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》がある。
《双飛》はもともと呉奇隆(ニッキー・ウー)が歌っていた歌で映画版《梁山伯祝英台》の主題曲だった。
つい最近何潤東もドラマ版《梁山伯祝英台》を演じたばかり。
今度はこの曲を何潤東がカバーし、ドラマ版の主題曲になったので、観衆にもっと認知されることを望んでいる。
《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》は何潤東の名曲だが、この歌は当時のドラマ《小李飛刀》のエンディング曲だった。
このドラマは案外いい視聴率だったため、多くの民衆はこの曲を知っている。
しかし、誰が歌っているかはあまり知られていなかった。
ここ数年、何潤東はこの歌を公の場で何度か歌う機会があり、ようやくこの歌を歌っているのが何潤東であるということが知られて来たらしい。
だから、何潤東は今度はこの歌を新しく編曲し、アコースティック版の(暖かいイメージの)《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》を皆にささげるためにアルバムに入れようと決めた。
これは当時からこの曲が好きな自分のファンへのプレゼントだとも言える。
アルバムのメイン曲、《黒色翅膀》のMVは、何潤東の監督処女作品で、MVの出来に、周囲は何潤東を称讃。
MVで描かれている家庭内暴力について、どうしてこのような構想が生まれたのか?という疑問に何潤東はこう応える。
「僕はずっと家庭の中では親の愛情がとても重要だと感じていて、両親は子供の一生を左右するほどの影響力がある。僕はとても幸運で、愛情に満たされた家庭で育ちました。でも、僕の周りには母(父)子家庭の子も多くいて、彼らの両親は無責任でした。それによって彼らの多くはかなり過激な個性がありました。僕がこのMVを通して望むのは、1つの悲劇のストーリーから、世の親達に警告をし、自分の子供に関心を持ち、すべての子供は健全に成長して欲しい。(という事です)」
《黒色翅膀》のMVの中で、何潤東は自分で“堕天使”のイメージをデザインした。
マフラー一本で上半身裸、黒い双翼。
この造型はこれを支持してくれた事務所の同僚達からの後押しもあり、会社はこの造型を使って表紙とすることを決定。
人々は今度のアルバムの表紙を見ると、どうしてこんなセクシー路線なのか?と思うが、これに対し何潤東が慌てて釈明するに…
実は普段着の彼はとても保守的。今回はアルバムの内容上必要だっただけで、セクシー路線は彼の本意ではないらしい。
《那年我們十七歳》(あの年僕らは17歳)は、当時の仲が良かった友達との事を歌った曲である。
この歌に言及した何潤東は、これは非常に感慨を覚えるという。
この時何潤東は、音楽で彼と友達の青春を記録するため、友達とのストーリーを、この歌の作詞者に話して聞かせた。
そうしてやっとこの一曲の友情の歌曲が誕生した。
この歌のMVには、その時の実際の友達が出演しており、彼は皆が50歳になった時に、この歌がいい思い出になって欲しいと思っている。
何潤東の紹介によると、この歌の歌詞の中の“小黒”は今は兵隊に、“小[月半]”は、一ヶ月前に結婚し、彼はまたわざわざ花婿の介添え人になった。
また、“阿民”はこの新しいアルバムのプロデューサーの畢国勇である。
自分の若い頃の事を話し出した何潤東の物語は終わらない。
多くの若い男の子と同じように、若いときの何潤東もちょっとした反抗的な少年だった。
10何歳かの時、彼は何人かの友達と一緒に、高いビルの屋上に登って、ビニール袋に水を入れた”水球”を、通りがかりの通行人に投げていた。
ある時それをうっかりチンピラにぶつけてしまい、危うく血戦(ヤキをいれられる?笑)になるところだったらしい。
バスケットボールは、何潤東の学生時代の最大の趣味で、カナダの学校では彼は唯一の中国人だった。
バスケットボールはどうしてもコートで衝突があり、特に華人はいつもコート上では地元人のいじめにあう。
ある試合の前、相手チームの一人が何潤東を挑発した。
いくつか悪口を言い、彼を黄色いサルとののしったのだが、何潤東はチームに気を配り、黙って怒りをこらえた。
しかし試合中、相手が何度も汚いファウルをしかけてきたため、堪えきれなくなった何潤東は、相手とけんかになり、数週間病院に入院する事になってしまった。
これは人種が原因であり、バスケットボールをする、その殴った外国人に比べれば、何潤東は比較的体つきも小さく、か細くみえる。
だから彼は試合は一生懸命やる。
ある時、試合中、首に相手の肘がぶつかり、救急で運ばれたが、結果は脊椎骨の第7節目の負傷だった(?)。
(“脊椎骨移位了七節”の詳しい意味は解りませんでした(汗)
今、思い起こすと、バスケットボールが最も多く何潤東に与えたのものは団体意識(チームプレーの大切さ)だ。
その年、カナダで学校のチームを選出する際のこと。何潤東は練習や試合中、威圧的(高飛車な?)な動作をし、一旦監督の厳しい懲罰を受けた。
監督は何潤東のプレーを拒否。これは何潤東の内心に個人プレーを(または大げさな演出を)したい欲求があり、大局を重視しなければならないのに、これでは必然的に協調性を欠いてしまう恐れがあったためだ。
まさにこのバスケットボールで過ごした歳月の経験と鍛錬は、何潤東に団体における協調性の重要性を理解させ、これは彼の後の仕事にも大きな助けとなった。
だから映画を撮影するとき、彼はいつもとても自然に早くチームにとけ込む事ができるのである。
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※以上意訳的解釈でした。まちがいもあるかもしれませんので詳しくは原文をご確認ださい。
またまた長い~ッ!(爆)
でも昔の事や今の事やいろんな事が解って嬉しいです♪
本当に興味深い話ばかりですね。
《那年我們十七歳》は実はこの間まで私のドライブソングで、古い曲の中では《没有我イ尓怎嘛[辛力辛]》と並んで最も好きな歌でした。
このMVは、ピーター君もお友達も、皆初々しくてとてもいいのですが、このうちの一人が今回のプロデューサーとは驚きです。
きっといいスタッフに囲まれて仕事をしているんだろーなー♪