英語・ダイエット・その他徒然なるままに

趣味の英語学習(TOEIC 970点)やダイエットの成功談など、色々書いていきます。

成功体験

2016年06月12日 23時03分27秒 | 英語
私は子供の頃から運動が苦手です。小4まではスリムな体型で、足は学年で一番速かったですし球技も得意でしたので、運動神経そのものが悪い(=鈍くさい)わけではないと思うですが、小5でデブになってから40歳で36kgの減量に成功するまで、運動音痴一筋の人生でした。今は痩せて普通の体型になったので昔のように酷くはありませんが、まあ得意な方ではないです。

ついでに言うともう1つ苦手なモノがあって、それは”絶叫マシーン”です。1度も乗ったことがありません。正確に言うと小学校低学年の頃に、動物園にあった小さいジェットコースターモドキに乗ったことがあるのですが、それがあまりに怖くてトラウマになってしまい、それ以来一度もそういう乗り物にのったことがないです。絶対に無理です。

私の知り合いに、フルマラソンの完走経験を持っている人が少なからずいます。体力自慢の屈強な男もいますが、女性もいます。運動音痴で体力にも全く自信のない私からすると、考えられないことです。42.195kmもの距離を完走できてしまう人なんて、私にいわせれば”宇宙人”です。心の底から尊敬します。私なんかがいくら努力しても絶対にできる事ではありませんから。

”英語なんて全然できなーい”と言っている人が、中高と6年間運動部でならしたなんて話をしているのを聞くと、「そんな苦しいことができるのにどうしてたかが英語ができないんだ」と、私なんかは思ってしまうんです。小6のときに1ヶ月だけ経験した”にわか野球部”の練習の苦しさに耐えられなかった私から見ると、中高6年間も運動部のしごきに耐えられる人なんて、神様同然です。私なら学校に行かなくなると思います。

自分にとってとても簡単な事が他人にとってはとても苦しいもの。あるいはその逆。得手不得手というのは本当に千差万別だなと思ってしまうのですが、これって結局何なのか?おそらく、表題に書いた

小さい時からの成功体験の積み重ねの差

だと思うのです。

まあ、当たり前ですけどね。運動が得意な人は活発な幼少時代を過ごしていて、そこからの経験の積み重ねで”これくらいのシゴキだったら俺なら耐えられる”と思うことができるんです。それで運動部に入って、実際にシゴキに耐えて、さらにレベルアップしていく。

勉強が得意な人は、幼少時代に本を沢山よんだとか図鑑の内容を片っ端から暗記したとか、そういう経験が豊富で、だから”この程度の暗記は俺ならこなせるはず”という自信が最初からある。それで、実際にテストでいい点を取り続けて、ますます自信を深めていく。

そういう事ですよね。で、運動は年齢や体力も関係してくるので後年になって一発逆転とはいきませんが、勉強ならそういう制約は無い筈です。だとすると、例えば英語が苦手な人が苦手意識を払拭するために、まずやるべき事は何でしょうか?

そうですね。小さくてもいいから、何か1つ成功体験を作ること、まずはそこでしょう。冒頭にマラソンの話をしましたが、42.195kmもの距離を走れてしまうのはどうしてでしょうか?それは、「42.195km先にゴールがある」ことが確実に分かっていて、「過去にそれなりの長い距離を走りきった成功体験がある」からです。ゴールがどこにあるかがちゃんと分かっていて、そこに到達するためにどれくらい頑張る必要があるのか、が経験的に推測できる状態にあるから、果敢にトライできるのです。これがもし、ゴールが何キロ先か全く知らされない状態で”とにかく走れ”なんて言われたら、たとえゴールが同じ42.195km先だったとしても、途中でリタイアする確率が跳ね上がるのではないでしょうか。

英語の勉強が進まないという人は、英単語帳1冊でも完全に覚えきった、読解の本を1冊でもやりきったという経験が、おそらく無いはずです。だから、「どれくらい頑張れば1冊頭の中に入れられるのか」が分からない。だから、途中で不安になって止めてしまうんですね。何キロ先にゴールがあるのか知らされないままマラソンさせられるのと同じです。

何か1つやりきる。そういう経験を1回でも積めば、1冊潰すのに必要な労力が経験的にわかるので、”無用な不安”がなくなります。どれくらいの労力をさけばどれくらいの事ができるのかが定量的に推測できるようになれば、「こんなに頑張ってるのに覚えられない」という漠然とした不安・不満から解放されて、「まだこれだけしか時間をかけてないのだから、まだ終わらないのは当たり前。結果を求めるのはもう少し先」というような冷静な計算ができるようになって、その結果、挫折する確率が減っていくのです。

おそらく私も、1度42.195kmを走ってみたり、絶叫マシンに乗ってみれば、見えなかった何かが見えるようになるのだと思います。まあ42.195kmはともかく、ジェットコースターなんて多分、1回乗ってみれば全然大したことないと言えるようになるのだと思います。乗りませんけどね。要は”最初の1回”をどうクリアするか、なのです。

単語ばっかりやっても駄目だという話もありますが、まずは1冊でも単語帳を完全に潰してみれば、目の前の霧が消えてなくなるかもしれません。1冊潰せば、2冊目はもっとラクになります。別に読解の本でも構いませんが。どうしても英語の勉強のラチが開かないという人は、何かやれそうなモノを、1つだけやりきってみては如何でしょう?

英会話力の訓練は机上の勉強より苦しいはずだが

2016年06月11日 21時56分32秒 | 英語
どうしても違和感がぬぐえないんですよねー。

英会話がある程度うまくなった人が、「私は勉強によって英語が上手くなったわけじゃない。私だって勉強は大嫌いだったし、学校の成績も悪かった。でも、英会話ができるようになりました。そのコツは、、、」みたいな言い方をされているのを見ると、申し訳ないですが、そう思ってしまうんです。

そういう”いわゆる実践的な”英語の身につけ方をした人の話を最後までよくよく聞いてみると、

結局、英語圏に長期滞在してる

ってオチが、非常に多いじゃないですか。

もちろん、私とて馬鹿じゃありませんから、単に英語圏に長期滞在しただけで英語が上手くなるなんてことはない、ってことは重々承知しています。上手になった人は、そういう環境をしっかり利用しつつ、ご自身も相当の努力をされているのです。

なので、別に自慢するのは全然構わないし(十分自慢に値する)、ご自身の努力の過程を色々話して下さるのも全然構わない。仰っている事の多くも突き詰めていけば真実でしょう。でも、駄目な人達を必要以上に慰める変な美辞麗句はいらないと思うんです。

多くの方が、日本の学生さん達がやらされている、いわゆる”机上のコツコツ型”勉強を批判されます。机上のお勉強では英語脳はできないとか、英語の勉強は本来もっと楽しいもののはずだ、とか。で、私は当たって砕けろの実践型に切り替えたら上手くなったとか、好きなドラマを見たら上手くなったとか、こんな便利なアプリがあるとか、、。まあそれ自体は個人的な感想に過ぎないので別にいいんですけど、私が危惧するのは、学校の勉強を悪者にするあまり、”学校の勉強すら怠けている”人達をつけ上がらせるような事になってないか?ってことです。さらに、日本国内に居る人は基本的に学校の勉強を足がかりにするしかないんですから、怠けてる奴はともかく、学校の勉強を一生懸命やっている子が混乱しなければいいけどな、とも思うんです。

自分自身が日頃意識してやっている練習メニューがどういうものであれ、海外に出た方というのは結局、「自分が意識した・しないに関わらず、英語圏に身を置くことによって脳が1日中超緊張状態の中で臨戦態勢におかれていた」からこそ上手くなったのではないでしょうか。確かに、そういう緊張状態は、机の上で眠気と戦いながら勉強させられる苦痛とはまた違った種類の修行です。でも、”物凄く厳しい鍛錬”であることに間違いはないはずで、決して、”明るく楽しく”だけで英語が上手くなったわけではないと思うんです。国内型の人達に誤解を与えないためにも、そこの部分をもっとフォーカスすべきではないかと思うのです。”楽しくやったから”できるようになったわけじゃない。”むしろ学校の勉強なんか生易しいと思えるほど厳しい状態に身をおいたから”できるようになったのだ、そういう言い方をしてほしい。

私も1週間程度のスパンで海外に行くことはたまにありますが、こんなにも英語好きの、多少なりとも自信のある人間でも、行っている間は本当に辛いですよ。何せ聞き取れませんから。勉強嫌いな人が嫌々勉強させられる時の辛さとはまた種類が違う辛さですが、物凄い緊張状態を強いられ、クタクタに疲れます。間違っても、机に向かわなくていいからラクとか楽しいなんて状況じゃないです。

”実戦的な訓練”とはそういうものです。確かに、机の上で分かったような分からんような、理屈中心・(難解な文章の)読解中心の勉強を続けるより遥かに効果は高いでしょう。ひょっとしたら、人によっては向き不向きが両者で大きく違って、方向性を変えれば事態が一気に好転するなんてこともあるかもしれません。でも、実戦訓練は机の上の勉強より楽しいとか、眠くならないからいいとか、本質はそこじゃないはずです。実戦の場で能力を磨くことは机の上の勉強なんかより遥かに厳しく、緊張を強いられ、脳に負担がかかる、だからこそ上手くなる、それが本質じゃないでしょうか。

英語の勉強を楽しくやって、それで本当に上手くなれるのなら、それに越したことはありません。”苦しみそのもの”が成果を生むわけでもないです。でも、何事も猛烈な量の練習をこなさないと上手くはならないというのが真実で、だから、対偶を取ると、上手くなった人はどこかで猛烈な練習をしているはず、となるのです。

なので、別の言い方をすれば、たかが学校の勉強ごときで根を上げている人が、実戦モドキの勉強に切り替えてみたり海外に出てみたりした所で、何ができるわけでもないと思います。海外に長期滞在しても、実戦型の勉強に切り替えても、英語が全然できるようにならない人は沢山います。

国内に留まっている側の人間は変な妄想を抱くべきではないですし、海外に出て上手くなれた人は、たとえ学生時代は成績優秀ではなかったにせよ、結局人間としてはそれだけの能力・根性・あるいはモチベーションが備わっていたという事なのです。やっぱり、強い人だからできるようになれたんです。だから、”学校の勉強をやめて楽しくやればできるようになる””誰でもできるようになる”なんて美辞麗句は、いらない。

理系教育

2016年06月10日 07時58分13秒 | コンピュータ
今日は少し志向を変えて理系分野の話をまったりと。

昨今、小学校でもプログラミング教育を必須化しようなんて議論があるようですが、個人的にはいい方向の話だと思います。

日本は米国に比べてソフトウェア分野が非常に弱い、なんてことを今さら声高に叫んでも滑稽なくらい、それは当たり前の話ですのでここでは触れません。今日は、理系人間の端くれとして、”プログラミングだけ”教えても駄目、というか、それだけでは日本人の間に真のソフトウェア文化は根付かないかもしれない、という話をします。特に明確な根拠もない、完全に個人的な見解ですが。

端的に言うと、これから日本を背負う若い人たちが、本当にソフトウェアがやりたいと思うようになって、かつ、大きな成果として花開かせるためには、プログラミング教育と同時に、以下のような事を充実させる必要があると感じています。特に上の3つ。

(1)起業しやすい環境の整備
(2)言語・ディベート教育
(3)数学教育
(4)地域格差の是正
(5)ハードウェア教育

(1)について。ソフトウェアのいい所は何と言っても、大した元手なしにモノが作れるという所です。コードを打ち込むPCさえあればいい訳ですから。つまり、アイデアを即、形にできるということ。でも、折角それで金儲けしようと思っても、今の日本じゃ怖くてできませんよね。一旦落ちぶれたら再起不能というのもありますが、ベンチャーキャピタルみたいな金を出してくれる組織・仕組みがまだまだ浸透してない。私はビジネスの専門化ではないので詳しいことは分かりませんが、現状の日本では、お金儲けを考えるときのモチベーションにはまだまだ成りにくいでしょう。お金儲けにつながる希望が無いモノを、普通は真剣にはやりません。

(2)。私はこれが非常に重要、というか、欧米との差が一番大きいのがこれではないかと思っています。欧米の方と話をすることがたまにありますが、特にアメリカ人、まあよく喋ること。驚くくらい”語る”んですよね。日本人に大きく欠けている能力だと思います。

これはIT系の人だけではないです。例えば向こうのアーティストのインタビューなんか聞いてても、物凄く語りますよね。必ずしも学があるとは思えない(失礼)ミュージシャンみたいな人でも、自分の子育て論とか、喋る喋る。なんなんでしょう、あの自己主張力。

彼らがああである本当の理由はよく分かりませんが、ソフトウェアってとどの詰まり、自分のアイデアの丈を思う存分”書き綴った”ものなんですよ。いわゆる良いソフトのソースコードを読んでいると、作った人のそういう思いの丈がヒシヒシと伝わってくるんです。迫力があります。筋道立ててしっかり自己主張できない人間には、良いソフトウェアは書けないと思います。日本の小中学校、そういう教育、してませんよね。まあ、日本人気質の奥ゆかしい良い部分を破壊することになってしまうかも知れないですけど。

(3)。単にプログラム言語に詳しいだけでは、まともなソフトは書けません。無限ループに落ちないか、いかなる場合もちゃんと終了するか、などなど、プログラムの動作をきちんと検証する論理的思考力が最低限必要です。しかし、もっと重要なのが、本当に斬新なアプリケーション、工業的価値の高いアプリを書こうと思うと、数学的な素養が要求されるケースが非常に多いということです。画像処理とか信号処理とか、ネットワークを扱うソフトとか、はたまた昨今はやりの機械学習とか、数学の塊ですよね。

数学教育というと、受験数学みたいな”パズルを解く営み”を想像する方が多いと思いますが、学術やエンジニアリングの場面で必要になる数学はそういう物ではなくて、自然現象を”記述”する、言語としての数学を操る能力です。だから、別に天才的なひらめきとか、そんなものはいらない。ソフトで扱いたい現実世界をモデル化して、式で書ける。そういう基本的な素養があればいいんです。というか、数学の本来の営みはそういうものであって、パズルを解くことではありません。サイン・コサインなんて受験が終わったら絶対使わない、なんてのは完全に都市伝説です。数学が学者やエンジニアだけのものであるという文化レベルのままでは、ソフトウェア文化が広く浸透していくことはないでしょう。

(4)、(5)はオマケですが、相互に関係が深い話です。ソフトと言っても結局はコンピュータの上で動くものですから、当然ながらハードの知識も持っている人間の方が活躍の場が広くなります。しかし、電気電子系の教育、ましてやコンピュータ”システム”の教育なんてほとんど成されていませんよね。まあ、万人向けの教育プログラムの中にいきなりこのような話を組み込む必要は無いかもしれませんが、ソフトをやり出すと当然の成り行きとして、ハードにも興味が向くことになるわけです。子供は基本的に好奇心旺盛なので、ソフトを教えているだけでは済まなくなるのは必然の成り行きです。絶対、ハードもやりたいと言い出すはず、というか、目の前のソフトがどうやって動いているのか、その仕組みを知りたいと思うのは人情です。で、子供がそういう興味を抱いた時にきちんと教えられる人間、教材を調達できる環境があるかと考えると、(4)の問題が出てくるのです。

電子工作をやってみたいと思ったときに、ちょこっと秋葉原に寄って数十円のICチップを山盛り買ってこれる子と、そんな電気街なんか無い田舎とでは、差が出てくるのは当然です。もちろん今ではネットで大抵のモノは買えますが、それでも手間の差は出てくるでしょう。私も大学で都会に出てきた時にカルチャーショックを受けたのですが、コンピュータの分野って、昔(パソコン通信の時代)ほどでは無いにしろ、子供の頃からどれだけ馴染んでいるかという点で都会と田舎の差が非常に大きいんです。もちろん、この差をなくすために学校レベルの教育に取り入れていくのでしょうけど、埋められない差があるのは真実です。改善が望まれます。

取りとめのない話をウダウダと書いてしまいましたが、私が本当に言いたいことは何かというと、コンピュータとかソフトウェアを”専門”にできる人を増やしたり、そういう人の能力を強化したりするだけじゃなくて、実は、コンピュータやソフトウェアを職業にしない人達にとっても、ソフトウェアができるか、できないか、が文化レベル、もっと言えばその人の世の中でのサバイバル能力を大きく決定づける要因になる時代が来るかもしれない、そしてそれは、日本人同士ではなく、世界中の人達との競争になる、だからちゃんと教育しないとマズイよ、ということなんです。

人工知能とかディープラーニングとか、はたまた自動運転なんて言葉が最近メディアを賑わしているのはご存知だと思いますが、我々の身の回りの中にますますこういった高度なソフトウェアが、物凄い勢いで入り込んでいるのです。もちろん、私たちの身の回りにコンピュータがあふれ返っているというのは今に始まった事ではありません。マイコンなんて炊飯器にも入っていますし、車はとうの昔からコンピュータの塊です。でもそれが、IoTやAIの形態を取るようになると、数の面でも、処理の高度さの面でも、今までとは比べものにならない度合いで我々の身の周りに進出してくることになります。そういう時代において、「コンピュータは自分にとっては完全にブラックボックス」としか言えない人と、たとえ少しでもソフトがいじれる人。。。あるいは、単にソフトが書けるだけの人と、数学的なアルゴリズムの設計まできちんとできる人。。。あるいは、ハードウェアまで理解してソフトが書ける人。。。こういう差が何を意味することになるのか。

今の日本に読み書きができない人はほとんどいませんが、ある程度でもコンピュータのソフトが分かるか、あるいは全然分からないか、という事が、少し昔の時代の”文字が読めるか読めないか”の差に匹敵するような、そんな時代が来ないとも限らないと、私は思うのです。ひょっとすると、英語ができるかできないかよりもクリティカルな問題になるかも知れませんね。高度なソフトウェアを積んだコンピュータが世の中を支配する時代になるということは、ソフトをいじれる人以外は仕事が無くなる、ということですから。

教科書に日本語訳を

2016年06月08日 23時15分54秒 | 英語
先に参照した「超上級リーディング7つのコアスキル」という本を終え、さらに、今週から

「TOEICテスト究極のゼミPART5語彙・語法【超上級編】」(ヒロ前田/ロス・タロック、アルク)

をやり始め、これも7割方終えてしまいました。解説がとても丁寧でやりがいがあります。主に通勤電車の中で勉強していて、NHK World TVを聞きながら問題を解くという、トリッキーな事にも挑戦しています。特に意味はないですが、日本語ならテレビの音を聞きながら本を読むこともできるはずなので、英語でもできなきゃいかんだろうと。

で、問題ばかり解いててもいけないので、帰宅してから少しの時間だけ

「通訳ガイドがナビする東京歩き」(松岡明子、ジョン・タラント、BILINGUAL EDITION)

という対訳本を読んだりしていますが、やっぱりちゃんとした日本語訳を読みながら対応する英語を頭に叩き込んでいく作業は物凄く勉強になります。「心臓がドキドキしてきます(make my heart skip a beat)」とかね。こんなの、一回”へぇ~”と思ったら、もう二度と忘れることはないじゃないですか。

で、こういう事をやりながらふと思ったのですが、最近話題にした学校の教科書、どうして日本語訳を付けてくれないのでしょうか?今の時代の教科書に付いてます?ないでしょ、そんなの。

付けた方がいいと思うんですけどね。確かに日本語に一切頼れない厳しい状況で英語に取り組ませる、そういうやり方のメリットもあるでしょう。しかし、力の無い高校生くらいだと、日本語訳を付けてあげた方が勉強の負担が軽くなる、そういうメリットの方が大きい、と私は思います。

負担が軽くなると言いましたが、それだけじゃなくて、日本語の意味のイメージ(日本語の文章そのものではない)をトリガーにしながら対応する英語を記憶していくという方法だと物凄く英語が記憶に残り易いですし、使える知識にもなります。”こういう事が言いたい”というイメージと記憶した英語が直結しているわけですから。

英語だけのテキストを読み進めていく方法だとどうしても、わからない単語や表現などを辞書で調べてその部分だけの日本語訳を記憶する作業になりがちです。これだと、それぞれの個別部分について、日本語訳の大きな意味の流れの中における位置づけが感じ取れないんですね。うーん、言いたいことがなかなか上手く書けないのですが、それぞれの単語や表現の”出番”がどういう時に訪れるのか、それが感覚として掴めないのです。だから、自分で英語を話そうとした時に、過去に出会っているはずの英語が出てこない、となるわけです。

要するに、それぞれの個別表現にふさわしい”登場シーン”のイメージをしっかり掴みながら英語を覚えていけるわけなんです。だから、自分で英語をアウトプットする時も、”はい、あなたの出番”となって、記憶した英語が出てきやすくなるわけです。

もちろん、日本語を介することのデメリットもあるでしょう。でも、私はメリットの方が大きいと思いますね。”英語に圧倒されるだけで結局何も身に付かない”というより全然マシだと思うのです。

あ、日本語訳を付けちゃうと先生が授業中に威張れなくなるというのもあるのかな?”意味を取る”という作業が授業で必要なくなってしまうと、英語に関するより本質的な内容をレクチャーしないといけなくなりますからね。そりゃ辛いですわな。ま、今どきの授業形態を知らないので何とも言えませんが。



読解本の紹介(追加)

2016年06月06日 00時03分54秒 | 英語
今までにも2回くらい、英文読解に関する参考書を紹介してきましたが、いい物があるので追加で紹介しておきます。

まあ、最近の参考書、特に大学受験用のものは昔のものと違って分かり易いものが多いので(古いのは駄目)、選択肢はたくさんあるし、自分が”分かり易い”と思うものを選べばいいんですけどね。そういう中でも特に私好みのモノを紹介しときます。なお、どちらも大学受験用のものですが、TOEICをめざす人にとっても役に立つと思います(TOEIC用の読解本って、ちゃちなモノばかりですね。なんとかならんのか。俺が書こうか)。

(1)大矢 英語読み方講義の実況中継(大矢復、語学春秋社)

高校生にはおなじみの実況中継シリーズです。語学春秋社の実況中継シリーズというのは、ちょうど私が高校生の時に世の中に出始めました。なので、かれこれ30年くらい歴史があることになりますね。私が一番最初に見たと記憶しているのは、秋山仁さんの数学講義の実況中継(1986年、当時高2)です。

それはともかく、この本はまあ初心者向き、TOEICで言えば500点を取れないレベルの人、受験生なら高1~高2生くらいがターゲットになるかと思いますが、英文を読む時の頭の働かせ方を、非常に基本的な構文レベルで丁寧に解説している本です。非常に基本的ではあるのですが、単なる型の羅列ではなく、英文を正しく追うために必要な頭の使い方についてきちんと踏み込んで、しかも分かり易く解説してあるいい本です(0からではないですけどね)。逆に言えば、この本を読んでもまだ英語が理解できないという人は、もう中学レベルからやり直すしか無いかと。。。

なので、この本を見て”簡単すぎる”と言い切ることができない人は、まだまだ基本がガタガタだということになると思います。そんないい加減な状態でいくら”実戦練習モドキ”をやっても無駄でしょう。読解に苦手意識がある人が改めて基本を見直す、そういう営みに役立つ本だと思います。非常に基本的ではあるのですが、英文を正しく読む上で本質的な内容が書かれているので、”本当の基本”がちゃんと身に付いているかどうかを試す試金石になる本だと思います。

このレベルの内容をきちんと身につけることなく、やれ受験だ、TOEICだとほざいても、「英語舐めてんじゃねぇよ」ということになるかと。世の中の多くの人って、こういう基本中の基本を疎かにしている自分の態度を棚に上げて、”日本は読解中心の英語教育だから駄目なんだ”なんて寝言をほざいているんですよね。お前らはこのレベルの勉強を完璧にやった上でモノを言ってるのか?と私なんかは言いたいのですが、説教臭くなるのでやめます。

(2)体系英語長文(小貝勝俊、教学社)

大学入試問題の長文を題材にした本です。レベル的には、そろそろ大学受験用の勉強を開始しようかという、高2~高3の始めくらいの学生向き、TOEICで言えば730点以上の人向け、くらいでしょうか。TOEIC向けの教材ではありませんが。

大学入試の長文問題を題材にした参考書というのは往々にして使いにくいものが多い中、この本はとても勉強しやすいという印象をうけます。理由は以下です。

○抽象度が高すぎて何を言っているのか分からない”悪文”を扱っていない。日本語訳も分かり易い

○レイアウトが良く使い易い。英文と日本語訳をひと目で見比べられるよう、同じ場所に並べてくれている。

○語彙や文法の解説が沢山載っている(字が小さいので老眼の人には厳しいがwww)。

◎英文の全ての部分について、構造が分かるように記号を付与してくれている。

全体的に、読者が勉強し易くなるような配慮が行き届いた作りになっているという印象です。私が特に気に入ったのは最後の項目で、英文の構造把握をサポートするために、例えば挿入部分に()を付けてくれていたり、that節の始まりから終わりまでを<>で囲ってくれたり、関係詞節を[]で囲ってくれたり、そういう事を英文の全ての部分についてやってくれていることです。英文を追いかける時には構造に気をつけながら読むということが何より大切なのですが、それが非常にやり易くなっており、力の無い人にとっては非常に有難いものだと思います。子供が自転車に載る練習をする時に補助輪を付けてもらっているような感じです。

ただ、情報量の多さとコンパクトさを同時に達成するために、字が小さく、1ページの中の密度も濃いため、書き込みはしにくいかもしれません。しかし、若い人には字の小ささは関係ないでしょうし、解説も丁寧なのであまり沢山書き込みをする必要もないかと。

以上、2冊の、私がいいと思う本を新たに紹介しました。英文を読む力をつける営みというのは、(1)のような本を使って基本構文の処理の仕方を学び、その技術を使って(2)の本が示してくれているような”構造分析”が自分自身でできるようになることを目指す、そういう営みなんです。どういう事ができるようになる必要があるのか、基本レベルと実戦レベルでそれを分かり易く示してくれている本が、この2冊です。