
【勝ち易きに勝つ】5836
守屋洋(ひろし)氏の心に響く言葉より…
《善ク戦ウ者ハ、勝チ易(ヤス)キニ勝ツ者ナリ。
故(ユエ)ニ善(ヨ)ク戦ウ者ノ勝ツヤ、智名(チメイ)ナク、勇功ナシ》
戦上手は、無理なく自然に勝つ。だから、勝っても、その智謀は人目につかず、その勇敢さは人から称賛されることがない。
日本人の頑張り方は、どうしても歯を食いしばってねじり鉢巻きといったイメージになり、まわりから見ていると、あいつ頑張っているな、とすぐにわかってしまう。 これに対し、君子はあくまでも自然流である。頑張っているにしても、外に出さない。
ちょっと見ただけでは、頑張っているのかいないのかわからないような頑張り方をする。
そして、喜怒哀楽の感情をあまり表に出さない。 自分の本心をさらけ出すことにきわめて慎重であるし、かりに才能に恵まれていたとしても、それを表に出すことを嫌う。また、人知れぬ辛酸をなめたとしても、苦労のあとを表情にとどめることを好まない。あくまでも自然流をよしとする。
昔、老子が若い孔子に会ったとき、 「君子ハ盛徳(セイトク)アリテ、容貌(ヨウボウ)愚カナルガ若シ」 と、戒めたという。鼻の先に才能をぶらさげて歩くような生き方はするな、というのである。
中国のこういう処世法は、多分、長い乱世を生き抜いてきた人生体験から生まれたものにちがいない。
「孫子」がここで述べている自然流の勝ち方も、以上のような処世法と一脈通じる考え方のうえに立っている。彼は、こう語っている。
「誰にでもそれとわかるような勝ち方は、最善の勝利ではない。また、世間にもてはやされるような勝ち方も、最善の勝利とはいいがたい。たとえば、毛を一本持ちあげたからといって、誰も力持ちとはいわない。そういうことは、ふつうの人なら、無理なく自然にできるからである」
こういう無理のない勝ち方が理想だといっているのである。 逆にいえば、『孫子』の主張しているのは、明らかに勇戦敢闘(カントウ)思想の否定にほかならない。
『孫子の兵法がわかる本』三笠書房
https://q.bmd.jp/91/119/3481/393
「勝ち易きに勝つ」
勝ちやすい状況にしてから、戦う。それは、スポーツでいうなら、自分の実力を高めてから、試合に臨むということ。まわりから、「それだけ練習すれば、そりゃ、勝つよね」と言われるくらい努力をすること。実力が伴っていない人ほど、口先ばかりで、大きなことを言う。
印象に残るような、派手で人目を引くような言動。
また、真に実力のある人は、目立たない。たとえば、それは、組織運営で分かる。
組織を動かして、その人の任期が終わってみたら、特に、何の問題も起きなかった、というような場合だ。それは、大は国家から、小は家庭まで、組織全般に言えること。
多くの人は、真に実力のある人を見抜けない。どうしても、派手な言動の目立つ人に目が行ってしまうからだ。
「勝ち易きに勝つ」という言葉を胸に刻みたい。