両社とも、せれぞれミニコンピューター、ワークステーションのトップメーカーとして永く世界市場に君臨していた。誰もがその存続を疑わなかった。大学時代、専門課程のコンピュータ実習はDECのPDP-11だった。Microsoftのビルゲーツ君がハイスクール時代にはPDP-9でアルバイトをしたと言う。かのアスキー本社では同じく、DECのVAX-11 780が社内業務に使用されていた。蛇足ながら、アスキーがUNIXマガジンを創刊したとき、価格を決める段になって、780円になったのは、このVAXの780が決め手になったという。そうした由緒あるDECのフラッグシップDEC-10も、1990年には、お払い箱となり、カーネギーメロン大学の倉庫に打ち捨てられていた。DECもヤバイなーと感じた次第。案の定、それから7年後の1997年にはコンパックに吸収合併された。更に2002年には、そのコンパックが事もあろうに、ミニコン界の万年二位のHP(ヒューレットパッカード)に吸収されてしまった。子亀が親亀を飲み込んだ形だ。
PDPシリーズのユーザーは多く、AT&TのBell研究所ではケン・トンプソン、デニス・リッチーらによりB言語、C言語並びに、UNIXなどが開発された。そうした観点からすると、DECは現在のコンピュータの原型を育んだ有力な企業であった事が分かる。DEC創業者である、ケン・オルセンは1万ドルコンピュータの実現を目指し、それを達成した。1ドル=360円の固定相場制の時代の到来。IBMの汎用大型機の月額リース代金が2千万円~5千万円の時代に、買い取りで1台500万円を切る値段でコンピュータが購入できるようになった。因みに、PDP-11のお値段は本体が3000万円であったと記憶する。計算機実習はとても魅惑的で、中西助教授が移植されたLisp(ver1.5)を使ってのプログラミングはスリリングであった。8-queen問題は短めなプログラムにかかわらず綺麗に解を見つけてくれたときは、思わず感動した。
DECは最盛期に社員数15万人(全世界)日本法人である日本DEC(本社池袋サンシャイン60内)は従業員数約2000名であった。全世界2000近くのDEC支社は、所謂DEC-netで相互に結ばれていた。顧客へのシステム構成の提案・見積もりはこの分散処理のDEC-netによって迅速に行われた。サーバー・クライアントモデルの原型とも言えるこのDEC-netにより、DECは巨人IBMを急追した。しかし、インテルのマイクロプロセッサー(CPU)の誕生とそれを使用したPCの普及とそのハイエンドモデルの出現が、DECを足下から崩壊させた。AI(人工知能)分野でも大いに時代をリードした。例えば、近鉄のダイヤ管理システムでは、事故などの影響からダイヤを復旧させる作業にDECの協力を得た。AIを駆使し、30分から2時間以内にダイヤを見事復旧してみせた。また法律部門でも過去の判例を記憶し、事案を入力すると対応する判例、法的根拠を提示するシステムが実用化された。こうしたシステムを開発する分野をナレッジ・エンジニアリングと称し。その分野の人材の育成に少なからず貢献した。
地元、中京大学の図書館管理システムは、DEC+munpus(丸善)により、100万冊近い蔵書を効率よく管理していた。
今回はDECのみとし、サンマイクロシステムズに関しては次回といたします。