05/07 私の音楽仲間 (166) ~ 私の室内楽仲間たち (146)
弦楽五重奏曲 ト短調 K516
この集いは、すでに何度かお読みいただいているグループです。
これまでの 『私の室内楽仲間たち』
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Dvořák、Beethoven と続いた、五重奏曲のプログラム。
最後に控えた曲目は、名曲、Mozart の "ト短調" です。
全曲は、以下の各楽章から成ります。
Ⅰ ト短調 4/4拍子 Allegro
Ⅱ ト短調 3/4拍子 MENUETTO. Allegretto
Ⅲ 変ホ長調 4/4拍子 Adagio, ma non troppo
Ⅳ ト短調 3/4拍子 Adagio ~ ト長調 6/8拍子 Allegro
メンバーは再び入れ替わり、Violin が私、C.S.さん、Viola が
S.さん、Sa.さん、チェロはSa.さんです。
もちろん、Sa.さんはお二人おられ、別人なのは、毎回お断り
しているとおりです。 お世話係のSa.さんがいくら器用でも、
一度に二役は無理ですよね? 手の込んだ録音でもするなら
別ですが…。
小林秀雄氏が、この曲を「疾走する悲しみ」と表現したのは、
あまりにも有名です。
「悲しみが疾走する」…。 疾走するのが "喜び" なら、まだ
解ります。 特に、終楽章は "ト長調" の "快適な" テンポです
が、"短調の気分" をどこかで引きずっているような気もします。
短調の部分は、ほとんど聞かれないのですが。
実はここで、本来はもう一つ触れなければならないことが
あります。 それは、「長調は喜び」、「短調は悲しみ」…と
いう図式は、ここでも正しいのか? …という問題です。
しかし、今回は残念ながら、これについては論じないこと
にしましょうね。 問題が、西洋音楽史だけに留まらない
かもしれないので…。
話は変わりますが、私がこの曲に演奏者として最初に触れた
のは、今から25~30年前のことになります。 パートは、やはり
ViolinⅠでした。
さらに余談になるのをお許しいただければ、楽器の構え方は、
今とはまるで違います。 ネックの先端が、「左上へ、高く上がり
さえすればいい!」 そんな考えでした。
ここで、Violin などの "肩当て" の話になりますが、当時の
私は、既成の商品では高さ、厚さがまるで足りず、分厚い布
などを用いていました。 それも、楽器の裏側、つまり下の
部分に取り付けるのは無理なので、肩の上、つまり「スーツ
の中」にたくし込んで、本番に臨んでいたのです。
口の悪い同僚が、それを揶揄して、「あっ! "アメリカン
フットボール" が来たぞ!」
もちろん私には、それなりの "ポリシー" がありました。 主
たる関心事は "音質の透明性" だったのですが、しかしその
反面、失うものが、あまりにも多かったのです…。
…それに気付いたのは、さらに後年になってからのことでした。
それから長い年月が過ぎ、私の弾き方、楽器の構え方も大きく
変化しました。 私が今 Violin を弾く場合、"肩当て" を使うことは
使います。 しかしその厚さは、ほんの "布切れ1枚分" に過ぎま
せん。
「高さを作る」と言うより、むしろ「"肩の骨の凸凹" を埋め、楽器
の "ぐらつき" を避けるためだけ」…と表現する方が正確でしょう。
いや、それ以上に当時と異なるのは、楽器の、"上板側" の話
です。 そう、"顎当て" を使わなくなってしまったのです。
これについては、この場で詳述するのは避けることにします。
それは不可能ですし、また誤解を生む危険が極めて大きい
からです。
ただ一言だけ。 「肩当て、顎当て」同士には深い関係があり、
さらにこれと楽器の構え方、すなわち、「楽器の先端が、上下
左右、どちらを向くか?」という問題の間には、密接、不可分
の関係があるということです。
右手、左手とも、"技術" という言葉で一般に処理されている
領域にも、当然関係してきます。
話が反れてしまいました、申しわけありません。 ここらで
元に戻りましょうね、「疾走する Mozart」 に。
「疾走する "悲しみ"」ではなくて。
なぜなら、当時の私の楽器の構え方こそが、"疾走" を誘発して
いたからなのです。 日常的に。 つまり、「走りやすく」、弾いて
いてテンポが不正確な、悪いクセを。 少なくともそうなる一因が、
この楽器の構え方でした。
…と問題を持ち出しつつ、またもや深入りは避けることにします。
Violin、Viola の演奏に携わっておられない方々には、何のことか、
とても解りにくいですね? いや、あるいは、これらを演奏する方々
にとっても…。
問題は、それほど "根深い" からです。
またもや問題の視点を変えてしまいますよ? 大変恐縮です。
演奏者自身が暴走してしまうと、「疾走する悲しみは、聴き手
には伝わらない」ということを、今更ながら私は感じるのです。
第Ⅰ楽章、第Ⅳ楽章には "Allegro" とありますが、これは
決して "急速に" 弾くべきではありません。
たとえ、「自分はそう解釈するから、速く弾くのだ!」という
確信が、貴方にあるにしても。
なぜなら、"解釈" とは往々にして、"自己正当化" に等しい
からです。 "自分のクセ" に気付かない故の。
それは、私、自分自身が、いい例だからです。
自分自身が不心得であるのはもちろんですが、「用いる
道具自体も大きな影響を及ぼす」という。
Mozart さん、ごめんなさい。 悲しみは疾走せず、停滞する
のみです。
今日の私の心の中では。 悲しいことが、二つも三つもある
からかもしれません。 音楽以外に。 私自身にはどうしようも
ないことが。 ここ数日。 考えれば考えるほど…。 何年間も
解決できない、思い返せばさらに辛い…。
貴方のこの曲を思い返し、頭の中で鳴らせば鳴らすほど。
"増幅、鬱積する悲しみ"?
今度また、貴方のこの曲について触れる際には、もっと
高尚な観点から記せるように努めます。
[音源ページ]
[バルヒェット四重奏団]
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