MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

母を送る

2013-03-01 00:00:00 | 生活・法律

03/01           母を送る




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 先日、母が他界しました。 93歳でした。

 20年の独居生活の末、最期は特別養護ホームに
お世話になっていました。



 死因は老衰。 年齢を考えれば、「天寿を全うした」
…と言えるでしょう。



 しかし、「健康に問題が無かった」…わけではありません。

 高血圧から脳梗塞を引き起こし、利き腕の右手が駄目に
なっていた。 また家の内外で頻繁に転倒するなど、独居
が難しくなりました。 このとき、87歳。



 加うるに、緑内障で右目はほとんど見えなくなって
いました。 一年ほどケアマネジャーさんのお世話
になりましたが、身体の不自由さは増すばかり…。

 その後、何度か入院、転院を繰り返しましたが、
年齢からして、状況の好転は望めません。



 もはや独居は不可能で、私が引き取るのも困難な状態…。

 ついに施設へ入所してもらうのが最善と決意。 申請から
一ヶ月という短期間で、ホームへの入所が決まりました。

 「緊急度が高い」…と判断していただけたのでしょう。




 園にお世話になった期間は、四年八ヶ月。 最初のうち
は、本人も意欲的にリハビリに励み、独力の歩行回復を
夢見ていました。

 でも、ここでも転倒を繰り返し、移動はすべて車椅子に
限られてしまいます。



 緑内障の持病は好転せず、皮膚の疱瘡なども引き起こし
たので、当初は近くの病院へ通院しました。 しかし、通院
自体が体力の消耗に繋がったので、結局断念せざるを得ま
せんでした。

 脳梗塞で言語も不自由になり、職員さんでさえ、聞き取り
不能になっていきます。 意思が通じないのを悟ったのか、
やがて本人は、まったく言葉を発しなくなりました。




 最後は、あれほど旺盛だった食欲も減退していく…。

 正確には、嚥下機能が無くなり、「食事が苦しい」…
という表情を見せるようになったのです。



 「そんな日を迎えたら、どうするか?」

 おなかに管を繋ぎ、点滴や人工呼吸器で、延命を試みるか?

 それとも、“自然” に任せるか? 私は数年前、園の医師に
呼ばれ、選択を迫られていました。



 私が選んだのは、母の身体が、少しでも “楽な” ほうです。
すなわち延命措置をせず、自力で食物摂取が無理になった
ら、「自然に任せる」…という道でした。

 これには、今でも悔いはありません。




 この二月に入ると、嚥下機能が急激に低下しました。 食物
を完全にペースト状にしても、気管に入りそうになるのです。



 園から私への “第一の電話連絡” は、2月11日でした。

 「数日中に、摂取は水分だけになってしまいます…。」



 第二の連絡が13日夜。 そして、「今晩からは水分だけです」
…という第三の連絡が、16日でした。



 実はこれらのうち、私が直接耳にしたのは、最初の連絡だけ。
私自身が、13日夕方に倒れてしまったからです。

 以後は、すべて家族が受話器を取り、確認の返事をした上で、
入院中の私に報告してくれました。




 人間が “水だけ” で生きられる期間は、通常1週間~10日
です。 母も、9日目の2月24日に息を引き取りました。



 そんな母の状態を知りながらも、入院中の私は歩行禁止。
園と直接、電話連絡をすることが許されません。

 その結果、“母と私” という、親子二人分の負担が、すべて
私の家族にかかってしまいました。



 彼女も働く身。 仕事を終えては私の見舞いに訪れ、夜
帰宅しては “園と電話連絡”…という、超ハードな毎日を
送ってくれたのです。

 幸いにも私の弟が、彼女と連携して対処してくれました。

 「心配要らないから、ゆっくり療養を。 あとは任せろよ。」



 結局私は、自分の療養に専念しました。 母の最期の瞬間
に居合わせることは出来なかったものの、「呼吸が止まった」
…という連絡は、自宅で受けられたのです。

 退院後、6日目のことでした。




 母の最期と、私の入院期間が重なってしまった…。 結果的
には無事に母を送り出すことが出来たものの、もしかすると、
それは不可能だったかもしれない…。

 いや、今回の病状の深刻さを考えると、私が先に逝ってしまい、
母がそれを追う…という事態だって、充分考えられたのです。



 第一の電話連絡の日。 私は自宅に居ましたが、体調が
急激に低下し始めました。

 第二の連絡があった夜。 私は夕方に救急車で運ばれ、
不在でした。 吐血のため、全血液の半分ほどを失って…。




 「きっとお母様は、貴方の退院を待っておられたんですよ。
貴方の手で無事に送り出せて、よかったですね。」

 今回の経緯を私から聞かされた、友人の一人は、このよう
に言ってくれました。

 そのとおりだと思います。



 いや、もしかすると、それだけではない。

 「母は自分の命の、最後の何日か分を、私にくれたので
はないか? その結果、私は自分の命をとりとめることが
出来たのかもしれない…。」

 こんな勝手なセリフを私から聞かされて、園の職員の
お一人は、涙ぐみながら頷いてくださいました。 最後
まで親身になって、母の介護に尽くしてくれたかたです。



 科学的な因果関係など、私には解らない。 しかし
私は今でもそう信じています。

 母から二度、命を与えられた。 …とすれば今後は、
より慎重に生きて行かざるを得ません。




 退院翌日、私はさっそく園を訪れることが出来ました。 私
はベッドの母の耳元で声を出します。

 「ごめんね? 入院沙汰になっちゃってさ。 今までそんな
ことは無かったんだけどね、胃潰瘍になっちゃって…。 でも
もう大丈夫だから、心配しないでね?」

 母は、下顎をワナワナと動かしました。 これ、唯一の意思
表示手段…。 聴力は最後まで健全だったようです。



 「貴女は頑張りすぎる性格だからな。 よく
頑張ってるね。 でも、身体は楽にしてよ?」

 …ワナワナ…。



 私が訪れた数日前に、すでに弟や甥が足を運んでいました。

 みんな、きっと温かい言葉をかけてくれたことでしょう。




 亡くなる二日前には、両眼から涙を流していたとか。

 前日には入浴して、スッキリした表情。 部屋に戻ると、
しきりに口を動かしながら、天井を見つめていたそうです。



 息を引き取った当日、私が到着したのは、ちょうど一時間半後
です。 身体にはまだ温もりがありました。

 それはあたかも、最後の愛情を私に伝えているかのようでした。



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