MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

第三の家庭

2013-03-02 00:00:00 | 生活・法律

03/02          第三の家庭




           これまでの『生活・法律



                    関連記事
               ヴァレンタインの贈り物
                 半世紀後の実体験
                半世紀後の時限爆弾
                   本当に退院?
                    母を送る
                   第三の家庭
                   相思相愛の友
                  甘えるのは下手
                   甘かった私




 「自分の取り柄 (とりえ) は健康。 子供たちには、絶対に
心配や苦労をかけないからね。」

 20年余に亘る独居生活を始めた頃の、母の口癖でした。



 しかし人間、寄る年波には勝てません。 70歳、80歳…。



 ふとしたきっかけで、脳梗塞に陥ってしまいました。
高血圧の薬を止めたからです。

 最寄りの行きつけの医者が、遠くに引っ越した。
代わりの医院は、ちょっと遠い。 「えい、自分は
“健康” なんだから、大丈夫だ!」



 多少は過信があったのかもしれません。 ちょっとや
そっとの高血圧ではなかったのに…。




 だんだん不自由になっていく自分の有様を、“子供たち”
には見せられなかったのでしょうか。 その筆頭は、長男
たる私です。

 すると今度は、孫に頼り始めました。 私の妹の息子に
当る孫で、彼は実によく尽くしてくれたのです。



 彼の献身をいいことに、また口止めすることも忘れません
でした。 「私の息子たちには、決して言うんじゃないよ?」

 これ、自分の “体調の悪化” という事態のことだけに
限りません。 私に知れたら、おそらく説教されるとでも
思ったのでしょうか。 そんな問題も含まれていました。



 「なんだよ。 後始末のほうが、ずっと大変なのにな…。」

 後から知った、私のボヤキです。




 本人は大正生まれ。 “あと二日で一歳の誕生日”
という日に、母を亡くしています。 34歳で没した母の
顔を、写真でしか知りません。

 4歳になる直前に、関東大震災を体験していること
になります。



       



 昭和五年、小学校五、六年生の頃。





 家族は、父と二人の兄。 男所帯で育ちました。 強い、
男勝りの面もあったのは、そんな境遇からかもしれません。



     



 後列が二人の兄。 前列左から、本人、父、次兄の妻。





 22歳のとき、父親が自宅の風呂で倒れ、亡くなります。
兄たちとの絆は、ますます強くなっていきました。







 24歳、黒いベレー帽がお洒落。 昭和18年、箱根にて。
男性の服装に “戦時中” を感じます。




 「施設に入るのは嫌だ。」

 老いを重ね、身体が不自由になっても、ほとんどのかたが
そう思うでしょう。 私の母もそうでした。 しかし転倒を繰り
返すたびに、私の車で運ばれ、入院、転院を余儀なくされて
いたのです。



 さすがの母も、「健康問題で自分が苦労をかけている」…と
思ったのでしょうか。 「受け入れてくれる場所が決まったから
ね…」と私が報告した際も、「嫌だ」…とは言いませんでした。

 説得する必要が無かったほどです。




 それは、特別養護老人ホーム上井草園という施設でした。
若い職員さんが多く、どなたも温かいかたばかりです。

 「ここなら間違い無い。 やっぱり良かった…。」と、入所後、
安心したのを覚えています。



 東京都杉並区のこの付近は、かつて本人が自転車で駆け回り、
仕事に励んだ地域です。

 私が小学校高学年から、大学時代まで育った家もありました。
母にとっては、結婚後に構えた “第二の家庭” になります。



 そして上井草園は、第三の家庭。 もはや自分は “頼る
だけ” の存在ですが、ここなら配慮も行き届き、万全です。

 母も、ほっとしたのでしょうか。 お世話していただける
有難さが身にしみ、最初から心を開いたようです。



 しかし後日、職員さんから聞いたところによれば、
「私たちのほうが、感謝しているんです…。」

 ただ介護を受けるだけの母。 意思の疎通さえ
おぼつかないのに、そんな印象を周囲に与える
ことが、本当に出来たのでしょうか?



 「強く、周囲に心配をかけずに」…生きようと努め、
気の張りつめていた時期は終りました。 後から私
が目にした、独居時代の日記には、本人の不安が
克明に記されていたので、それがよく判るのです。

 「だんだん衰えて行く自分の健康。 一体どうなって
しまうんだろう…。」




 



 入所して最初の年の “忘年会” プログラム。 ここでは
私も楽器を弾かせていただきました。

 ピアノやハンドベルなどを担当したのは、すべて職員
さんたち。 日頃は自分たちの介護に携わっているかた
がたが、音楽面でも大活躍している…。

 そんな様子を間近で目にしたため、利用者の皆さんに
とっては新鮮な驚きだったようです。

       関連記事 和気あいあい など。





 



 90歳の誕生日には、職員さんたちが寄せ書きを。





     



 92歳の日には、心温まるメッセージが。




 母は、93歳5ヶ月で亡くなりました。 葬儀は行わず、
近親者のみで送り出しました。

 役割を果たした、一人ひとり…。 「残された者は仲良く。」
それが、せめてもの供養でしょう。





SN3R0398




 さて、職員さんが記した色紙の中には、以下
のような一行がありました。

 「桑野さんといえば、ネコと俳句ですよね!?」



 これ、母のことなんです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿