06/27 私の音楽仲間 (505) ~ 私の室内楽仲間たち (478)
似て非なるもの
これまでの 『私の室内楽仲間たち』
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似て非なるもの
そんなに長くないです
読解を強いるブラームス
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お尻を軽く?
耳を欺く?
敵か味方か?
ドルチェ。 “花より団子” のかたは、お菓子、ケーキ、
デザート。 楽語としても、甘美に、柔らかく、うっとりと。
関連記事 『作為の無い “甘さ”』
…これは、私が前回記した内容ですが、今回も “dolce” が
登場します。
曲は ブラームスの弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 Op.18、
その第Ⅱ楽章です。
[演奏例の音源]は、②から[譜例]の最後まで。 繰り返し
は省略して編集してあります。
前回は “レガートのドルチェ”。
今回は “スラー スタカート” ですが、柔らかさ、滑らかさ
においては変わりありません。
二種類の記号を使った、この指示。 「スタカートを一弓
で弾け」…という指示の場合もありますが、それは弦楽器
奏者向きの解釈。
基本的には、“作曲家による指示” として、“ただのスタ
カート” とは明確に区別する必要があると考えています。
[譜例]中、二段目の最後には、3つのスタカートが。
作曲者によるものでしょう。
また、何も書かれていない十六分音符 (6連符) は、
当然のことながら “スタカート” でしょう。
“スラー スタカート” の音符の上に書かれた、弓使い
の “ダウン”、“アップ” 記号。 この音源で用いたもので
すが、私の好みに過ぎません。
一弓で音符4個を弾いたり、1個ずつ返したりしていま
すね。 いずれの場合も、出て来る音は同じニュアンス
になるようにしたい。
それでも方法に差があるのは、弓の位置を調整したり、
間にある四分音符を処理したりするためです。
さて、[音源]をよくお聴きになると、“dolce” に入ったところの
テンポが、前より “少しゆっくり” になっていますね。 お叱りを
いただきそうです。
このときの私の意識は、「急ぐよりは落ち着いたほうがいい」。
音楽のためでもあると同時に、バックで6連符を担当し
ている「Viola さんたちを急かせないほうがいい」…と判断
したからです。
テンポを取り戻すことは簡単。 でも、反対に速過ぎると、
アンサンブルも崩れてしまいます。
コントラストの大きい、この部分の音楽。 スタカートと
スラー スタカートの差も、また対照的ですね。
関連記事 『無視される スラー スタカート』
[音源ページ ①] [音源ページ ②]
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スラー スタカートにおける弓使いは、他の類似パッセジなどで試行錯誤を重ねた結果、あくまでも「現時点の私自身」に相応しいものにすぎません。 AさんとBさんがいれば、好みや判断は千差万別ですね? たとえレッスンの場でも、一例として挙げるだけで、他の方に強くお薦めするのは躊躇うものです。
「六連符はスタカート以外に考えられない」…というのは、私自身の感覚的なものです。 他の音源を聴いて参考にすることがほとんど無いので、どういう演奏が大勢かは解りませんが、言葉で説明すると以下のようになります。 長くなりますが…。
細かい音符が、それも f で並んでいれば、響きは豊富になりすぎ、粒が聞きとりにくくなります。 その反面、変奏曲のこの部分は、六連符のリズムの、Viola との掛け合いが主役と思われます。 (6/29の記事とも共通する内容ですが。)
「f の数が1つ」…というのも、ある意味で “軽さ” を暗示しているように、私には思われます。 ちなみに今の私でしたら、f のViolinは弓元近くで叩き気味に、同じ六連符でも p dolce の Viola は“置いて柔らかいスタカートで”弾きたいと考えています。
話を戻しますと、1つのラインを「歌おう」とするよりは、全体から「粒の対比」が聞えるほうが、作曲者の狙いに叶っているのではないでしょうか。
もしブラームスがそう望んだとすれば、「書かなくても、当然スタカートで弾いてくれるはずだ」と演奏者に期待したゆえに、一々記さなかったのでしょう。 多数の六連符に記号を記す労は、作曲者としては避けたい…という思いもあると思われます。
それは、譜例の二段目最後にだけ、わざわざスタカートを書いていることからも解ります。 「ここから先は、それまでのスラースタカートではないよ? 以下同文だよ!」…と、区別を明確にしたいためではないでしょうか? 直後のチェロにも、5つのスタカートが書かれており、全員が②の繰り返し部分に戻るわけです。
また、「ここだけがスタカートで、他の部分は “普通の弾き方” に戻る…というのも考えにくいでしょう。 「では “普通の弾き方” とはどんな弾き方なのか? 全体から見て、その意味は?」…と自問してみても、私には適当な答が思い浮かびません。
つまり、「書かなかったからスタカートでない」…のではなく、むしろ逆ではないでしょうか。 「厳密を期したブラームスが、奏法を指定していない」…ように見えることからは、特別な意味を感じざるを得ません。 もちろん私の考えも、将来変わるかもしれませんが…。
不徹底を嫌った Beethoven や Brahms でさえ、「記さなかった」ことで、このように後世の者を惑わせる…。 よく遭遇することですが、彼らも今頃は苦笑しておられるかもしれませんね。
六連符については上記推敲にも拘わらず初稿からスタッカート無しなので、それが作曲者の意図と思われますが、スタッカートでの演奏もありますね。