おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

生きていくってしんどい

2011年09月06日 06時44分58秒 | 日記
朝置き出して寝巻きのまま畑に下りた。

何だか、気配がこれまでと明らかに違う。キャベツ、ナスなど葉物の葉っぱがしっかりと濡れている。畑の表土も濡れてしっとりしている。

昨晩は雨は降っいないはずだが?。

特に昨日は昼間と夜との気温の差が大きくなった。

TVの天気予報で寒くなると言っていたので、毛布2枚を重ねパジャマも長袖で防寒?対策をして寝た。

それでも夜中に咳をした。

咳が出始めると止まらなくなる。軽い喘息を持っているので、咳は迷惑をかけるので困る。

最近気分が晴れない。どんより曇っている。

齢61になって、まだ自分の人生を達観できない。

「これでいいのか?」

こんな人生の在り方でいいのか?自分の愚かさ、未熟さ、醜さを今頃になって再確認し、厚く身に纏っている醜悪な「鎧」を脱ぎ捨てないことには自由になれない。

しかし、世俗をながく生き抜いてきた老いた人間が自由になった時に、赤子のように邪気がなく純真な姿に戻れるのだろうか?逆に身につけた理性が吹っ飛んだ後に残った強烈な喜怒哀楽、愛憎、欲望が巻く地獄のような世界に残されるのでは・・・

人間は果たして「変われる」のだろうか?学びの結果として「成長していく」存在なのだろうか?

弱く、愚鈍で、醜怪で、極悪な自分はコアのまま存在し続けている。知性と理性という衣が幾重にも巻き付いて、それを見えなくしているだけなのかもしれない。身につけた薄い徳性の下には黒く醜い欲望が渦巻いている。

ボブ・ディランの「アイ シャル ビ リリースト」という曲がある。よく歌うのだが、冒頭の歌詞「変わっていくなんてないよ。君の世界なんてほど遠いよ」ってフレーズが切なく心に迫る。

救いを求めて柳沢桂子の「生きて死ぬ智慧」(小学館)を読んだ。不思議な本で、お風呂に持ち込んで読んだら、読了した。

これは肉体的な苦しみに長い間苦しみ喘いで来た柳沢が救いを求めて縋った「般若心経」を自分なりの解釈で翻訳したもの。

そのなかに次のような文章があった。

お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています

宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです

あなたと宇宙は一つです

宇宙は一つづきですから
生じたということもなく
なくなるということもありません

きれいだとか 汚いだとかいうこともありません
増すこともなく 減ることもありません

「空」にはそのような
取るに足りないことはないのです


この部分の般若心経の文章は「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」たったこれだけのもの。

ここにひとつの確固たる真実がある。

そうもともとが「空」なのだ。実体もなくだから物質的存在も、感覚も、感じた概念を構成する知性も、そして意思も知識もない。すべては「空」なのだ。

これを捉え直す事、存在の原初に立ち返ること、そこから出発し直せばいい。

焦ることはない。

時間はある。

今日も朝日が昇った。

鮮やかな「秋」が目に見えるではないかー本当はそれも空なのだが・・・

なにも恐れることはない。どんな人間も山川草木生きとし生けるあらゆるものがみな本質に「空」を抱えているのだから。

柳澤がいう「野の花」のように生きる。

できるかなあ・・・