おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

日常の檻

2011年09月27日 07時11分38秒 | 日記
仕事が詰まっていて忙しくても、何にもなくて暇に暮らしていても、生きてそこで生活している限り人間は日常性の檻の中にはめ込まれてズブズブと沈み込んでいく。

仕事の現役時代、人間関係の軋轢で毎日がぎすぎすしていた時、生徒指導上の問題で親からの苦情への対応で気持ちが沈んでいた時、晴れ晴れしい席に立って嬉々として挨拶や講話をしていた時、すなわちそれぞれの悲喜交々の時間、「日常性」は時間を追う毎に定着していった。

慣れや感覚の鈍化は人間が自然に身につけたストレスへの自己防衛策でもあるのだろう。

しかし、この「日常性の檻」に填まると、どんなにもがいてももがいても抜け出せなくなる。

その隘路に中で生きる方向性を見出そうと焦れば焦るほど、ズルズルと時間の罠に填まってしまう。

世の中には常に新しいことを求めるロマンチストがいる。

太平洋をヨットで横断する冒険家、マラソンで地球一周したお笑い芸人もいた。

キリマンジャロに登った盲目のタレント?もいた。

この地方にも最近4万キロを歩いたという人がいて、丁度その4万メートル達成記念の日に、歓迎祝賀のために彼を村を歩くコースで出迎え一緒に歩こうという企画があって、お誘いを受けたことがある。

その日は豪雨の日だったのでもちろん行きはしなかったが、心中「何でそんな個人的なこと(自分の健康のために歩き始めた結果の数値に過ぎない)に大騒ぎするのだろう?」という疑問があった。もちろん口に出しはしないけれど・・・

みんな「なにか」を求めているのだ。

生きている実感。

歳を重ね、仕事も定年で退職し、毎日が追われるような生活とはオサラバした。

自由で悠々自適な生活は一つの憧れでもあった。

田舎暮らしを自ら求めて、大自然の真ん中に家を建て、そこを終いの住処として暮らし始めた。

新しい出会い、出来事、チャレンジもある。しかし、だんだん感じるようになってきた。

「日常の檻」。

何で生きるのだろう。

もう目に見えている。次第に体が老化で衰えていく。足が萎え、腰が曲がり、杖を必要としてくる。口が悖らなくなる。

記憶力が退化し、同じ言葉を繰り返し始め、聞いたことを何度も聞き直す。

そろそろ終の棲家としての「老人ホーム(老養、老健)」探しが始めるだろう。

自分史を書き上げる。そこにどんな意味がある?

私は自殺という行為は愚かなことだと思っているので壁にぶつかったって自分で死んだりはしない。

深いところにある苦悩を自覚して夜中に目が覚めるようなことがあっても、それも次第に日常化されていく。

惰性的な日々の送り方は容易い。のんべんだらりが一番いいという人もいよう。

そんな人は幸せな人かもしれない。

そうはいかない。

一番恐いのが平板化。人は一人で生まれそして一人で死んでいく。この孤独を都会人も喧騒に紛れているだけで根底にはどかっと居座っているのだ。