おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

久々の雨、旱天の慈雨か水害の予兆か?

2011年09月16日 07時09分02秒 | 日記
この1週間は好天続きで、残暑が酷く特に熊本は日中34,5度という言葉に尽くしがたいほどの暑熱だった。

畑は乾燥して地面が風で表土が舞い上がる程。朝な夕なに散水をしていた。水撒きといっても一仕事、上段の我が家の花壇や植木に水を遣って、それから散水ホースを精一杯延ばして畑に下りて撒きはじめる。

この散水作業1時間ほどかかる。

作物が強烈な日差しに当てられてグターッとしている。

秋植えのまだ芽が出たばかりの大根、カブ、冬菜、ニンジン、ゴボウ、白菜、ブロッコリー、やや育ってきたキャベツ・・・

秋ジャガが漸く芽が出てきた。

自慢の里芋は大きな茎と雨傘のような葉っぱで誇らしげ。

コンニャク芋も順調だし、今年はやっと大きなショウガが取れそうだ。

ゴマは今半分採り入れて、ブルーシートの上に茣蓙を敷いてその植えに置いて乾かしているところ。乾燥すると自然に弾けて茣蓙の上にパラパラとゴマが落ちてくる仕組み。今年は去年の倍の量ありそう。干している半分の量でも広さ4畳位。1升位にはなるのだろうか・・・?

ゴマは血液サラサラにしてくれる狭心症持ちの私には大事な薬でもある。

窓から外を眺めると、少し雨量が多すぎるぞ!奈良、和歌山、三重、大雨でできた堰止湖決壊しないだろうかー

過ぎたるは及ばざるが如し

            

最近の読書。立川昭二の「この生この死ー江戸人の死生観」(筑摩書房)これは再読。

小林一茶、明恵、そして私淑する良寛の生き様。
良寛晩年。新潟三条で起こった大地震の際、「災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候。死ぬ時には死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」良寛ならではの達観だろう。

死に際して、貞心尼の「生き死に境はなれて住む身にもさらぬ別れのあるぞ悲しき」に応えて、

うらを見せおもてを見せて散るもみじ」(ちに濁点)と返した良寛の死に様に学びたい。

最近口語訳の古典を読んでいる。「古事記物語」(高野正巳口語訳)、「今昔物語」(福田清人)いずれもポプラ社。
やっぱり原典で読むべきだろう。