(5)東北の旅 H,25,8,25~27日 nikonD3S
田沢湖 秋田県中東部にある湖。那須(なす)火山帯に属する田沢火山の陥没によって生じたカルデラ湖といわれる。東西約6キロメートル、南北約5.8キロメートルの円形をなし、面積25.8平方キロメートル、周囲20キロ
たつこ姫伝説
田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃、院内にまれにみる美しい娘、辰子がいた。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた。満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった。
辰子は、わらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越え、深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉があった。喜び、手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた。
時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた。龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった。
一方、辰子の母は娘の帰りを案じ、田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいった。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒という(田澤鳩留尊佛苔薩縁起より)
さて、十和田湖を南祖坊に追われ、男鹿半島に八郎潟をつくり主となった八万太郎は、毎年秋の彼岸の頃、田沢湖に恋人の辰子を訪ねて冬を過ごすため、主のいない八郎潟は凍りつき、2人の龍神が住む田沢湖は冬の間も凍らない湖として知られている。
昔、今の秋田県仙北市田沢湖神代の神成沢という地に三之丞と呼ぶ家があった。 父親 を早くに失い、母と2人で暮らしていたが、一人娘の辰子は近在には見ることのできない ほどの希な美しい娘であった
漢槎宮(浮木神社)漢槎宮(かんさぐう)は浮木神社(うききじんじゃ)とも言い、田沢湖畔の潟尻に立つ、白木造りの現代的な感覚の社殿です。流れついた浮木(大木が湖面から2メートルぐらい顔を出し、斜めに水底に深く消えている流木)を祭ったものといわれています
角館武家屋敷
仙北市角館伝統的建造物群保存地区
重要伝統的建造物群保存地区・昭和51年9月4日選定
仙北市角館伝統的建造物群保存地区元和6年(1620)江戸時代のはじめ、芦名氏により大規模な都市計画が実施され、その後は佐竹北家の城下町でした。保存地区は旧武家町のほぼ中央にあり上・中級武士の武家屋敷にあたるところです。
広い通り沿いに塀が連続し、シダレザクラやモミの大木が深い木立を形成し、江戸時代末期時の屋敷割や主屋・門・倉の屋敷構え、枡型など武家町の特性をよく残しています。
武家屋敷通り 今から350年前、京都から迎えたお姫さまのお嫁入り道具の中にあった3本の苗木。それが元となって長い年月を経て、今日まで残る「角館のしだれ桜」になったと言われています。春になると武家屋敷の黒板塀にピンク色の花々が映え、町をさらに引き立たせます
角館の伝統工芸品・樺細工(国伝統的工芸品指定)樺細工はヤマザクラの樹皮を磨き上げて作られた角館の伝統工芸品です。
今から200年前に武士の手内職として始められ、その技が受け継がれてきました。細かく丁寧な作業が求められ、現在も職人の技やデザインが磨かれ続けており、高い評価を得ています
青柳家は1570年(元亀元年)に当主・青柳和泉守が佐竹義重の側近となって以来、 佐竹家に仕えていたが、1597年(慶長2年)、青柳主水正が佐竹盛重(芦名義勝)に 仕えてから芦名家家臣となった。 1603年(慶長8年)、
母屋 200年前の建築のままです。。。。。。。