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追悼 知の巨人、反戦の原点は過酷な戦争体験だった

2015-07-30 | Weblog

追悼“知の巨人”鶴見俊輔さん 殺人犯も恐れぬ意外な理由

評論家で哲学者の鶴見俊輔さんが7月20日、肺炎のため京都市内の病院で亡くなった。93歳だった。

鶴見さんは2004年に加藤周一さん、大江健三郎さんらとともに「九条の会」をつくり、戦争をしない国を求めて活動してきた。一方で、漫画や映画にも造詣が深く、多くの文化人と交流があった。

作家・評論家の黒川創さん(54)は、鶴見さんらが創刊した雑誌「思想の科学」に編集者として参加。鶴見さんの背中を見てきた。

「編集者というと、売れっ子作家の原稿が上がるのをじっと待つイメージがありますが、それとはぜんぜん違う。(思想の科学の)企画会議でいつもアイデアを出して圧倒していたのが、鶴見さんでした」

同誌に寄稿したこともあるのが、作家でエッセイストの落合恵子さん(70)。同じ時期に朝日新聞の書評委員をしていた。初対面のエピソードをこう懐かしむ。

「憲法学者の奥平康弘さんのご著書の書評を前に、専門ではないからとためらっていたら、『違う角度の見方ができるはず』と背中を押してくださった。好奇心が旺盛で少年みたいなところがありました」

映画評論家の佐藤忠男さん(84)は「つながりを大切にする方」と評す。初めて「思想の科学」に映画の評論を送ったときのことだ。

「単に採用、不採用とかではなく、励ましの言葉を十何枚もの便箋にしたためてあった。長い時間かけて書いてくださったんです」

フリーライターの永江朗さん(57)は、京都の自宅で子ども時代の話を聞いたことがある。印象深かったのは、日米開戦後、渡米していた鶴見さんが無政府主義者の容疑で勾留されたときのこと。殺人犯と同じ房になったという。

「『怖くなかったのか』と尋ねると、鶴見さんは『怖いわけがない。人を殺すくらい純粋でいい人なんだから』と笑うんです。そんなものの見方があるのかと感心しました」(永江さん)

過酷な戦争体験が反戦の原点となり、平和を訴え続けた。惜しむ声はやまない。

「今のこの時代に必要な方。その思想と姿勢を受け継ぎたい」と落合さん。黒川さんは言う。

「60代ぐらいから持病があり、遅かれ早かれそういうことになると覚悟はしていた。でも、そのときから30年以上も現役プレーヤーとして先頭に立ってくれた。ありきたりな言葉だけれど、長生きしてくれて本当にありがとう」  

※週刊朝日 2015年8月7日号

 


略歴

鶴見俊輔氏死去 万引き・退学…小学校卒でハーバード 行動派知識人

93歳で死去した鶴見俊輔さんは15歳で渡米。ハーバード大卒という経歴の一方で、万引きをしたり、不登校になったり、破天荒な少年時代を送っていました。帰国後はベトナム戦争に反対、憲法問題にも積極的に関わり、行動する知識人として歴史に名前を残しました。

「万引きしては換金」 *1

「母親は小遣いをくれなかった。万引きしては換金し、家の門の下に土を掘って埋め、必要なときに掘り出して使っていた」

1998年2月5日のインタビュー記事で、決して優等生ではなかった少年時代を振り返っています。

小学校は当時のエリート校、旧東京高師(現筑波大)付属小でした。しかし、成績が悪くて付属中に進めません。受験して東京府立高等学校尋常科に入りますが「朝起きると学校へ行けない」という状況に。2カ月でやめ、次に入学した東京府立第五中学校も二学期までしかもちませんでした。「これでぼくの日本での学歴は終わった」

国会議事堂の南通用門前に座り込みをし、機動隊員に排除される安保拒否百人委員会のメンバーで評論家の鶴見俊輔さん=1970年6月21日、東京・霞が関

 「16歳でハーバード入学」*2

15歳の時、将来を心配した親のすすめで、アメリカに留学します。アメリカではミドルセックスというハーバード大学へ進学する者が多い予備校へ入ります。「そこでは私がだれであるかを周りの人は知りませんし、私もまじめでした」。日本とは違う環境で勉強に励み、16歳でハーバード大学に入学します。

日米開戦、留置場で卒論 *3

ハーバード大生の時に日米が開戦。日本人の鶴見さんは敵国人として逮捕され留置場に入れられます。留置場で書いた卒論が、教授会の投票で認められ卒業しました。

1998年2月3日のインタビュー記事で、鶴見さんは祖国との違いを実感した瞬間について語っています。「政府と大学が別の判断に立つことを知った。アメリカの民主主義の岩床はしっかりしていることを、この獄中の体験でつかんだ」。

日本は必ず負けると確信していたという鶴見さん。「負けるときには日本にいたい」と、1942年に捕虜交換船で日本へ帰ります。

「私は戦争の中で生きてきた」 *4

戦後は、ベトナム戦争に反対する「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」で、米軍脱走兵を支援します。近年では、憲法についても発言。憲法改正が現実味を帯びると、作家の大江健三郎さんら文化人でつくる「九条の会」を立ち上げます。

2005年10月にあった講演会では、憲法への熱い思いを語っています。

「私は戦争の中で生きてきました。戦争が自分の中に遺(のこ)したものが、私を憲法9条を守る方向へ持っていったんです。私は1億人の中の一人になっても、やりますよ。あったりまえのことだ」

記者会見するベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の鶴見俊輔さん(右から2人目)ら。米軍岩国基地の核貯蔵疑惑が国会で取り上げられた直後に基地所属の反戦兵士4人が本国に強制送還された問題をめぐり、「核(貯蔵)の疑惑は深まるばかり」と語った=1971年11月26日、山口県岩国市

マンガ「がきデカ」を評価 ユニークな視点 *5

鶴見さんは、山上たつひこさんのマンガ「がきデカ」を、高く評価するなど、独特のセンスで戦後の日本を論じました。

「がきデカ」の主人公は、ムキダシの欲望であばれ回る少年です。

そんな「がきデカ」について、鶴見さんは「自分の欲望に従って生きようというがきデカが増えたことがファシズムの防波堤になる、と思う。簡単に、命令一下の体制に追い込むわけにはいかないですよ」と評しました。
 

鶴見俊輔さん=2006年1月17日

日米開戦から震災まで体験 *6

日米開戦を身をもって体験し、戦時中に帰国。戦後の高度経済成長、バブル、そして東日本大震災による原発事故まで、その視野の広さと深い思想は、知識人だけではない、多くの人に影響を与えました。

震災後の2011年6月21日にあった講演で「日露戦争以来、大国になったつもりで文明の進歩をひたすら信じ続けてきた日本人は、敗戦後も目をそらしてきた根本問題に(震災と原発事故で)直面している」と語っていた鶴見さん。

「受け身の力をここで超えること。九条は、何らかの行動、態度の表明で裏付ける方がいい。不服従の行動の用意があるとさらにいい」と訴えていました。

出典:

*1

出典: 1998年2月5日:祖父と父 けんか、私の負けだった(鶴見俊輔の世界:4 語る):朝日新聞紙面から

*2

出典: 1997年10月5日:期待と回想 上・下 鶴見俊輔著(書評) 評者・関川夏央(作家):朝日新聞紙面から 

*3

アメリカではミドルセックスというハーバード大学へ進学する者が多い予備校へ入った。そこでは私がだれであるかを周りの人は知りませんし、私もまじめでした。

出典: 1998年2月5日:祖父と父 けんか、私の負けだった(鶴見俊輔の世界:4 語る):朝日新聞紙面から

敵国人として逮捕され留置場の中だった。しかし、外での食事より良くて結核も回復した。卒業は、留置場で書いた論文をもとに教授会の投票で決まった。政府と大学が別の判断に立つことを知った。アメリカの民主主義の岩床はしっかりしていることを、この獄中の体験でつかんだ。

出典: 1998年2月3日:アメリカ 民主主義の闘い、力の源(鶴見俊輔の世界:2 語る)

日米開戦後、鶴見さんは米国で無政府主義者の容疑で逮捕され、留置場生活を経験する。日本は必ず負けると確信していたが、「負けるときには日本にいたい」と、42年に捕虜交換船で日本へ帰る。戦争中は海軍の軍属として南方へ派遣された。「大東亜の解放」を唱えながら、現地の住民を酷使し、捕虜を虐殺する日本軍の姿を見た。国家への不信が深く肌身に刻み込まれる。

出典: 2005年11月24日:(戦後60年を生きる)鶴見俊輔の心:上 国家不信 原爆のウソ、胸に刻み

*4

「私は戦争の中で生きてきました。戦争が自分の中に遺(のこ)したものが、私を憲法9条を守る方向へ持っていったんです。私は1億人の中の一人になっても、やりますよ。あったりまえのことだ」10月中旬、京都市山科区での講演会。詰めかけた約100人の聴衆に向かって、鶴見さんは熱く護憲を訴えかけた。主催したのは、鶴見さんや作家の大江健三郎さんら文化人でつくる「九条の会」の護憲アピールに賛同した地元市民のグループだ。

出典: 2005年11月25日:(戦後60年を生きる)鶴見俊輔の心:下 戦争体験 一人になっても、護憲:朝日新聞紙面から

*5

鶴見氏は、ムキダシの欲望であばれ回る少年を主人公にした、山上たつひこの漫画「がきデカ」を、「私が現代に希望を託する最大のもの」と高く評価している。つまり「自分の欲望に従って生きようというがきデカが増えたことがファシズムの防波堤になる、と思う。簡単に、命令一下の体制に追い込むわけにはいかないですよ」というわけだ。

出典: 1995年8月14日:鶴見俊輔 「私」が共生する社会へ(「個」と戦後:9):朝日新聞紙面から

*6

鶴見は米国の日本への原爆投下から説き起こした。「科学を悪用してはならないというヒポクラテス以来の伝統が断ち切られ、科学は新しい段階に入った」。原爆と原発の連続性を示唆しながら「国家予算によるビッグサイエンスは、自国、他国の数百万という人々の上に覆いかぶさることになる」と話した。さらに「日露戦争以来、大国になったつもりで文明の進歩をひたすら信じ続けてきた日本人は、敗戦後も目をそらしてきた根本問題に(震災と原発事故で)直面している」と指摘。「受け身の力をここで超えること。九条は、何らかの行動、態度の表明で裏付ける方がいい。不服従の行動の用意があるとさらにいい」と結んだ。

出典: 2011年6月21日:「目をそらしてきた問題に直面」 鶴見俊輔、講演で東日本大震災と原発事故を語る:朝日新聞紙面から


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