|
昨年12月30日、米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)さんが膵臓がんのためニューヨークの自宅で死去した。89歳だった。 第2次大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局のスタッフとして日本国憲法の起草作業に携わり、男女平等に関する条項を書き上げた女性だ。このときまだ20代前半だった。 娘のニコルさんは31日、共同通信に「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。憲法改正に総じて反対だった。(改憲派自民党が衆院選で大勝し)変更や削除を特に懸念していた」と語った。 |
|
憲法草案作成における役割 |
|
ベアテは、ダグラス・マッカーサー元帥の率いるGHQ民政局で政党課に配属され、女性団体やミニ政党、女性運動家などの公職追放の調査を任されている。 それも若手ながら一人前のスタッフとして待遇されており、ベアテがそれまで勤務していた米タイム誌で培ってきたリサーチャーとしての能力が高く評価されてのことだ。 3名で構成された人権小委員会で、草案作成の命令を受けたベアテが担当したのは、「社会保障」と「女性の権利」についての条項であった。 とりわけ「女性の権利」については、当時の世界の憲法において最先端ともいえる内容の人権保護規定をベアテが書いた。 アメリカ合衆国憲法ですら、60年経過した現在も「両性の本質的平等」にあたる規定が存在せず、いかに彼女の草案が人権の平等精紳に根ざした画期的のものであり、やがて到来するであろう男女平等の時代を先覚した急進的なものであったかがうかがえる。 |
第19条 |
妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。 |
第20条 |
養子にする場合には、その夫と妻の合意なしで家族にすることはできない。養子になった子どもによって、家族の他の者たちが不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子の権利は廃止する。 |
第21条 |
すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等にチャンスが与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資格に合格した生徒は無料で受けることができる。学用品は無料である。国は才能ある生徒に対して援助することができる。 |
第24条 |
公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる。 |
第25条 |
学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。 |
第26条 |
すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。 |
|
また、現行憲法第24条の下敷きとなった草案全文は次のようになっていた。 ベアテは制約が多く意味が深い日本語(「輔弼」など)のニュアンスをアメリカ側に伝え、時々は当時の日本の習慣について説明し日本側の見解を擁護したことで、日本政府の代表にも好感を持たれていた。 |
|
おいたち |
|
ベアテ・シロタは1923年10月25日、ウィーンのヴェーリンガー通り58番地で、ロシア(現ウクライナ)キエフ出身のユダヤ人でピアニストとして有名な父レオ・シロタと、同じくキエフ出身でユダヤ人貿易商の娘として育った母オーギュスティーヌ(Augustine Sirota、旧姓ホレンシュタイン Horenstein、1893年7月28日 - 1985年7月20日)の間に生まれた。 叔父に指揮者ヤッシャ・ホーレンシュタインがいる。 名前は母親が敬愛するウィーンの作家シュテファン・ツヴァイクの作品に登場する人物「ベアテ夫人」から命名。 父も母も1917年のロシア革命のユダヤ人排斥によって国に帰れなくなっておりオーストリア国籍を取得していたため、ベアテの国籍はオーストリアとなった。 ハルビン公演で演奏を聞いた山田耕筰(歌曲・野薔薇や童謡・赤とんぼの作曲家)が1928年5月18日、ホテルを訪れ、日本での公演を依頼。レオはその年に訪日して一カ月で16回の公演を行ない、訪日中、山田耕筰はレオを東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘する。 同僚には、作曲家のクラウス・プリングスハイムなど錚々たる音楽家が名を連ね、当時の東京音楽学校は欧米の一流音楽大学に比べても遜色のない世界最高水準の教授陣を擁していた。この年1929年10月24日、ウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌が起きている。 小柴美代は、とりわけ身近に接した日本人女性だったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたとする指摘は多い。 日本女性の地位の低さを、小柴美代から「子守歌のように」聞かされていた経験が、のちに憲法24条草案を積極的に書かせる動機になった、といわれる(『日本国憲法を書いた密室の九日間』)。 またベアテ自身も後年、小柴美代との出会いを折に触れ述懐しているうえ、1966年にはニューヨークに呼び寄せてもいる。 父母同伴で渡米しサンフランシスコに着いたベアテは、とんぼ返りで日本に戻る父母を見送った後、ミルズ・カレッジに入学。 専攻は文学とし、フランス語の研究会や演劇部に所属した。 ミルズカレッジはカリフォルニア州オークランドに立地した4年制の女子大学で、1852年女性教育のための高等機関として設立された名門私立女子大学である。 当時の米国の勤労女性は貧困階級であることが常識だったが、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハート(Aurelia Henry Reinhardt)は、女性の社会への進出と自立を積極的に唱える進歩的な女性で、女子学生に対しても職業を持ち政治に参加する必要性を説いていた。ここで女性の権利と女性差別の現実を学んだベアテはフェミニストとしての自覚を持つようになっていた。 帰国途上のホノルルで、米国政府は日本入国許可を渋ったため、両親はホノルルに足止めされた。 父はハワイ各地で演奏会を開いてしのいだ。 米国政府の許可が11月に下り、11月末に両親は日本に帰国した。両親が乗った船は、日米開戦前の日本行きの最後の便だった。帰国10日後に日本軍は真珠湾攻撃を敢行。両親の住む日本と、ベアテの住む米国の開戦(太平洋戦争)により、これ以後戦争終結までの期間、両親との連絡が途絶えることとなった。 ベアテは、このFCCの仕事を通じて日本からの情報を凝視し、両親の消息を探った。FCCが入手する情報から、父が東京音楽学校を罷免されたことなど、一部の情報を得ていたが、両親の消息まではわからなかった。このころ(1945年1月)米国籍を取得している。 |
--- |
- |
|
|
|
|
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます