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[母の日] 日本を愛したベアテ 彼女の贈りもの(個人の尊厳 両性の平等)

2013-05-12 | Weblog

 

 

昨年12月30日、米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)さんが膵臓がんのためニューヨークの自宅で死去した。89歳だった。

第2次大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局のスタッフとして日本国憲法の起草作業に携わり、男女平等に関する条項を書き上げた女性だ。このときまだ20代前半だった。

娘のニコルさんは31日、共同通信に「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。憲法改正に総じて反対だった。(改憲派自民党が衆院選で大勝し)変更や削除を特に懸念していた」と語った。

 

憲法草案作成における役割

 

ベアテは、ダグラス・マッカーサー元帥の率いるGHQ民政局で政党課に配属され、女性団体やミニ政党、女性運動家などの公職追放の調査を任されている。

それも若手ながら一人前のスタッフとして待遇されており、ベアテがそれまで勤務していた米タイム誌で培ってきたリサーチャーとしての能力が高く評価されてのことだ。

3名で構成された人権小委員会で、草案作成の命令を受けたベアテが担当したのは、「社会保障」と「女性の権利」についての条項であった。

とりわけ「女性の権利」については、当時の世界の憲法において最先端ともいえる内容の人権保護規定をベアテが書いた。

アメリカ合衆国憲法ですら、60年経過した現在も「両性の本質的平等」にあたる規定が存在せず、いかに彼女の草案が人権の平等精紳に根ざした画期的のものであり、やがて到来するであろう男女平等の時代を先覚した急進的なものであったかがうかがえる。

ベアテが先覚した人権規定の精神は、現行憲法では第24条、第25条、第27条に生かされることになった。ベアテの草案の一部は、次の通り。

第19条

妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。

第20条

養子にする場合には、その夫と妻の合意なしで家族にすることはできない。養子になった子どもによって、家族の他の者たちが不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子の権利は廃止する。

第21条

すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等にチャンスが与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資格に合格した生徒は無料で受けることができる。学用品は無料である。国は才能ある生徒に対して援助することができる。

第24条

公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる。

第25条

学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。

第26条

すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。

 

また、現行憲法第24条の下敷きとなった草案全文は次のようになっていた。

第18条 家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統はよきにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である。このような考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく両性の協力にもとづくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それにかわって配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。

また、憲法第14条一項(法の下の平等)草案もベアテが起草している。ベアテが参考にした各国の憲法条文は、次の通り。

ワイマール憲法・第109条(法律の前の平等)、第119条(婚姻、家庭、母性の保護)、第122条(児童の保護)

アメリカ合衆国憲法・第1修正(信教、言論、出版、集会の自由、請願権)、第19修正(婦人参政権)

フィンランド憲法(養子縁組法)

ソビエト社会主義共和国連邦憲法第10章・第122条(男女平等、女性と母性の保護)

ロシア語も堪能なベアテがいたために、最終的にはカットされた「土地国有化」の条項がソ連憲法から草案に取り入れられた、と考えられる。

3月4日から始まったGHQ案を日本語に翻訳する作業でも、ベアテの日本語の能力は、アメリカ側にも日本側にも印象づけられる結果となる。

ベアテは制約が多く意味が深い日本語(「輔弼」など)のニュアンスをアメリカ側に伝え、時々は当時の日本の習慣について説明し日本側の見解を擁護したことで、日本政府の代表にも好感を持たれていた。

 

おいたち

 

ベアテ・シロタは1923年10月25日、ウィーンのヴェーリンガー通り58番地で、ロシア(現ウクライナ)キエフ出身のユダヤ人でピアニストとして有名な父レオ・シロタと、同じくキエフ出身でユダヤ人貿易商の娘として育った母オーギュスティーヌ(Augustine Sirota、旧姓ホレンシュタイン Horenstein、1893年7月28日 - 1985年7月20日)の間に生まれた。

叔父に指揮者ヤッシャ・ホーレンシュタインがいる。 名前は母親が敬愛するウィーンの作家シュテファン・ツヴァイクの作品に登場する人物「ベアテ夫人」から命名。 父も母も1917年のロシア革命のユダヤ人排斥によって国に帰れなくなっておりオーストリア国籍を取得していたため、ベアテの国籍はオーストリアとなった。

当時、フェルッチョ・ブゾーニに師事した父のレオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれ、すでに国際的に著名なピアニストで、ベルリン、パリ、ブリュッセル、フランクフルト、ザルツブルク、ロンドン、あるいは、極東のウラジオストックにまで遠征公演に明け暮れていた。

ハルビン公演で演奏を聞いた山田耕筰(歌曲・野薔薇や童謡・赤とんぼの作曲家)が1928年5月18日、ホテルを訪れ、日本での公演を依頼。レオはその年に訪日して一カ月で16回の公演を行ない、訪日中、山田耕筰はレオを東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘する。

そのころのヨーロッパは経済が不安定で、公演の中止がたびたびあり、そのうえドイツを中心として反ユダヤ主義が台頭してきたため、一家三人は半年間の演奏旅行のつもりで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへ、そして海路で横浜入りし、父レオは東京音楽学校ピアノ科教授に赴任。

同僚には、作曲家のクラウス・プリングスハイムなど錚々たる音楽家が名を連ね、当時の東京音楽学校は欧米の一流音楽大学に比べても遜色のない世界最高水準の教授陣を擁していた。この年1929年10月24日、ウォール街の株価大暴落に端を発した世界恐慌が起きている。

五歳半で初来日。シロタ家は東京市(現、東京都)赤坂区(現、港区)檜町十番地、いまの乃木坂近辺に居を構え、ベアテは日本での生活を開始。9月にはドイツのナショナル・スクール東京大森ドイツ学園(現、東京横浜ドイツ学園DSTY: Deutsche Schule Tokyo Yokohama)に入学。

6歳のころから、ピアノとダンスを習い、さまざまなコンサート、オペラ、日本の伝統芸能を含む芝居などに馴染み、成長期に日本の文化を積極的に吸収して育つた。

また、一家とともに暮らしたのは、父母のほかに、江の浦(静岡県沼津市)出身で網元の娘の小柴美代らお手伝いさんと、エストニア人の英語教師だった。

小柴美代は、とりわけ身近に接した日本人女性だったため、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたとする指摘は多い。 日本女性の地位の低さを、小柴美代から「子守歌のように」聞かされていた経験が、のちに憲法24条草案を積極的に書かせる動機になった、といわれる(『日本国憲法を書いた密室の九日間』)。

またベアテ自身も後年、小柴美代との出会いを折に触れ述懐しているうえ、1966年にはニューヨークに呼び寄せてもいる。

1936年2月26日、二・二六事件の際、ベアテは自宅の門に憲兵が歩哨に立つのを目撃。このころ通っていた東京大森ドイツ学園にナチス党員の教師が派遣され、毎朝「ハイル・ヒトラー」のあいさつや「ホルスト・ヴェッセル・リート」(ナチス党歌)の斉唱を強いられ、またベアテは危険思想をもつ問題児と白眼視されたため、目黒区(元千代田生命本社、現・目黒区役所)にあるアメリカンスクール・イン・ジャパン に転校し、卒業までの残り二年間を過ごした。

日本での10年弱の生活で、ベアテはすでにロシア語(両親の母語)、ドイツ語(幼少時代とドイツ学園)、フランス語(家庭教師)、英語(家庭教師)、ラテン語(ドイツ学園とアメリカン・スクール)、さらに日本語を習得していた。

1939年5月、アメリカン・スクールを卒業した15歳のベアテは、ソルボンヌ大学を志望したが、当時フランスとドイツが開戦直前の情勢だったため、両親はカリフォルニア州サンフランシスコ近郊の全寮制女子大学ミルズ・カレッジMills College)へ留学させることを決める。

そして留学前の三週間を父母とともに北京、上海などを中心に中国旅行に出かけ、ベアテはこのときに、日本と中国の違いを知ることになった。

父母同伴で渡米しサンフランシスコに着いたベアテは、とんぼ返りで日本に戻る父母を見送った後、ミルズ・カレッジに入学。 専攻は文学とし、フランス語の研究会や演劇部に所属した。

ミルズカレッジはカリフォルニア州オークランドに立地した4年制の女子大学で、1852年女性教育のための高等機関として設立された名門私立女子大学である。

当時の米国の勤労女性は貧困階級であることが常識だったが、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハート(Aurelia Henry Reinhardt)は、女性の社会への進出と自立を積極的に唱える進歩的な女性で、女子学生に対しても職業を持ち政治に参加する必要性を説いていた。ここで女性の権利と女性差別の現実を学んだベアテはフェミニストとしての自覚を持つようになっていた。

また留学中ベアテは、自分が「愛国者の日本人」となっていることに気付く。 日本から来たことを知った学友らは日本のことを尋ねてくるが、あまいにも無知で無理解な質問ばかりだったため、そのたびに苛立たしい思いに駆られては両親の住む日本への郷愁を抱き、「自分が半分以上日本人」となっていることを意識するようになった。 翌1940年の5月、学年末の試験後のバカンスで、日本に帰国したときの思いを「まさに自分の国への“帰国”だった」と述懐している(『1945年のクリスマス』)。まさにベアテにとって米国留学はカルチャーショックの経験でもあった。

1941年夏、渡米した両親と過ごす。日米間の緊張の激化を心配した米国の友人たちの忠告から、母オーギュスティーヌは「このままアメリカに残ろう」と主張。しかし、これまで家族の主張に反発したことがなかった父レオが、この時に限って東京音楽学校に対する契約履行義務を盾に「私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と反論し、両親は一ヶ月の滞在の後、9月になって日本に向かう船に乗ってしまった。

帰国途上のホノルルで、米国政府は日本入国許可を渋ったため、両親はホノルルに足止めされた。 父はハワイ各地で演奏会を開いてしのいだ。 米国政府の許可が11月に下り、11月末に両親は日本に帰国した。両親が乗った船は、日米開戦前の日本行きの最後の便だった。帰国10日後に日本軍は真珠湾攻撃を敢行。両親の住む日本と、ベアテの住む米国の開戦(太平洋戦争)により、これ以後戦争終結までの期間、両親との連絡が途絶えることとなった。

ベアテは、親からの仕送りがなくなったためサンフランシスコの「CBS リスニング・ポスト(CBS Listening Post)」で、日本からの短波放送の内容を英語に翻訳するアルバイトをして経済的自立を果たす。 この仕事を通じ、ベアテはそれまで日本語の知識として身につけていなかった文語体と敬語を学び、同時に当時日本からの報道で頻出していた軍事用語を習得。 米国に滞在していた父の弟子から譲り受けた露日辞典を用い、英語からロシア語に訳した軍事用語を、日本語に翻訳するという作業で軍事用語に馴染むという方法を用いた。 日系二世でも聞き取れない用語を聞き取ることができたため、上司の信頼を得、週給も上がった。

戦争のおかげで自活力をつけたベアテは、アルバイトで生活を支えながら大学生活を継続した。まもなくアルバイト先の会社が、米国連邦通信委員会(FCC)の外国放送サービス部(Foreign Broadcast Information Service)に改組となり、合衆国政府の管轄下に置かれる。

ベアテは、このFCCの仕事を通じて日本からの情報を凝視し、両親の消息を探った。FCCが入手する情報から、父が東京音楽学校を罷免されたことなど、一部の情報を得ていたが、両親の消息まではわからなかった。このころ(1945年1月)米国籍を取得している。

ベアテはミルズ・カレッジを最優秀(Phi Beta Kappa Society)の成績で卒業した後、FCCから戦争情報局(USOWI: US Office of War Information)に移り、日本人に降伏を呼びかける対日プロパガンダ放送番組の台本作りの仕事に二年ほど従事。 その後(1945年3月)サンフランシスコから叔母(母の妹)の住むニューヨークに移り住んだ。

ニューヨークでの仕事はタイム誌のリサーチャー(editorial researcher)であった。当時のタイム誌では、女性は記者になれず、リサーチャーとしての採用に限られていた。このため、男性の記者は女性のリサーチャーが収集した情報素材で原稿を書き、女性のリサーチャーが原稿の校正を行なうことになっていた。 そこで記事に誤りがあっても、記者の責任は問われず、リサーチャーが責任を問われて減俸の対象となった。 「自由」と「民主主義」の先進国だったはずの米国で女性を差別する現実に直面し、ベアテは初めて屈辱と挫折感を味わう。 しかしタイム誌でのリサーチャーとして培った能力は、後の日本国憲法起草の際に十二分に発揮されることとなった。

そのころ、両親は軽井沢の別荘(旧有島武郎別荘「浄月庵」 )に強制疎開させられており、終戦直前に官憲から出頭を命じられていた。ところが8月6日の広島原爆投下で日本政府が無条件降伏したために官憲の追及を免れていた。

ベアテは日本政府の降伏を知ると、タイム誌の日本特派員に両親の安否確認を依頼。 そして特派員から両親無事との吉報を受けると、日本に帰国できる職を探す。 当時の米国には、日本語を話せる白人は60人ほどしかおらず、FCC、USOWI、タイム誌での経歴に加え、6ヶ国語の言語能力(大学ではスペイン語を履修した)を買われ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間人要員(リサーチャー・調査専門官)として採用されて、空路で日本に帰国。12月24日に焦土となった日本の厚木飛行場(当時の神奈川県綾瀬町)に降り立った。そして千代田区有楽町の第一生命ビル(旧日本軍東部軍管区司令部)6階の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に赴任したのが12月25日だった。

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