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[ロイターブログ] 鏡のむこうの自分とお友達になる勇気(老いとむきあう)

2013-05-14 | Weblog

日本人と死の覚悟

総務省によると、昨年10月1日時点で、65歳以上の高齢者の人口は初めて3000万人を超え、総人口に占める割合(高齢化率)は24.1%と過去最高を更新した。1990年に12.1%だった高齢化率は12年間で倍になり、全都道府県で65歳以上の人口が14歳以下を上回っている。

高齢化に一段と拍車がかかるこの国に生きる私達は、一般的に、死はどこか他人事、まだまだ先のことと受け止めがちではないだろうか。そんな思いを胸に、京都市伏見区の社会福祉法人「同和園」附属診療所長で医師の中村仁一氏を訪ねた。中村氏が主宰する京都の市民グループ「自分の死を考える集い」は今月18年目を迎えた。

特別養護老人ホームの常勤医として多くのお年寄りの死を看取ってきた中村氏は、「今の日本人には『老・病・死』を自分で引き受ける覚悟がない」と指摘する。老も病も死も逃げられるものではない。しかし、現代人は医療に対する過度な期待を持ち、本来は一方通行であるはずの老いを、病気にすり替えて回復を期待する。高齢化社会の只中にありながら「老いが受容できなければ、死が受容できるはずがない」と同氏は語る。

アベノミクスの3本の目の矢「成長戦略」では、「健康」を成長戦略の柱の一つに据えている。「単なる長生き」ではなく「健康長寿」社会の実現を目指すという。

現代の価値基準は「健康」「若さ」「生産性」にあり、この基準に照らすならば、生産に参加できなくなった老人や病人は劣った者として排除される。ゆえに、中高年にはいつまでも若く元気を保つという無言の圧力がかかってくる。情報の洪水が、さらに健康不安を掻き立てる。

一方、年を取るということは生きる条件が日を追って悪くなることを指す。老いるとは健やかでなくなることだ。中村氏は「若さや健康のみを重視する価値観からの脱却が必要」であり、生産に参加するから尊いのではなく、どのような状態でも、生きているということには使命があり、存在意義があることを忘れないようにすることが大切だと語る。

医療保険制度の財源を支える労働人口が減少する一方で、高齢化で受益者は増えているため、医療費は膨み、健康保険制度は財政破たんの危機にある。日本医師会はTPP(環太平洋連携協定)参加によって国民皆保険は崩壊すると訴える。

医療を受ける側にも問題がある。老化は治るものではないが、病院に行って病名を付けてもらうと、そのうちなんとかなると考え、「お年寄りは医者の飯(メシ)のタネ」になっている。ただ「病名がつこうが、つくまいが、本人自身が治せないものは医療も治せない」と中村氏は言う。病気を治癒に導くのは、自分自身であり、自然治癒力だということを忘れてはならない。医療や薬はあくまでも脇役で主役は患者だ、と。

戦前の「鴻毛より軽い命」が戦後の「地球より重い命」へとコペルニクス的転回を経て、日本人は日常生活の場面から死を消し去った。かつては身近だった「死」は施設や病院など隔離空間に閉じ込められ「死の外注」が進み、死が日常の場面から追いやられた。

「死が非日常化されたため、本来自然であるはずの現象が、今や不安や恐怖の対象になってしまっている」と中村氏。医療現場でも実際に「自然死」を見たことがない医者が増えている。現在、日本人の在宅死は2割ほどで、残る8割は病院などの施設で最期を迎えている。若さや健康を価値基準とする社会に、医療への過剰期待も加わって、老も病も、場合によっては死もコントロールできるという幻想につながる。

「生老病死」は仏教で四苦と言われるが、この場合の苦は苦痛ではなく「ドゥフカ=思い通りにならないこと」を表す。年を取れば身体的に様々な不都合・不具合が起きてくる。何とかしてくれるとの期待から、医療にすがる人が多いが、「生老病死」は本来思い通りにならないのがあたりまえ。死にこだわるのではなく「死を視野に置いて今を生きることの重要性」を中村氏は説く。

死ぬところから現在を見て、今の生き方を点検し、必要であれば修正を加える──。今を修正しながら年を積み重ねれば、最期に目をつぶる瞬間、後悔することが減るだろう。さらに、老いや死に「あたりまえの日常性」を回復するためには、身近な人の死から目をそむけず、逃げず、よく見ておくことが必要だ、と中村氏は言う。(東京 10日 ロイター)


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