晴れ、27度、82%
Facebookで、よく動物虐待の記事がシェアされて流れて来ます。どういう虐待なのか、写真やビデオが付いているものもありますが、恥ずかしいことにこの手の記事を真っ向から見る勇気がありません。目を伏せてその記事を見ないようにします、読んでもないので、いいね、は押しません。
私が小学の3、4年頃ですから、昭和の40年代の初めのことです。我家の犬が、家出をしました。庭に放し飼いで門も閉まっていたのですが、発情期にはこうしたことが時々起こりました。ものの10日ほどで戻って来るのに、その時は戻って来ませんでした。両親が、保健所に捕まっているかもしれないと話しています。当時は犬捕りといっていました。夜中や早朝に犬捕りは街を廻るので、子供の私は話を聞くだけで見たことはありませんでした。保健所に我家の花子という犬がいるかどうか見に行くという両親に無理無理言って、一緒に連れて行ってもらいました。
福岡市の西のはずれ、今では立派なヨットハーバーになっているところにポツンと立っていた白い平屋の2棟の建物が保健所でした。周りに何にもありません。父はやっとそこへたどり着く道を探し当てたようです。車を降りると、大きい方の建物からは絶え間なく犬の鳴く声が聞こえて来ます。鳴き声と言っても遠吠えや嬉しい声とは違います。前もって連絡をしてあったのか、白衣を着た所長さんが犬たちにいる棟を案内してくれました。確か、ドアを開ける前にほんとに10歳そこらの私も一緒でいいかと、両親に尋ねていました。行きますと言ったのは、私です。
檻が通路をはさんで2列、どのくらいあったでしょうか、犬達がぎっしりと入っていました。どの犬も、こちらを見て寂しそうな諦め切った目をしていました。一番奥の檻には赤ん坊を産んだばかりの親犬が、乳を与えていました。花子はそこにはいませんでした。帰り道、車の後ろの座席で花子のことを心配するのではなく、今見て来た光景に心がぐったりと萎えていたのを覚えています。花子はそれから間もなく家に戻って来ました。そして、ひと月後には子供を産みました。
私の息子が幼稚園のときですから、昭和50年代の半ばのことです。東京に住んでいました。静かな住宅街に一匹、中型犬よりやや大きい野良犬がいました。あちこちの家の御勝手口で美味しいものをもらって、毛艶のいい野良犬でした。我家の夕飯時にもやって来ます。私が梅の木の下にかき集めた落ち葉の上で、夕日が当たる頃昼寝をしていました。息子と同じ幼稚園のお母さんが、その犬のことを保健所に通報したようです。そこのお嬢さんは小柄で、中型犬より大きいその犬を怖がったからだそうです。それから間もなく、静かな街に犬捕りの車が来るようになりました。追いかけられる犬は日に日に目が険しくなりました、いつも来る夕飯時には来なくなり、夜遅くやって来ます。気配で分かるので飛び起きて、ご飯をあげました。もう何年もこの街に住んでいる犬です。人間より抜け道をよく知っています。それでも、犬捕りの車が廻り始めると、私は後を追いました。もし捕まったら、私の犬だというつもりでした。どれくらいそんなことが続いたか、ある日雪が降りました。夜にやって来たその犬を家の玄関に入れました。その日から、我家の犬になったのが、写真右の「てつ」です。
「てつ」は追われている間、怯えたきつい目をしていました。少しずつ、元の目に戻りました。東京から福岡に連れて行き、香港に行く私たちは私の実家に「てつ」を預けました。写真は主人と息子が拾って来た「けん」と一緒に平戸にキャンプに行くために車に乗っているところです。「てつ」は、今も実家の庭に眠っています。
小さい時に見た保健所の犬たちの目、犬捕りに追われていた頃の「てつ」の目、虐待された動物たちに共通するあの物悲しい目、虐待も飼育放棄もなくなって欲しいと切に希望します。
Facebookの動物虐待の記事を見ることが出来ないのは、私の心にこうした弱いところがあるためです。