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まっかちゃんのブログ

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京の町屋、大阪の町屋

2012-03-05 00:21:29 | 社会・経済
2日(金)、大阪市立大学文化交流センターの専門家講座3月「生活科学コース《町家にみる庶民の暮らしと住文化》」の1回目「京の町屋、大阪の町屋」を受講しました。講師は、大阪市立住いのミュージアム副館長の新谷昭夫さんです。

庶民の伝統的な住居である町家について、建築的特色や空間構成のあり方、京都と大阪の違いなどを建物の写真や絵画資料などを用いて講義しました。内容は以下の通りです。

1、年中行事絵巻に描かれた町家
1)やすらい花の場面-『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社
2)馬長行列の場面-同上
3)正月毬杖の場面-同上
(参考)町家と農家の比較
  町家(住吉)、農家(千年家)

2、間取りからみた町家の種類
1)通りにわ形式-寛延3年(1750)うろこ形や五兵衛家指図(田中家文書)
2)通りにわ形式-宝暦10年(1760)山さき屋作兵衛家指図(田中家文書)
3)表屋造り形式-加賀屋清左衛門家指図(田中家文書)
4)大塀造り形式-林家住宅外観、林家住宅表座敷
5)大塀造り形式-仲屋住宅1階現況平面図

3、町家の空間構成
1)ケの空間ー長江家住宅間取り絵図(明治末期)
2)ハレの空間-『在京日記』宝暦7年(1757)7月25日条(聖護院宮の御峰入の行列に関する箇所)
3)ハレの空間-祇園祭礼図屏風(部分)
4)ハレの空間-『在京日記』宝暦6年(1756)6月6日条(祇園祭の宵山に関する箇所)
5)まとめ

4、町家の地域性
1)上方の町家-大坂建
2)大坂の町家-綴屋根:京都の町家(三上家)、大阪の町家(北垣家)
3)大坂の町家-壁塗込:京都の町家(秦家)、大阪の町家(北垣家)
4)大坂の町家-屋根材:桟瓦葺(京都)、本瓦葺(大阪)、鬼瓦(大阪)
5)その他

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<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか

2011-12-29 17:25:45 | 社会・経済
16日、立命館大阪キャンパスで、立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計/大阪学講座」5回目の「<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか-井上靖に始まり、司馬遼太郎で終焉するまで―」を受講しました。内容は以下の通りです。戦後大阪文学は、織田作之助、小野十三郎、井上靖に始まり司馬遼太郎で終焉した。織田作之助の「可能性の文学」は、大阪が投げつけた東京の権威的既成文壇への挑戦状であった。また、詩人の小野十三郎も「短歌的抒情の否定」を大阪から歌壇に投げつけた。井上靖は大阪毎日新聞社に勤め、阪急西宮球場で行われた「闘牛」に取材した短編を書いた。戦後の文学都市大阪が何故に熱気をたたえたのか。一つは、商工業都市大阪のバイタルで猥雑な地熱は若くて有能な作家たちのエネルギーを爆発さすにふさわしい都市だった。二つ目は、司馬遼太郎が人気作家になっても東大阪に居を構えたまま、東上しなかったことである。有能でありさえすれば大阪にあっても人気作家たり得ることを証した。その上、人は人を呼ぶ。司馬は多くの作家を引き寄せた。戦後大阪の文化と経済が共に元気だった時代である。山崎豊子の「花のれん」、菊田一夫の「がめつい奴」が大阪を”ど根性”と”がめつい”都市とイメージさせた。今東光は河内のイメージをフリーセックス地帯のように描出した。なぜ、文学都市大阪がその面影をなくしたのだろうか。多くの猥雑とど根性が描かれた60年代の高度経済成長後の70年以降、大阪の猥雑とど根性を必要とした文学の時代が過ぎた。96年に終生大阪を離れず、日本文学の灯台的役割を果たした司馬遼太郎が72歳で死去した。大阪から照らした文学の灯が消えたのだった。

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大阪におけるごみ問題の近現代

2011-12-12 12:59:53 | 社会・経済
11月28日、立命館大阪キャンパスで、立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の7回目を受講しました。「大阪におけるごみ問題の近現代」と題して、大阪大学文学研究科・助教の波江彰彦さんが講義しました。概要は以下の通りです。

Ⅰ 大阪市のごみ排出・リサイクルの現状
・1人当りごみ排出量 7大都市中最大
・リサイクル率は 7大都市中最低レベル
 ⇒現在の施策・取り組みにも原因があるが、大阪市のごみ管理がたどって来た経緯も考えられる。

Ⅱ 戦前におけるごみ管理
・直営化、ごみ焼却の実験
 1900(明治33)年、「汚物掃除法」制定をきっかけに、大阪市はごみ処理事業を直営化。同年、試験炉を建設してごみ焼却の実験を開始。
・ごみ焼却処理の推進
 1916(大正5)年以降、木津川焼却場と寝屋川焼却場を新設・増設。1935(昭和10)年度には、ごみの直接償却処理率は76.3%。
・戦時体制
 塵芥報国運動(有価物の徹底回収、塵芥の養豚飼料としての供給、ごみ焼却残灰の堆肥利用)により、1944(昭和19)年にごみ処理事業を全面中止。木津川第一・第二工場は、軍の指示により造船会社に貸与。

Ⅲ 戦後のごみ管理
①ごみ管理の戦後復興期
・ごみ排出・収集
 1946(昭和21)年6月にごみ収集作業を再開(混合収集)。収集・運搬フローは戦前を継承(肩引車で各戸収集→空き地・河岸で中継作業→陸路・水路で焼却場や処分地へ)。
・ごみ処理・処分
 1948(昭和23)年1月にごみ焼却処理を再開。木津川・寝屋川焼却場を復旧。ごみ・処分方法のメインは埋立処分(柴谷処分地、市内周縁部、戦災跡など)。堆肥としても売却、養豚でも利用。

②経済成長にともなう苦境期(昭和30~40年代)
・ごみ排出・収集
 1960(昭和35)年頃からごみ排出量が急増。ごみ収集車にロードパッカー車を導入。ごみの運搬ルートは水路から陸路へ。
・ごみ処理・処分
 市内の稠密化により埋立処分地が逼迫。市外へ用地を求める。埋立処分地をめぐるトラブル頻発(環境汚染、住民からの苦情、自治体間の対立など)。
 木津川・寝屋川焼却場の老朽化。デ・ロール式焼却炉(スイスの最新式型焼却炉)の導入をめぐる苦労(導入に向けての研究開始から清掃工場完成まで10年弱を要した)。1963(昭和38)年、日本初の全連続式焼却炉(国産炉)を備える清掃工場(住吉工場)が完成。

③ごみ焼却処理体制の確立期(昭和50年代~)
・ごみ焼却施設の建設
 1963(昭和38)年~1980(昭和55)年の17年あまりで10の清掃工場を建設。1980年、全量焼却体制を達成(大阪市が宣言)。2001年(平成13)年、11番目の舞洲工場完成。
・最終処分
 最終処分場は臨海部・海上埋立へ(南港、北港)。1992(平成4年)、フェニックス計画による処分教への搬入開始。

④ごみ管理システムの転換期(平成~現在)
・ごみ減量・リサイクルの推進
 1980年代、大量消費・大量廃棄社会の限界。1990年代以降、全国的にごみ減量・リサイクルが本格化。1995年以降、各種リサイクル法制定。
・ごみ減少局面の到来
 2000年以降、ごみ排出量は全国的に減少傾向に。要因はいろいろ(家電リサイクル法の効果、経済活動・消費の落ち込み、消費財の軽量化等)考えられる。ごみ焼却能力に余裕(余剰)が生じ、清掃工場を閉鎖する動きも。

Ⅳ ごみ減量・リサイクル
・大阪市のごみ分別収集
 普通ゴミ(可燃・不燃ごみの混合収集)、粗大ごみ(2006年に有料化)、空き缶(1994年)、空きびん(1994年)、金属製の生活用品(1994年)、ペットボトル(1997年)、容器包装プラスチック(2005年)、小物金属類の申込制収集(2011年から施行実施)
・大阪市のリサイクル活動支援
 1999(平成11)年、集団回収団体支援制度を開始。2006・2009年、支援内容(奨励金)を充実化。

Ⅴ まとめ
・大阪市におけるごみ管理のこれまで
 早期のごみ焼却処理体制の確立により、大量廃棄社会に対処(しかし、近年はオーバースペックに)。ごみ処理システム転換(適正処理からごみ減量・リサイクルへ)の遅れ(高水準の処理能力が転換への努力を遅らせた? 行政や市民に甘えがあった?)。
・大阪市におけるごみ管理のこれから
 行政・民間(住民)双方の取り組みに改善・向上の余地あり。他都市を見習えば、行政がやれることはまだある(施設のダウンサイジングや転換、分別収集の見直し、事業系ごみへの厳しい対処など)。集団回収活動の今後には期待がもてそう(「新しい集団回収のかたち」がみられるようになったいま、大都市の強みを生かしたい)。  

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大阪のインナーシティと都市再生の課題

2011-11-20 22:51:34 | 社会・経済
14日、立命館大阪キャンパスで、立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の5回目を受講しました。「大阪のインナーシティと都市再生の課題」と題して大阪大学大学院経済学研究科教授の高山正樹さんが講義しました。概要は以下の通りです。インナーシティとは、大都市圏における人口の郊外化とともに、中心市の都心部周辺地域が負の変化を起こした状態とかその問題自体を指す。
英国のインナーシティ白書(1977) ロンドン・ドッグランドは大英帝国繁栄の象徴的場所で、輸送革新に伴い衰退した。象徴的な場所としてウオーターフロントの再生を行った。カナリー・ウオーフを中心に金融業務地化(バンク機能の移転)、ドック周辺の労働者住宅地の再生と優良市街地への再生、ロンドン・シティ・エアポート、O2などコンベンション、メッセなどの新機能を創出した。インナーシティの形成 戦前期(特に大正期)に大阪東部の区を中心に町工場の立地による住工混在地域、臨海部の工場専用地、都心区(北区、中央区、西区)を除く区部。これらの地域が高度成長終焉後に衰退した。優良企業が流出し、人口の郊外化(私鉄沿線へ人口の流出)、釜ヶ崎(あいりん地区)が存在した。人口動態 2005年~2010年の大阪市の人口増加は37,560人。人口増加は主に都心区(中央区、西区、北区、浪速区、福島区)で、マンション建設に伴う社会増加(2000年以降)である。他の大都市に比べて年少人口に対して高齢者の割合(老年化指数)が高い。労働人口、雇用者数(常住地)の減少、昼間就業者の減少、サービス業就業者の増加。失業者数が多く、失業率、特に若年者の失業率が高い。総人口に占める外国人数の割合は高いが、外国人数(約10万人)には大きな変化はない。被保護所帯・人口 全国的に保護世帯・人口は増加、政令都市などの大都市部で増加。特に大阪市を中心に大阪府下では増加。地域的には釜ヶ崎を含むインターシティ。このことが大阪市財政負担の一因である。経済、財政の現状 卸小売産業とサービス業が中心で、製造活動が衰退した。市税収入の減少(平成23年度歳入、1兆7205億円)の一方で扶助費や公債費が上昇し、経常収支比率が上昇(100以上)し、財政構造が硬直化した。この背景には税の配分構造、行政の仕組みという基本的問題と大都市圏経済という問題がある。経済のグローバル化や産業構造の高度化への立ち遅れがある。大阪再生へ 外国人も含めて若者から高齢者まで多様な年齢の人々が住み、住民にとっては、美しいと感じることのできる街、憩える街、住んで楽しい街の創造が求められている。そして、来訪者にとっては、再訪したい、住みたいと思える街づくりを考える必要がある。 生活を支える仕事(産業)の創出も必要である。現下の経済活動のグローバル化を考えれば自ずと経済成長戦略分野(集客・観光、環境・エネルギー、健康・医療、クリエーティブ・デザイン)が求められる。
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城下町大坂~江戸時代の大阪を考える~

2011-11-01 21:17:34 | 社会・経済
10月31日、立命館大阪キャンパスで、立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の3回目を受講しました。「城下町大坂~江戸時代の大阪を考える~」と題して大阪大学大学院文学研究科教授の小林茂さんが講義しました。概要は以下の通りです。

大阪城は大阪のシンボル。現在の大阪の町は大坂城の城下町として発展した。しかし大坂は「天下の台所」、「町人の町」などと呼ばれ、武士の影が薄い。
豊臣時代の大坂城は秀吉入城から大坂夏の陣までのわずか32年。これに対し、徳川時代の大坂城は夏の陣から大坂城明け渡しまでの250年以上。しかし、話題になるのは豊臣時代の大坂城。

江戸時代、大坂城内にいたのは、
大坂城代:譜代大名が交代で就任。任期は特になく、最長21年、延べ70名が就任。
大坂在番
 大坂定番:大名(1~2万石)、定まった任期なし、2名。
 大番:旗本、任期1年、2組。
 加番:大名、任期1年、4名。

大坂城代のもとにいる幕府諸役人
大坂在番
 定番(2名)+与力(各30騎)・同心(各100名)(大阪在住)
 大番頭(2名)+与力(各10騎)・同心(各20人)
 加番
 大坂町奉行(2名)+与力(各30騎)・同心(各50名)(大坂在住)

各藩の大坂蔵屋敷
主として米販売、その他専売品の販売、江戸仕送り・借銀、京都・大阪での買い物。約85の蔵屋敷。

大坂は多くの武士にとって一時的勤務。大坂城代・大坂町奉行は譜代大名・旗本の出世の階段。
 →「名君」の出る可能性がない。
 名城代、名奉行がいても長く記憶されない→秀吉や秀頼、淀君のような話題性に欠ける。

大坂の武士の数は町人に比べて少ない。家族も含めて約1万人。
 →武士の影が薄い。
 武家屋敷は退去・入居を繰り返す仮住まいとしての性格が強い。
 大番・加番の場合は「小屋」と表記。

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