まっかちゃんのブログ

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『生きる』これから

2017-02-25 17:12:32 | 文化・文学・アート
 2月24日、立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「『生きる』これから」を受講しました。いつもの通り会場は満席した。講義の内容は以下の通りです。

 14時に木津川計さんが入場されました。会場は補助椅子も含めて満席でした。14時、会場が真っ暗になり、やがて明るくなり、木津川さんが登場しました。「大往生かポックリ死か」について講義を始めました。
 若者は人生いかに生くべきかを真剣に考え模索する。一方、高齢者はいかに死ぬべきかを考えめぐらす。人生の終盤を迎えると、人間はその幕のひき方を考える。長生きして平穏に退場したい人は<大往生>したいと願う。だから、永六輔さんの『大往生』(岩波新書、1994~95)が大ベストセラーになった。

 NHKで週一回レギュラー担当している「ラジオエッセイ」(関西エリア)で、永さんの『大往生』を参考に、大往生の条件を五つにまとめた。大往生の条件は、①苦しむことのない安らかな死 ②男は85歳以上、女性は90歳以上 ③悼まれる死 ④寝たっきりで一年まで ⑤身近な人に看取られる
ところが、④「寝たっきり一年まで」が長すぎる。私はコロッと逝きたいという人が少なからずいる。いわゆる「ポックリ死」を願う人たちがいる。ポックリ死の条件は、張りのある日常を送ること。(1)趣味 (2)学習 (3)スポーツ (4)献身

 『婦人公論』(2010年9月号)に、埼玉県帯津三敬病院名誉院長・帯津良一氏が「ポックリ逝くための7つの習慣」を載せている(詳細省略)。病院では年間100人以上の患者が亡くなるが、たとえ病気になっても、自分の生命エネルギー高めることを最後まで意識してきた人は、みな間違いなく「ポックリ」と逝き、いい死に顔である。

 木津川さんが「1952年、黒澤明監督の『生きる』を語り始めました。
主人公は市役所で市民課長を務める渡辺勘治。毎日変わりのない日常を過ごし、黙々と仕事をするばかり。そんな時、身体の不調を感じ病院に行き、自分が胃がんであることを知る。あまり時間が残されていないことを知った渡辺は、これまでの人生を考えて苦悩する。
 初めて欠勤をし、貯金から5万円をおろし夜の街を歩く。知り合った小説家と遊び回るも空しい気持ちが残る。偶然、街で出会った同僚の女性 小田切とよと何度か食事を一緒にする中で、その若さ・生命力に魅かれていく。渡辺は、とよに胃がんであること・生き方への悩みを告げる。そこで、とよから「何か作ってみたら?」と提案され、渡辺の新たな人生が始まる。
 数日ぶりに出勤し、渡辺は人が変わったように仕事に打ちこみだす。以前から、たらいまわしにされていた公園建設に精力的に取りくみ、各方面に粘り強く交渉し、公園の完成を目指す。やがて命をかけた努力が実り公園が完成する。ある雪のふる晩、その公園のブランコに座り揺られながら、渡辺は息を引き取る。

 公園を作ることを目標に、命をささげた。渡辺は大往生ではないが、ポックリ死に近い満足な死であった。
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名作「私は貝になりたい」は何が不足しているのか

2016-06-30 00:02:09 | 文化・文学・アート
6月24日、立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「名作『私は貝になりたい』は何が不足しているのか」を受講しました。雨にもかかわらず、補助椅子を追加した会場は満席でした。

14時、会場が真っ暗になり、やがて明るくなり、木津川さんが登場しました。「私は貝になりたい」を語り始めました。
主人公の清水豊松は土佐の漁村で散髪屋を営んでいたが、召集されて二等兵になった。米軍機による空襲が激化するある日、B29一機が日本の対空砲撃で墜落、パラシュートで脱出した搭乗員三人が捕虜となった。
日本軍はその三人を立木に縛りつけるが一人は既に死亡、あとの瀕死の二人を初年兵の突撃訓練の標的にした。上官の命令で清水豊松は標的の米兵を刺殺、その責任を問われ、戦後、戦犯として絞首刑の判決を受けた。直接命令した軍曹は重労働三十年、上等兵は二十五年なのに、命令された豊松は死刑であった。処刑の前夜、豊松は妻と男の子に宛てた遺言を書いた。「生れ変われるなら、私は貝になりたい」と。

「私は貝になりたい」は昭和33年(1958年)東京放送(現TBS)がシナリオライター橋本忍の脚本で岡本愛彦が演出、テレビドラマとして放送された。その芸術祭賞文部大臣賞」を受賞した。翌年、テレビの脚本通りで東宝が映画化、橋本忍自ら監督として制作した。
黒澤明監督は「根幹となるものがない。これでは貝にならない」と批判した。橋本忍自身も「何かが足りない」と言っている。

続いて、1959年にイタリアで制作・公開された映画「ロベレ将軍」(同年9月ヴェネツィア国際映画祭において上映され、金獅子賞を受賞した)を語り始めました。
第二次大戦末期の1944年、連合軍は南伊を解放し、ナチの支配する北伊に迫っていた。連合軍は北伊のパルチザンと連絡をとるため、イタリア人の将軍ロベレを秘かに南伊に潜入させた。ところが、将軍はナチの一分隊により発見され射殺されてしまった。ナチ司令官ミューラー大佐はニセのロベレ将軍をしたてて、彼をオトリにパルチザン組織を探ることを思いついた。捕まっていた詐欺師のバルトーネを、無罪放免と引き換えに替え玉に選んだ。
ある日、九人の捕虜が刑務所に送られてきた。その中には、ファブリッツォという名の、パルチザン指導者がいるのだが、それが誰かはよくわかっていなかった。ファブリッツォが獄中でロベレと連絡をとるだろうと考えた大佐は、バルトーネに警戒を命じた。獄内で接触をとって来た受刑者がバルトーネのミスから拷問を受けるが、それでも口を割らずに死んで行く。またロベレ将軍の夫人からは愛情と敬意に満ちた手紙を受取る。こうして将軍をめぐる人たちの勇気と忠誠心を目撃するうちに、バルトーネは心中に愛国心がわき起こってくるのを感じ始める。そして彼はロベレ将軍として処刑された。

「何が足りない」のか。同じ年に作られた二つの映画であるが、「戦争にどう向き合うのか」二人の死に方が異なる。「命ぜられて死ぬ」と「自ら死ぬ」。
野坂昭如が「気が付いた時には戦争が始まっていた」。1960年、丸山眞男は「不作為の行為」について語っている。「しないことがやはり現実を一定の方向に動かす意味を持つ」と。
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『番町皿屋敷』異聞

2016-04-24 00:26:20 | 文化・文学・アート
4月22日、立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「『番町皿屋敷』異聞」を受講しました。補助椅子を追加した会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。

14時、会場が真っ暗になり、やがて前面だけが明るくなり、木津川さんが登場しました。
初めに、落語の「皿屋敷」を語りました。続いて、お菊という女の幽霊が井戸から現れ、皿を数えて怨念を訴える怪談「番町皿屋敷」を語りました。日本の48地域に皿屋敷伝説がある。

恨みなしでお菊が死んだ物語を語りました。青山播磨と腰元のお菊は相思相愛の仲であった。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割った。しかし、播磨は「たかが皿一枚のこと」とお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。お菊は、播磨の真意を探るために、「皿が大事か私が大事か」と皿を割ったと言う。男の誠を疑られた播磨は激怒してお菊を斬ってしまった。

なぜ幽霊は女ばかりなのか。男女差別のある限り女は辛抱を強いられ、死んで幽霊となり恨みを晴らす。性差別がある限り女の幽霊はこれからも出る。
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わが街-わが大阪に与ふる哀歌ー

2016-03-01 18:00:41 | 文化・文学・アート
2月26日、立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計ゆきしものへのバラード」の第6回 「わが街 ーわが大阪に与ふる哀歌-」を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。

船場型文化の衰退と帝塚山文学への希望
大阪の人口は1955年(昭和30年)に462万人の人口が1970年には762万人へ、15年で300万人増加した。1975年以降、漸増しつつこの30年間は強含みの横這い、2010年(平成22年)の886万人をピークに2015年は883万人と減少に転じた。大阪は最盛期を過ぎ、長期的に見ると衰退期に入った。高齢人口の増加と生産年齢人口の急減が大阪の衰退に拍車をかけている。

1960年代以降の社会的人口増が”異邦人”的大阪人を大量に生み出していくにつれ、大阪の風俗・習慣がしだいに見失われていった。ことに伝統的大阪らしさを伝えた職住一体の船場が業務ビジネスゾーンのビル街(町屋からビルへ:人が住まなくなった)になるにつれて、大阪の変わり方は顕著になっていった。

都市のグレード(都市格)は、その都市の現代に伝統が共存しているかいないかで決まる。大阪の伝統芸能を衰弱させたら大阪の都市格は低下する。大阪の文化全体を見渡すと、次の文化類型がある。
 1)宝塚型文化(都市的華麗)ー宝塚歌劇、OSK、ミュージカル、現代演劇など。
 2)河内型文化(土着的庶民性)ー漫才、上方落語、浪曲、講談、マジックなど。
 3)船場型文化(伝統的大阪らしさ)ー文楽、上方歌舞伎、上方舞、地歌など。
 4)千里型文化(学術研究機能性)ー能、狂言、四天王舞楽など。
これらの4類型の将来を予測すると、大阪の都市格に最も影響を及ぼす 3)船場型文化に対応する伝統芸能の存続が一番憂慮され、ついで 4)千里型文化の、ことに能が危ぶまれる。

大阪の都市格は京阪神の中で一番低い。その都市格を定めるのは次の3条件を満たしているかどうかに因ることが大きい。すなわち、1)文化のストック、2)景観の文化性、3)発信する情報である。大阪はこれらの3条件で京都、神戸に後れをとっているが故に都市格を低めている。どうしていけばいいのか、一つは船場型文化の芸能を守り、千里型文化の学術研究機能性を強めることだ。

大阪の困難は、大阪のイメージが”タコ焼き吉本タイガース”に集約されたことにも負うている。あまりに吉本情報に特化し、猥雑な事態の発信が多すぎたのである。1960年代以降に社会化された”ど根性”や”がめつい”や”ど派手”という大阪観を払拭するために、この都市の良さを発信していく必要がある。そのとき鮮明になってきたのが<帝塚山派文学>の見忘れられていた存在である。大阪が目指すべきは、”がめつい都市”から”含羞の都市”への動きである。
詳細は[こちら]をご覧ください。
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地域語(方言)ー滅びへの弔鐘が-

2015-10-25 15:34:43 | 文化・文学・アート
23日、立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計 ゆきしものへのバラード」の第4回 「地域語(方言)ー滅びへの弔鐘が-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

私(木津川さん)は「方言」という言葉を使わない。なぜなら標準語以外は地方の言葉だとする昔の帝都意識がもたらせた用語故に「地域語」と呼んでいる。なぜその標準語がつくり出されたのかは明瞭で、近代国家に発展させるには言語の統一が肝要だった。東京の山手辺りの言葉を標準語と定め、普及させていった。従って、標準語もまた地域語に過ぎない。

標準語は別だが、地域語はどんどん衰弱する。ユネスコは2009年、世界で約2500の言語が消滅の危機にあると指摘した。その中にはアイヌ語や沖縄地方の「方言」、東京八丈島の「方言」など国内八つの言語や「方言」が含まれる。八丈島の島ことばには縄文時代の言葉が残っている。

標準語・共通語では語れない言葉の機能が地域語にある。地域語はその他の生活や文化と一体である。織田作之助の小説は登場人物に大阪弁を喋らせたから大阪の小説になった。なかにし礼の『長崎ぶらぶら節』も完璧の長崎弁で書かれ、宮尾登美子の『鬼龍院花子の生涯』は土佐弁、谷崎潤一郎の『細雪』は船場ことばを話したからその地域の文学足り得た。

「大阪さかいに京どすえ、長崎ばってん、江戸べらぼう、兵庫神戸のなんぞいや」と各地に特徴的な基幹語があったが、「べらぼう」は失われた日本語の部類に入っている。大阪弁の「さかい」や「おます」「なはれ」を使用しない20代は80%から90%に達しようとしていた。1990年の調査である。(『方言は絶滅するのか』真田信治、PHP新書)

朗読は日本語の美しさを標準語で読む。そこに朗読の神髄があり、所以がある。しかし、全国に広がる朗読家は地域語を衰弱させる役にも努めてきた。朗読家が標準語の読みをマスターするのは、当たり前のことだ。その努力と同じように、住む地や故郷の地域語を語り、詠み続けることが豊かだった地方文化を存続させることにもなる。

八丈島の島ことばをCDで聴き、ゲストの木崎幸子さんが秋田弁で「花さき山」と「八郎」を朗読しました。また、言葉の魔術師と言われたミス・ワカナの「全国婦人大会」CDのを聴きました。「花さき山」と「八郎」を秋田弁で聴いて、その土地にしかない表現があり、共通語では細かな気持ちを表せないことが良く分りました。
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