◎2024年5月29日(水)
大慈寺(9:25)……ふれあいの道合流(9:59)……諏訪岳(10:19)……京路戸峠(10:51)……貝吹鳥屋(11:35)……京路戸峠(12:02)……村檜神社(12:35)……大慈寺(12:50)
岩舟の諏訪岳には特に行きたいわけでもなかったが、29日は暑くなりそうだし、長時間歩きは避けたく、昼過ぎの用事もあるので近場の山で済ませたい。しばらく行ったことのなかった諏訪岳がなぜか浮かんだ。どうせなら唐沢山までと思うのが普通だが、足が車では、戻ることを考えれば、長くなってしまうので、出発から2時間程度歩いたら戻ることにする。まさか諏訪岳まで一時間もかかるまい。その続きは、後日、唐沢山側から登って埋めればいい。ここで「埋める」と記したのは、諏訪岳と唐沢山の間には小ピークがいくつもあり、それぞれに山名があるらしく、自己満足ながら、歩く以上は、それらを確認しておきたいためである。
(大慈寺本堂)
前回は、とはいっても17、18年前になるが、村檜神社から登ったので、今回は大慈寺から登ることにする。この大慈寺は聖武天皇の頃、行基によって建立され、以降、最澄、円仁、一遍といった多くの名僧が関わった古刹らしい。弘法様の名がないのが不思議だが、伝教様が行っていれば、不仲の間柄にある空海は立ち寄りもすまい。気にはしたろうが。ここで余談。小野小町がこの地の岩舟で晩年を過ごし、自死したという伝説があるようだが、これは眉唾もので、小野小町の墓はもっともらしい逸話とともに全国にあるし、小町の生誕もまた不明で、秋田のドンパン節には<小野小町の出たところ~>の一節とある。これとて確証はなく、生涯は謎多き女性だったようだ。同じようなことが紫式部にもあり、下野市の国分寺跡にも式部の墓がある。わざわざ見に行ったことがある。
(円仁像)
(円仁堂)
(薬師堂)
(かわいい花が咲いている)
(相輪塔と開山堂)
(小野寺稲荷)
(「やすらぎの遊歩道」とのこと。確かに暑くなければ安らぐと思う)
(またいで通過。余談だが、秋田では、マムシのことをクソヘビと言っていた)
(観音堂)
(奥の院)
(奥の院から。東北道が見えている。車の騒音はここまで届いている)
円仁(慈覚大師)像、円仁堂、薬師堂、ライシャワー記念碑、相輪橖(塔)と開山堂、小野寺稲荷と上がるにつれて見どころが続き、寝そべったシマヘビを避けながら観音堂。たいした高さを登ったわけではないが、暑い陽があたってすでに汗だくだ。これで終わったわけではなく、フィニッシュは岩の上に建つ奥の院。宝篋印塔があった。円仁の座禅修行の場だったとのこと。一つずつ、説明版を読んでいれば時間もかかる。そこで感心しながら突っ立ったままでも汗はかく。
(ヤブめいた道を登る)
(諏訪岳だろうか)
(村檜神社からのふれあい道が右下から上がってきて合流。今回は、ここが一番風通しが良かった。もっとも帰路では風が消えていた)
すでに手拭いはぐっしょりになり、頭の帽子の隙間からは汗が流れ落ちる。この先はヤブめいてはいたが、間もなく、村檜神社から続くふれあい道に合流した。ふれあい道は樹林の中の日陰を通っていて、風も流れていた。
(諏訪岳分岐の手書き案内。諏訪岳の先に×印があるのが気になった。まさか、そちらを下ることになろうとは)
(特に急とは思わなかったが、ロープがあるから急なのだろう)
(何か知らないが)
(石祠を見かける。扉には逆卍が記されている。ナチスのハーケンクロイツみたいだが、卍の異体字でもあるようだ)
ほどなく、諏訪岳の登り分岐になった。諏訪岳目的で来たのに、巻き道を行くわけにもいくまい。きついなとは思った。現にロープ場が3か所にあった。ロープは使うまでもなかった。というよりも、ロープは右手にあり、ストックはいつも右手だけのこと。何度か立ち休みをし、ようやく上が開けたところが見えた。その間、気づかずのうちに風は消えていた。
(緩くなったので山頂かと思ったがまだかいな)
(この藤坂RGとは?)
(ようやく諏訪岳に到着)
(山頂から。左奥は富士山ではなかろう。浅間山だろう。右手には赤城山も見えていた)
(山神石碑)
緩くなったのに山頂はまだ先だった。岩が現れ、石祠も見かけた。今年の三月にここを歩かれたぶなじろうさんは、この石祠の扉を開けたら何もなかったとのこと。屋根の造りからして、神社のようだ。ということは、村檜神社がらみなのかもしれない。年号は弘化と読める。幕末も近い頃だ。
右下に向けて「藤坂RG」の手書きプレートがあった。RGとは何なのか知らず、まさか<Rojin Group>なのかなと思ったりもしたが、そちらを見ると、踏み跡レベル未満の窪みらしいのが下っていた。帰ってから調べると、岩登りの練習場らしい。まだかと思っているところで、ようやく諏訪岳山頂。だれもいない。かすかな記憶はあった。特徴的だった赤文字の大きな山名板はなくなっている。山頂の広さは八畳一間。標柱のない四等三角点標石がポツンとあり、それよりも一回り大きな角張った石碑が後ろにあり、かろうじて「山神」らしき文字が読み取れる。備え付けの寒暖計は20℃を指している。少し開けた南から風がかすかに流れ込む。水を飲んで休憩し、いつものセルフ撮り。顔は逆光で暗くなっていた。汗が相変わらずボタボタ落ちる。
(これが×印の正体だったが、そんなことはこの時点では知らず、京路戸公園には行けないだけと理解して下った)
(人気の低山なのに道が細い。間違いに気づいて戻る)
(再び山頂。左から登って来ていたが、ここを下ればよかっただけのこと)
長居は無用。自分で決めた往路の持ち時間はあと一時間。この先がいけなかった。いつものパターンだ。そのまままっすぐに下った。方向としては北。かなり急だった。5分ほど下って、踏み跡が細いのはおかしいなとGPSを見ると、とんでもない方向に下っていた。山頂に戻る。また汗だく。よく確認すると、南西に下る太い道筋があった。時間と体力をロスした。「シカを追う者、山を見ず」のことわざは、自分にはいつものようにしかりだ。
下って行くと、暑い、暑いと言いながら親子連れが登って来た。今回、唯一出会ったハイカー。他にハイカーではなさそうなオバちゃん一人。20℃とはいいながらも、こう陽射しが強くて風もないのでは、体感もまた30℃近くなる。夏の低山に涼を求めること自体に無理がある。これからは長い歩きの里山探索なんかしていれば、身体に変調をきたすだろう。今年は例年超えの猛暑らしい。さりとて、車で行けるのならともかく、下界より10℃以上は確実に気温の低い2000mを超える高い山に登る自信はない。ただ、この標高気温とてあてにはならず、知り合いに、真夏の常念岳で5日過ごし、熱中症になって下山したのがいたが、体調の不調は暮れまで続いたとぼやいていた。気温は低くとも直射日光は強くなる。
(景色を眺められるスポットは限られている)
(諏訪岳の巻き道に出た)
西側の展望がたまに開ける。木立が続いてすっきりはしない。三毳山はどこかなと探しても、西側に見えるはずはなく、かろうじて赤城山と浅間山だけはわかった。そのうちに視界も幾分広くなり、右下にソーラーパネル群と佐野の街並み。この先の稜線を眺めると、電波塔が見える。後で調べたが、大櫃鳥屋という名のピークらしい。自信はない。
巻き道に合流。諏訪岳には、こちらから登った方が楽なようだ。持ち時間の残りはあと40分。せめて292m標高点まで行っておきたい。
(京路戸峠。初めて諏訪岳に来た時には、京路戸公園からここに出ている。ここまでわずか10分くらいだった)
(巻き道を横目に尾根登り)
(妹背山。山名板見つけられず)
(京路戸とんび山)
(とんび山にはこんなのがあった)
京路戸峠は素通り。ここまで、峠まで0.7kmやら0.3kmの標識は見かけたものの、見損じたのか、ここに京路戸峠と記された表示板は見かけなかった。峠はここでいいのか気になった。ベンチがあるのでそうなのだろうと思うしかない。
すぐに巻き道はとおらずに尾根を登る。苦労もせずに小ピーク。確か妹背山のはずだが、日陰になっている木に同化していたのか山名板は見つけられずに先で巻き道に下る。次のピークは藁の囲いに収まった紙垂が置かれているが、ここは京路戸とんび山。紙垂があるくらいだから信仰の対象なのだろう。
(この先、階段が結構出てくる)
(階段を登ると北見明岳)
(この先、きつそうな気配)
木の階段が出てくる。歩幅が合わずに脇を登る。登り切ると北見明岳。ここに巻き道はなく、だれもが通るピークだ。ここまで、樹林帯の無風の中の歩きが続き、いささかうんざりしていたが、前方がちらりと見えた。ここよりも少しばかり高いピークが見える。短時間ながらも、何となく飽きてきた。やっていることにあまり意義を感じない。ただ、やってしまった以上はやるしかない。つまらなく感じる山だからこそ、何らかの目的を持って歩かなきゃ余計につまらなくなるものだ。文句たらたらで二度と行かないでは、山の立場からすれば立つ瀬もあるまい。自然が造り上げたのだから。
(牛ヶ背)
(南見明岳)
少し下って登りかけると牛ヶ背。ここもピークの一つなのだろうか。この辺は微妙な高低差のところを歩くからか、地形図では読み取れない。そしてまた歩幅の合わない階段を登ると南見明岳。11時24分。出発からあと一分で2時間だが、もう一山行ってみるか。しかしながら、ここの尾根歩きはまったく展望がない。暑くとも、景色を眺めながら歩くのを期待したのは大間違いだった。そのためなのか、風の通りが悪い。
(今日のところはこれが最後だな)
(意外にきつかったので右から巻く)
(貝吹鳥屋)
(山名板)
また階段を上がって、巻き道から離れて尾根道へ。ここは少しばかりきつかった。そのため、途中から薄い踏み跡の直登は避け、踏み跡のしっかりした右手から巻き、戻る形で貝吹鳥屋・292m標高点に到着。11時35分。何もない、山名板があるだけのピーク。当然、展望もなく、強いて記せば、新緑がきれいなだけ。出発から2時間経ったから引き返そう。先に行ったとしても、この暑苦しさでは唐沢山はまだ遠くきりがなく、これ以上に、汗みずくで歩きたくない。なんとか風にあたりたい。これが願望だ、
ここでまたミス。気がつけば北尾根を下っていた。諏訪岳でもミスしたのは北尾根。余程に頭のコンパスは北向きなのだろう。ただ、このミスには幸いなことがあった。京路戸峠あたりから腹がグズグズし、歩きながら適地を探していたが、登山道の脇では、離れていても落ち着かないだろうと我慢していた。諏訪岳で親子連れに会わなかったら、その辺で済ませたかもしれない。ここでミスに気づき、だれかが歩いて来るはずもないと安心して済ますことにした。緊急時はいつも速攻だ。ヤレヤレ落ち着いた。思えば昨年11月の晃石山以来だ。あの時は、紅葉の時期だったためハイカーも多く、電波塔から大分離れたヤブの中だった。こういうのはクセなのだろう。そうならないように、出がけにはかなり気を遣うが、トイレを見て条件反射的になってくれればありがたいものを、何も感じることなく、山中に入ってから、こんな事態になる。体験談には事欠かないが、この話はもうやめよう。ここで、なぜか知ったかぶりを記したくなった。もう何十年も前に西丸震哉の随筆を読んだら、古代人は、その際、集団から離れ、立ったまま、あるいは歩きながら用を足していたと書かれていた。犬とてしゃがむ。余程に消化も良かったのだろう。何ということもない、それだけの話だ。実は、この日の夕食は妻と久しぶりに外食したが、隣の席で、外人の小娘相手に博学ぶりを披露しているオヤジが、「トイレ」と「お手洗い」の言葉の使い方についてクドクドと説明していた。声も大きく、まる聞こえ。不快で、いい加減にうんざりして、「今、食事中ですから、トイレの話はやめてもらえませんか」と文句を言いに行った。二人はバツが悪くなったのか、すぐに店を出て行った。小娘は「スミマセンデシタ」とオレに頭を下げた。その数時間前のオレは、トイレ、お手洗い、便所、御不浄といった施設の範疇ではない自然の中だった。
(ふれあい道の銘板)
(京路戸峠まで0.4kmとあるから、諏訪岳か?)
帰路はひたすら巻き道を歩いた。小ピークを通らざるを得ないところもあった。貝吹鳥屋からの巻き道との合流点には、ふれあい道の銘板が置かれ、村檜神社まで2.3kmとあった。ここのふれあい道は村檜神社と田沼駅を結んでいるようで、ここから田沼駅までは5.0KMになっている。つまりは全長7.3km。神社までの2.3kmはえらく長く感じた。景色もない樹林の中を延々と歩くから余計だ。
(峠通過)
(諏訪岳の登山口も素通り)
(ここで三毳山を発見)
京路戸峠を通過し、諏訪岳の登り口も素通り。チラチラと右に見える景色には足を止めた。神社まで0.7kmの地点に差しかかる手前だったろうか。年増の女性とすれ違った。この女性、服装からしてハイカーでないことは確か。手に小さな荷物を持っているだけだった。どこに行くのだろうと思ったが、時刻は12時15分くらいのことで、想像をたくましくすれば、山仕事をしているダンナに弁当でも持って行くのだろうか。だが、道中で正午の時報は聞こえたが、山仕事の音を聞くことはなかった。近道でここを通ったとすれば、相当に屈強な女性なのだろう。
(村檜神社に下っている。とにかく風もなく暑い)
(石祠があるからそろそろ神社だろうか)
大慈寺分岐を過ぎる。涼しくなるのを期待したのに、風はすでに消えている。石祠があった。胴体部の両サイドには、花のような絵柄が彫られている。その先は道があちこちに分岐して、どこを行けばいいのか悩むところだが、こういう標識のないところは大方が先で合流する。都度に幅の広い方を下る。
(西宮神社)
(まさか紅葉してんじゃないの?)
(村檜神社)
(新緑モミジ)
(ここに塔があったのだろう)
(鳥居)
西宮神社に到着。これは何なのか、後ろの樹の葉が紅葉しているかのようだ。そして村檜神社。人の気配はまったくない。ひっそりと佇んでいる。創建は646年とのことで、隣の737年の大持寺よりも100年近く古い。見どころがもっとあるかと思ったが、それは残念ながらなかった。無意識のうちに大持寺と比較してしまったからだろう。ところで、恥ずかしながら「村檜神社」の読み方を知らなかった。「ムラヒノキ」では語呂が悪く、「ムラヒ」なのかなと思ったりしたが、確かに「ムラヒ」だった。
(大慈寺。ここにも紅葉)
(アップで)
大持寺に戻る。さっきから不思議だったが、ここでも色のついた葉があり、よく見るとモミジだった。秋のモミジとは種類が違うのだろうか。村檜神社には新緑のモミジもあり、その時季にはかなりきれいだろう。
(小野小町の墓の看板。矢印の方向には民家)
寺の駐車場に着いて、一服して休んでいると、近くに<小野小町の墓>の看板が見えた。行ってみた。だが、矢印の向いた方向は民家があり、周囲を見ても墓がどこなのかわかりかねて断念。後で調べると、あぜ道のようなところを行くようで、お堂風になっているらしい。
そのまま帰宅。車載温度計はすでに32℃になっていた。途中のコンビニでタバコ買いついでに冷たい飲料でもと思い、セブンに入ろうとしたら、オッさんが店からアイスクリームを舐めながら隣の車に戻って来た。迷わずにアイスにした。久しぶりに買ったら、150円くらいだったのが300円になっていた。知らぬ間に物価がとんでもなく上がっている。物価どころではない。先日、市から届いた介護保険料は39%の値上げになっていた。他の自治体に比べても高過ぎる。桁が違うのではあるまいか。アイスを舐めながら余計なことをぼやいてしまった。
(今回の軌跡)
この地図は電子地形図25000(国土地理院)を加工して使用しています(令和元年手続改正により申請適用外)
大慈寺(9:25)……ふれあいの道合流(9:59)……諏訪岳(10:19)……京路戸峠(10:51)……貝吹鳥屋(11:35)……京路戸峠(12:02)……村檜神社(12:35)……大慈寺(12:50)
岩舟の諏訪岳には特に行きたいわけでもなかったが、29日は暑くなりそうだし、長時間歩きは避けたく、昼過ぎの用事もあるので近場の山で済ませたい。しばらく行ったことのなかった諏訪岳がなぜか浮かんだ。どうせなら唐沢山までと思うのが普通だが、足が車では、戻ることを考えれば、長くなってしまうので、出発から2時間程度歩いたら戻ることにする。まさか諏訪岳まで一時間もかかるまい。その続きは、後日、唐沢山側から登って埋めればいい。ここで「埋める」と記したのは、諏訪岳と唐沢山の間には小ピークがいくつもあり、それぞれに山名があるらしく、自己満足ながら、歩く以上は、それらを確認しておきたいためである。
(大慈寺本堂)
前回は、とはいっても17、18年前になるが、村檜神社から登ったので、今回は大慈寺から登ることにする。この大慈寺は聖武天皇の頃、行基によって建立され、以降、最澄、円仁、一遍といった多くの名僧が関わった古刹らしい。弘法様の名がないのが不思議だが、伝教様が行っていれば、不仲の間柄にある空海は立ち寄りもすまい。気にはしたろうが。ここで余談。小野小町がこの地の岩舟で晩年を過ごし、自死したという伝説があるようだが、これは眉唾もので、小野小町の墓はもっともらしい逸話とともに全国にあるし、小町の生誕もまた不明で、秋田のドンパン節には<小野小町の出たところ~>の一節とある。これとて確証はなく、生涯は謎多き女性だったようだ。同じようなことが紫式部にもあり、下野市の国分寺跡にも式部の墓がある。わざわざ見に行ったことがある。
(円仁像)
(円仁堂)
(薬師堂)
(かわいい花が咲いている)
(相輪塔と開山堂)
(小野寺稲荷)
(「やすらぎの遊歩道」とのこと。確かに暑くなければ安らぐと思う)
(またいで通過。余談だが、秋田では、マムシのことをクソヘビと言っていた)
(観音堂)
(奥の院)
(奥の院から。東北道が見えている。車の騒音はここまで届いている)
円仁(慈覚大師)像、円仁堂、薬師堂、ライシャワー記念碑、相輪橖(塔)と開山堂、小野寺稲荷と上がるにつれて見どころが続き、寝そべったシマヘビを避けながら観音堂。たいした高さを登ったわけではないが、暑い陽があたってすでに汗だくだ。これで終わったわけではなく、フィニッシュは岩の上に建つ奥の院。宝篋印塔があった。円仁の座禅修行の場だったとのこと。一つずつ、説明版を読んでいれば時間もかかる。そこで感心しながら突っ立ったままでも汗はかく。
(ヤブめいた道を登る)
(諏訪岳だろうか)
(村檜神社からのふれあい道が右下から上がってきて合流。今回は、ここが一番風通しが良かった。もっとも帰路では風が消えていた)
すでに手拭いはぐっしょりになり、頭の帽子の隙間からは汗が流れ落ちる。この先はヤブめいてはいたが、間もなく、村檜神社から続くふれあい道に合流した。ふれあい道は樹林の中の日陰を通っていて、風も流れていた。
(諏訪岳分岐の手書き案内。諏訪岳の先に×印があるのが気になった。まさか、そちらを下ることになろうとは)
(特に急とは思わなかったが、ロープがあるから急なのだろう)
(何か知らないが)
(石祠を見かける。扉には逆卍が記されている。ナチスのハーケンクロイツみたいだが、卍の異体字でもあるようだ)
ほどなく、諏訪岳の登り分岐になった。諏訪岳目的で来たのに、巻き道を行くわけにもいくまい。きついなとは思った。現にロープ場が3か所にあった。ロープは使うまでもなかった。というよりも、ロープは右手にあり、ストックはいつも右手だけのこと。何度か立ち休みをし、ようやく上が開けたところが見えた。その間、気づかずのうちに風は消えていた。
(緩くなったので山頂かと思ったがまだかいな)
(この藤坂RGとは?)
(ようやく諏訪岳に到着)
(山頂から。左奥は富士山ではなかろう。浅間山だろう。右手には赤城山も見えていた)
(山神石碑)
緩くなったのに山頂はまだ先だった。岩が現れ、石祠も見かけた。今年の三月にここを歩かれたぶなじろうさんは、この石祠の扉を開けたら何もなかったとのこと。屋根の造りからして、神社のようだ。ということは、村檜神社がらみなのかもしれない。年号は弘化と読める。幕末も近い頃だ。
右下に向けて「藤坂RG」の手書きプレートがあった。RGとは何なのか知らず、まさか<Rojin Group>なのかなと思ったりもしたが、そちらを見ると、踏み跡レベル未満の窪みらしいのが下っていた。帰ってから調べると、岩登りの練習場らしい。まだかと思っているところで、ようやく諏訪岳山頂。だれもいない。かすかな記憶はあった。特徴的だった赤文字の大きな山名板はなくなっている。山頂の広さは八畳一間。標柱のない四等三角点標石がポツンとあり、それよりも一回り大きな角張った石碑が後ろにあり、かろうじて「山神」らしき文字が読み取れる。備え付けの寒暖計は20℃を指している。少し開けた南から風がかすかに流れ込む。水を飲んで休憩し、いつものセルフ撮り。顔は逆光で暗くなっていた。汗が相変わらずボタボタ落ちる。
(これが×印の正体だったが、そんなことはこの時点では知らず、京路戸公園には行けないだけと理解して下った)
(人気の低山なのに道が細い。間違いに気づいて戻る)
(再び山頂。左から登って来ていたが、ここを下ればよかっただけのこと)
長居は無用。自分で決めた往路の持ち時間はあと一時間。この先がいけなかった。いつものパターンだ。そのまままっすぐに下った。方向としては北。かなり急だった。5分ほど下って、踏み跡が細いのはおかしいなとGPSを見ると、とんでもない方向に下っていた。山頂に戻る。また汗だく。よく確認すると、南西に下る太い道筋があった。時間と体力をロスした。「シカを追う者、山を見ず」のことわざは、自分にはいつものようにしかりだ。
下って行くと、暑い、暑いと言いながら親子連れが登って来た。今回、唯一出会ったハイカー。他にハイカーではなさそうなオバちゃん一人。20℃とはいいながらも、こう陽射しが強くて風もないのでは、体感もまた30℃近くなる。夏の低山に涼を求めること自体に無理がある。これからは長い歩きの里山探索なんかしていれば、身体に変調をきたすだろう。今年は例年超えの猛暑らしい。さりとて、車で行けるのならともかく、下界より10℃以上は確実に気温の低い2000mを超える高い山に登る自信はない。ただ、この標高気温とてあてにはならず、知り合いに、真夏の常念岳で5日過ごし、熱中症になって下山したのがいたが、体調の不調は暮れまで続いたとぼやいていた。気温は低くとも直射日光は強くなる。
(景色を眺められるスポットは限られている)
(諏訪岳の巻き道に出た)
西側の展望がたまに開ける。木立が続いてすっきりはしない。三毳山はどこかなと探しても、西側に見えるはずはなく、かろうじて赤城山と浅間山だけはわかった。そのうちに視界も幾分広くなり、右下にソーラーパネル群と佐野の街並み。この先の稜線を眺めると、電波塔が見える。後で調べたが、大櫃鳥屋という名のピークらしい。自信はない。
巻き道に合流。諏訪岳には、こちらから登った方が楽なようだ。持ち時間の残りはあと40分。せめて292m標高点まで行っておきたい。
(京路戸峠。初めて諏訪岳に来た時には、京路戸公園からここに出ている。ここまでわずか10分くらいだった)
(巻き道を横目に尾根登り)
(妹背山。山名板見つけられず)
(京路戸とんび山)
(とんび山にはこんなのがあった)
京路戸峠は素通り。ここまで、峠まで0.7kmやら0.3kmの標識は見かけたものの、見損じたのか、ここに京路戸峠と記された表示板は見かけなかった。峠はここでいいのか気になった。ベンチがあるのでそうなのだろうと思うしかない。
すぐに巻き道はとおらずに尾根を登る。苦労もせずに小ピーク。確か妹背山のはずだが、日陰になっている木に同化していたのか山名板は見つけられずに先で巻き道に下る。次のピークは藁の囲いに収まった紙垂が置かれているが、ここは京路戸とんび山。紙垂があるくらいだから信仰の対象なのだろう。
(この先、階段が結構出てくる)
(階段を登ると北見明岳)
(この先、きつそうな気配)
木の階段が出てくる。歩幅が合わずに脇を登る。登り切ると北見明岳。ここに巻き道はなく、だれもが通るピークだ。ここまで、樹林帯の無風の中の歩きが続き、いささかうんざりしていたが、前方がちらりと見えた。ここよりも少しばかり高いピークが見える。短時間ながらも、何となく飽きてきた。やっていることにあまり意義を感じない。ただ、やってしまった以上はやるしかない。つまらなく感じる山だからこそ、何らかの目的を持って歩かなきゃ余計につまらなくなるものだ。文句たらたらで二度と行かないでは、山の立場からすれば立つ瀬もあるまい。自然が造り上げたのだから。
(牛ヶ背)
(南見明岳)
少し下って登りかけると牛ヶ背。ここもピークの一つなのだろうか。この辺は微妙な高低差のところを歩くからか、地形図では読み取れない。そしてまた歩幅の合わない階段を登ると南見明岳。11時24分。出発からあと一分で2時間だが、もう一山行ってみるか。しかしながら、ここの尾根歩きはまったく展望がない。暑くとも、景色を眺めながら歩くのを期待したのは大間違いだった。そのためなのか、風の通りが悪い。
(今日のところはこれが最後だな)
(意外にきつかったので右から巻く)
(貝吹鳥屋)
(山名板)
また階段を上がって、巻き道から離れて尾根道へ。ここは少しばかりきつかった。そのため、途中から薄い踏み跡の直登は避け、踏み跡のしっかりした右手から巻き、戻る形で貝吹鳥屋・292m標高点に到着。11時35分。何もない、山名板があるだけのピーク。当然、展望もなく、強いて記せば、新緑がきれいなだけ。出発から2時間経ったから引き返そう。先に行ったとしても、この暑苦しさでは唐沢山はまだ遠くきりがなく、これ以上に、汗みずくで歩きたくない。なんとか風にあたりたい。これが願望だ、
ここでまたミス。気がつけば北尾根を下っていた。諏訪岳でもミスしたのは北尾根。余程に頭のコンパスは北向きなのだろう。ただ、このミスには幸いなことがあった。京路戸峠あたりから腹がグズグズし、歩きながら適地を探していたが、登山道の脇では、離れていても落ち着かないだろうと我慢していた。諏訪岳で親子連れに会わなかったら、その辺で済ませたかもしれない。ここでミスに気づき、だれかが歩いて来るはずもないと安心して済ますことにした。緊急時はいつも速攻だ。ヤレヤレ落ち着いた。思えば昨年11月の晃石山以来だ。あの時は、紅葉の時期だったためハイカーも多く、電波塔から大分離れたヤブの中だった。こういうのはクセなのだろう。そうならないように、出がけにはかなり気を遣うが、トイレを見て条件反射的になってくれればありがたいものを、何も感じることなく、山中に入ってから、こんな事態になる。体験談には事欠かないが、この話はもうやめよう。ここで、なぜか知ったかぶりを記したくなった。もう何十年も前に西丸震哉の随筆を読んだら、古代人は、その際、集団から離れ、立ったまま、あるいは歩きながら用を足していたと書かれていた。犬とてしゃがむ。余程に消化も良かったのだろう。何ということもない、それだけの話だ。実は、この日の夕食は妻と久しぶりに外食したが、隣の席で、外人の小娘相手に博学ぶりを披露しているオヤジが、「トイレ」と「お手洗い」の言葉の使い方についてクドクドと説明していた。声も大きく、まる聞こえ。不快で、いい加減にうんざりして、「今、食事中ですから、トイレの話はやめてもらえませんか」と文句を言いに行った。二人はバツが悪くなったのか、すぐに店を出て行った。小娘は「スミマセンデシタ」とオレに頭を下げた。その数時間前のオレは、トイレ、お手洗い、便所、御不浄といった施設の範疇ではない自然の中だった。
(ふれあい道の銘板)
(京路戸峠まで0.4kmとあるから、諏訪岳か?)
帰路はひたすら巻き道を歩いた。小ピークを通らざるを得ないところもあった。貝吹鳥屋からの巻き道との合流点には、ふれあい道の銘板が置かれ、村檜神社まで2.3kmとあった。ここのふれあい道は村檜神社と田沼駅を結んでいるようで、ここから田沼駅までは5.0KMになっている。つまりは全長7.3km。神社までの2.3kmはえらく長く感じた。景色もない樹林の中を延々と歩くから余計だ。
(峠通過)
(諏訪岳の登山口も素通り)
(ここで三毳山を発見)
京路戸峠を通過し、諏訪岳の登り口も素通り。チラチラと右に見える景色には足を止めた。神社まで0.7kmの地点に差しかかる手前だったろうか。年増の女性とすれ違った。この女性、服装からしてハイカーでないことは確か。手に小さな荷物を持っているだけだった。どこに行くのだろうと思ったが、時刻は12時15分くらいのことで、想像をたくましくすれば、山仕事をしているダンナに弁当でも持って行くのだろうか。だが、道中で正午の時報は聞こえたが、山仕事の音を聞くことはなかった。近道でここを通ったとすれば、相当に屈強な女性なのだろう。
(村檜神社に下っている。とにかく風もなく暑い)
(石祠があるからそろそろ神社だろうか)
大慈寺分岐を過ぎる。涼しくなるのを期待したのに、風はすでに消えている。石祠があった。胴体部の両サイドには、花のような絵柄が彫られている。その先は道があちこちに分岐して、どこを行けばいいのか悩むところだが、こういう標識のないところは大方が先で合流する。都度に幅の広い方を下る。
(西宮神社)
(まさか紅葉してんじゃないの?)
(村檜神社)
(新緑モミジ)
(ここに塔があったのだろう)
(鳥居)
西宮神社に到着。これは何なのか、後ろの樹の葉が紅葉しているかのようだ。そして村檜神社。人の気配はまったくない。ひっそりと佇んでいる。創建は646年とのことで、隣の737年の大持寺よりも100年近く古い。見どころがもっとあるかと思ったが、それは残念ながらなかった。無意識のうちに大持寺と比較してしまったからだろう。ところで、恥ずかしながら「村檜神社」の読み方を知らなかった。「ムラヒノキ」では語呂が悪く、「ムラヒ」なのかなと思ったりしたが、確かに「ムラヒ」だった。
(大慈寺。ここにも紅葉)
(アップで)
大持寺に戻る。さっきから不思議だったが、ここでも色のついた葉があり、よく見るとモミジだった。秋のモミジとは種類が違うのだろうか。村檜神社には新緑のモミジもあり、その時季にはかなりきれいだろう。
(小野小町の墓の看板。矢印の方向には民家)
寺の駐車場に着いて、一服して休んでいると、近くに<小野小町の墓>の看板が見えた。行ってみた。だが、矢印の向いた方向は民家があり、周囲を見ても墓がどこなのかわかりかねて断念。後で調べると、あぜ道のようなところを行くようで、お堂風になっているらしい。
そのまま帰宅。車載温度計はすでに32℃になっていた。途中のコンビニでタバコ買いついでに冷たい飲料でもと思い、セブンに入ろうとしたら、オッさんが店からアイスクリームを舐めながら隣の車に戻って来た。迷わずにアイスにした。久しぶりに買ったら、150円くらいだったのが300円になっていた。知らぬ間に物価がとんでもなく上がっている。物価どころではない。先日、市から届いた介護保険料は39%の値上げになっていた。他の自治体に比べても高過ぎる。桁が違うのではあるまいか。アイスを舐めながら余計なことをぼやいてしまった。
(今回の軌跡)
この地図は電子地形図25000(国土地理院)を加工して使用しています(令和元年手続改正により申請適用外)
村檜神社から2回ほど登っているのですが、大慈寺からの登り方が分からず、次回は適当に登ってみようと思っていたところでした。取り敢えず奥の院を目指せばいいようですね。
唐沢山から歩く場合、山頂付近のレストハウス(蔵屋敷)と大炊の井の間に「唐沢城跡山頂縄張り図」が置いてありました。これを見ながら歩けば多少なりとも暇つぶしにはなるかもしれません。意外と城跡として残存状況はいいほうだと思います。
1年中赤いカエデが最近増えていますよ。安行の植木屋さんでも見かけます。秋になると多少赤さが増すみたいです。
大慈寺から歩いたのは初めてでしたが、特別な登りルートといったものはなく、ただ、上を目指して登ればよいだけのことです。何もない村檜神社の上よりも、諏訪岳に行かずとも、奥の院まで歩くだけでも恰好な見物歩きにはなるかと思います。
唐沢山の情報ありがとうございます。初めて行く山ではないですが、記憶はまったくありませんから、次回は猫だけではなく、城郭跡といった感覚でいろいろと見物しようと思っています。実は、今日、行こうと思っていましたが、寝起きの気分がよろしくなくやめました。ぶなじろうさんが中禅寺湖南岸尾根を歩こうとしてやめたのとはまた違う次元でしょう。しかしながら、そんなお気持ちになること、今の私には浮かびもしないですけどね。
カエデの件、あれはモミジではなくカエデなんですかね。赤いカエデというのもまた不思議というよりも、増えているということが異状な感じがします。