池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

幼い時の周りの自動車

2012年05月10日 | 昔の事
何回かこのブログでも記しているが、私は大阪市大正区で生まれ西区で育った。
その西区の思い出を話しようと思う。
本当に小さい頃から自動車が大好きで、車名を覚える事なんぞは天才的であったようだ。
丁度、3歳ぐらいから18歳まで過ごした中央大通りとなにわ筋の交差点付近は
今では、四ツ橋筋の東側の天空を貫く阪神高速環状線から大阪港や湾岸線方面へ向かう
高架道路で今はその場所から空を仰ぐ事はできないのであるが、
私が自転車の練習をしたのは、まだ、中央大通りが建設中で緑地帯として
フェンスで覆われていたように覚えている。
その中に入って自転車の初乗りをした。

今でも残っているので有るが、錢高組の本社屋がその交差点の北西角にあり
その裏に日野自動車オンリーの整備工場が有ったように記憶している。
でも、地道(未舗装路)の路上で傘を差してオイルを路上に垂れ流して
整備していてあのオイルの匂いと軽油の匂いを今でも懐かしく思い出すときが有る。

リンゴ箱だけの運転席の車、全く車体の無い骨組み(シャーシ)だけの車体や
でかいタイヤがその道路に無造作にあふれていたのを思い出す。

亡き母は、そこを通る度に雨の日などは足が汚れて困る事を言っていたし、
その近所にお風呂屋さんがあり、父親に連られてそこへ行く時には
その車達に会えるのがすごく嬉しくもあったりした。

電話ボックスのような運転台の車が運ばれて来ていて、
後日その車にコンクリートミキサーのロケットが架装されていた事が
驚愕であった幼い私の輝く瞳であった。

又、錢高組の交差点の、南東角、今の吉野家の有るビルの場所は
梅田運送という運送会社が有って毎日大型車の出入りで賑わっていた。
これも一人で見に行ってはよく「危ない!」と親にしかられた記憶が有る。

そこから少し南に行くと、GOOD-YEARのタイヤのショールームがあり
多くのタイヤと高級アメリカ車が展示して有るショールームであり
我が家からの二階から巨大なあのウイングフットのマークが屋根越しに
眺める事ができた。
何度も何度もあの図案をクレヨンで書いてみようとしたのであるが・・・・
全く出来ないでいた。

その北隣は寺岡君の家で、彼の家の稼業は自動車の電装屋であった、
職人さんがいてその作業場を抜けて寺岡君に会いに行く。
いつも酸性の匂いがしていたし、何をしているか?
幼い私には全く分からない場所であった。

私の家の東隣のモータープールには村瀬君のお父ちゃんの
VWタイプ3が毎晩居てたし、
その東隣はサイン工芸というトヨタ車が多かったが
自動車にペンキで図案や商号を入れる看板屋さん。
この光景も鮮烈で、カッティングシートを張る今の看板屋さんとは全く違う手法で
マスキングテープを指定された図案や文字フォントに切り出しカッターで切り抜いて、
そこに、スプレーしてマスキングを剥がし焼き付けていた。
井上君のお父ちゃんの仕事がそうであった。
その勤める職人さんが乗っていたスズキフロンテSSとサニーB10のクーペ
この2台は本格派でロールゲージが組んであった。

家の前に親戚が工務店を経営していて、トヨタ・コロナとマツダ・ロンパーが居た。
月に数回、いすゞ6トンダンプ。



私の家は、父親の勤める会社の倉庫の二階に住まいしていて、
毎日、いすゞエルフが裏口に居たし、トヨタダイナが2台、
プリンスホーマーが一台、クラウン、クラウンバン、ダイハツハイジェット、
毎日和歌山へ過積載で向かう三菱ジュピター、
月に数回、徳島からこれでもかと過積載でやってくるダイハツ三輪

その隣が、カリマンタンという何屋さんか分からないが倉庫があり
その前に最新のいつも日野コンテッサクーペ。

町内で一番美しい車。

そんな、あの日の日野自動車に今でも造詣エレガンスを
車に求めようとする心中奥底に有る事は確かだ。

なぜ・・・・・・こんな事をいきなり書き出したか?



懐かしい看板を見た。
京都日野自動車に所用で訪れたら、会社員(このブログにコメントを頂いた。)さんが
地下倉庫の掃除をしていて「古い看板だ!」と手に持って言っていた。
日野コンテッサクーペを展示していた時の手書きの車両説明のショールームの看板。
残念ながら、それを写真に納めるのを忘れた・・・・・。
明日、電話して写真を頂戴と・・・・・・。

1975年度課題曲(B) ポップス・オーバーチュア「未来への展開」


そんな大阪での生意気自信満々の中学生時代の悲惨な思い出。
吹奏楽コンクールの課題曲。
たぶん、銀賞の結果に終わったのは自由曲での私のミス!
よく見る高校野球でのエラーによる逆転負けのようなもの。
そのエラーしたのが中学生のTrp1stプレーヤーが私である。

油断の《G》に泣いた。

未だにその時の失態を悩んでいる。

あの時を以って全く楽器から遠ざかった。
触る事さえなくなった。

しかし自動車への興味は未だに引き続いている。